第4話

 アパートの扉は重かった。開けるときにも引っかかりはあったが、閉めるときのほうがガタガタ音がうるさかった。

「ああ、誠司、帰って……」

 玄関で立ちすくむ俺に、母さんは言葉を切った。その目は見開かれていた。

「傘は? 持っていかなかったの?」

 青い傘が思い出された。大人が持つような傘は、俺の自慢だった。でも本当は少し重く感じていた。

「ま、まあとにかく、風邪引いちゃうから……」

「……マリって誰」

 見えなかったけれど、洗面所でタオルを出していたであろう母さんの動きが止まったのがわかった。

「セイイチ、って……誰」

「な、何を……」

「俺は、偽物だって」

 波打つ心情に反し、自分でも驚くくらい優しく穏やかな声で、俺は話していた。

「うちは偽物だから父さんは帰ってこないんだね」

「……誰に言われたの、そんなこと」

「誰に言われたとしてもさ、俺は、この家は、偽物なんだよね」

 そう言いながら俺は靴を脱いで廊下に上がった。これで辻褄が合うと思った。父さんにはねだると何でも買ってもらえるのに古いアパートに住んでいることも、この家には立派過ぎるオーディオセットも、父さんが俺の青い傘を子供用だと勘違いしていたことも。きっとティラミスをよく作っているのは、あのマリという人の家だ。父さんはそれをよく見ていたのだと、俺はもうこのときには気付いていた。うちには金曜日の夜遅くにしか帰らない――『来ない』というべきか――、それも毎週ではないのに。

 手品マジックの種明かしができたようで爽快な気分が湧いてきたのを覚えているが、自分がどんな顔をしていたかはわからない。もしかしたら微笑んでいたかもしれない。母さんは黙ったまま俺の濡れた背中を押し、風呂へ連れていった。他に言葉は浮かんでこなかった。自動的に服を脱ぎ、自動的にシャワーの栓をひねって湯を出した。短い髪をかき分けて落ちていく湯が気持ちよかった。涙は自動的に湯に混ざり、流されていった。


「父さんの名字は、何ていうの」

 風呂を上がり、俺はリビングに座る母さんに尋ねた。母さんは観念したように、メモ用紙に「内館 うちだて」と書いてくれた。

「へぇ、内館うちだて雄一ゆういちっていうんだ。小野田おのだ雄一だと思ってた。ということは、あっちは内館マリ、内館セイイチ、だね」

 薄く笑っていたと思う。笑いが込み上げてきて、あははと声に出すと、母さんは悲しそうな目で俺を見た。

「……黙っていて、ごめん」

「いいよ、大丈夫。俺、とうさ……あの人にはもう会いたくないけど。あーあ、今日もっとマンガ買ってもらえばよかったな」

「誠司……」

「いいじゃん、どうせたまにしか来てなかったんだし」

 嘘ではなかった。本当に、たまにしか来ていなかった人が来なくなったからといって、どうってことないと思っていた。

 俺は母さんの顔を見ていたくなくてリビングの端に置かれたランドセルに視線を移し、ごそごそと宿題のプリント用紙を出した。

「買い物に行ってくるわね」

 母さんが閉めた玄関のドアは、湿った空気の中でいつもより重い音を出しているように聞こえた。


 俺はその日を境に、おとなしい子供になった。学校で馬鹿みたいなことを言って馬鹿みたいに笑うこともほとんどなくなった。でも時々、突発的に暴れたくなる衝動に駆られたりもした。そんなときには歩いて三十分かかる山へ行って、むやみに木の枝を何本も折ったり、アリの巣をほじくったりしていた。ヒルを足で踏み潰したりもした。いくらでも湧いてくる虫なんて生きていても鳥や動物の餌になるだけだ、死ぬのが少し早まっただけだと自分に言い聞かせ、簡単にできる殺戮を楽しんでいた。


 昼休みは図書室に入り、ぼんやりと児童向け図書の背表紙を眺めて過ごすことが多かった。あるとき、奥の棚に『本格的ドルチェの作り方』という本を見つけた。ドルチェが何のことかわからなかったが、ロイヤルブルーの地にアイボリーの文字で書かれた背表紙が気になり手に取ってみると、イタリアンデザートの作り方が詳しく載っていた。

 俺はその本が欲しくてたまらなくなった。放課後にまた図書室へ行き、ランドセルに『本格的ドルチェの作り方』を入れ、家に帰った。

 ティラミスを作りたくなった俺は、母さんにねだって必要な材料を買ってもらった。母さんは驚いていたけれど、特に反対されることはなかった。

 最初に作ったティラミスはゆるすぎて四角い形を保つことができず、失敗に終わった。しかし夏休みに入り、何度か作っているうちにこつを掴んできたのか、おいしく作れるようになった。

「こんなにおいしいの作れるようになるなんて、誠司はすごいわね」

 そう母さんが言ってくれるのがとてもうれしかった。そうして、山へは行かなくなった。

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