第5話

水気を含んだ重々しい雪が、昨晩の穏やかさをかき消すように降りしきっていた。

音すらも吸収してしまう程に、硬く閉ざされた厚い雲が、空を覆い尽くしている。

ただ、歩いているだけでも視界に入る雪が、ローガンの苛立ちを増幅させていた。

長時間に渉り、足を埋めたままの歩行に、両足は鉛の様にずっしりと重かった。

数メートル先も視認できない程の酷い吹雪に、何度も舌打ちが繰り返される。

鬱蒼と生い茂る木々は枝葉をくねらせ、大袈裟に身を震わせている。

その姿は、異物である自分を排除したいが為に、目の前に立ち塞がっているようにも感じられた。


ゲイルと出会ってから、どこか感情の起伏が激しいことに、ローガンは気付いていた。

自分の意志とは無関係に、感情が浮き沈みすることを不快に思う一方、その不安定な状態が正常なものであるような気もしていた。

いつもなら、吹雪程度で感情が乱れるなんてことは、あり得ない。

きっと、これは、悪天候への苛立ちではない。


教都への帰還が遅れるということは、それだけゲイルに会う機会が失われることに他ならない。

それが原因で、自分は焦燥感や苛立ちを募らせている。

“こんな状態は異常だ”と意識しながらも、一度意識してしまった感情はそう簡単に拭うことが出来なかった。

彼のことを考えないようにしようと思えば思うほど、考えてしまう自分に嫌気が差す。

そんな悪循環に陥っている現状が、尚のことローガンの感情を逆撫でした。


当たり散らすように雪を蹴り上げれば、水分を多く含んだ重い塊が、頬に張り付いた。

顔に纏わりつく不快感に、また一つ、大きな溜息を吐いた。

苛立ちを振り払うように頭を振れば、髪の毛に付着した細かな結晶が辺りに飛び散っていく。

すっかり濡れそぼった髪から滴り落ちる雫に、また眉間に深いしわが刻まれた。

急速に奪われていく体温に、体力の消耗を感じると、身体の芯まで冷え切ってしまう前に、少しでも早く目的を果たそうと歩調を速めた。

ようやく見慣れた景色が見えてきたことに安堵すると、次第に歩く速度が落ちていく。

普段なら不愛想に感じる落し格子が、今日に限っては救いにすら思えた。

遂に辿り着いた城門にかかる跳ね橋を前に、足が止まる。


「……………」


この橋を渡り終えれば、ゲイルと出会う以前の日常に戻ることになる。

そう考えると、何故か無性に胸が痛くなった。

重石がのしかかったように、心臓が鈍い痛みを放ち、指先が徐々に冷えていく。

どう形容すれば良いのか分からない複雑な感情が、ローガンの中に芽吹いた。

ふとした切っ掛けで得た、たった数日だけの温もりは恐ろしく暖かく、手放すには惜しいとさえ思えた。

心の中に巣食った感情をうまく処理しきれず、消化不良を起こしたかのように、胃の辺りが重く痛む。


それでも、彼と必要以上に接しない方が、互いにとって最善であることは理解していた。

今までにない繋がりを持つということは、どんな些細な事でも、互いの身を滅ぼしかねない。

ゲイルにだけは自分の領域を侵されたくないというと語弊があるが、踏み込んでほしくないという感情がローガンの中にあった。

というのも、たった数日、共に過ごしただけの人間にここまで心を揺さぶられるとは、予想の範囲を超えていたからだ。


これ以上彼と関われば、彼の優しさを独り占めしたくなる。

この感情や感覚が、友情や家族愛とは明らかに異なるものであることは分かっていた。

ただ、自分がゲイルに対して抱く感情がなんなのか、理解したくはなかった。

だからこそ、彼が当たり前のように与えてくれる暖かな感情を遠ざけたかった。


意を決して踏み出した足は鉛の様に重く、思うように進まない。

それでも、城門を潜る頃には、いつものローガン・フォードに戻っていた。

この街の統治者の自尊心と同様に、実に仰々しい螺旋階段が、眼前に聳えていた。

まるで、その厚顔を踏み潰すように乱暴な音を立てて、ローガンは螺旋階段を上り始める。

大理石の石段にローガンの足音が響く度に、金や銀、宝石が装飾された飾り金具が鈍い音を立てて揺れる。

その音は、まるでローガンの心情を表しているかのようだった。

強固な門扉をくぐる頃には、肩に降り積もる雪を払い落とすことすら億劫に思えた。


ようやく辿り着いた聖堂の入口の脇に控えた衛兵に一礼をして、礼拝堂へと続く廊下を歩む。

そして、最奥に鎮座する神の像の前で膝を折ると、ゆっくりと頭を下げた。

これは信仰などではない。単なる習慣だ。

その行動が、いつもの自分へ戻る合図のように思えた。

目を閉じ、深く呼吸を繰り返せば、胸に渦巻いていた感情が嘘のように霧散していく。


静寂に満ち溢れた空間では、自分の呼吸音すらも鮮明に聞こえた。

やがて、瞑目したままの瞳を開くと、そこには何時もの冷静沈着で冷徹な男が立っていた。

感情の起伏が乏しい表情に、凍るような視線。

その瞳には、神への忠誠も、民草に対する慈しみも存在しない。

あるのはただ、教都を守る為だけに存在しているという使命感だけだった。

それこそが、教会騎士団に所属する騎士としての、正しい姿なのだと、彼は信じている。


踵を返すと、来た道を戻り、回廊の奥に佇む重厚な両開きの扉を押し開けた。

厳粛な雰囲気に包まれた部屋の中には、年季の入った執務机に向かっている男の姿があった。

男は、ローガンの姿を目にすると、一瞬だけ口元に笑みを浮かべたが、すぐにそれを消して、再び書類にペンを走らせ始めた。

初老を迎えたばかりだというのに、年齢を感じさせない程に鍛え上げられた肉体に、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた精練された風貌は、威風堂々としている。

ローガンの父であり、この国で絶対的な権力を誇る聖騎士団を統率する大司教でもある人物だ。


生死不明の息子が帰還したというのに、彼の視線は書面に向けられたままだ。

その姿を目の当たりにしても、ローガンの心は波立たなかった。

それは、父親である彼から愛されていないことを知っているからかもしれないし、この親子の間に愛情が存在しないからかもしれない。

どちらにせよ、それが彼の日常であったし、今更、心が動くこともないだろう。

淡々と用件のみを述べると、早々に退室しようと踵を返した。

途中、引き留める様に大司教の声が、背中越しに聞こえてくる。

だが、ローガンはその呼びかけには応えなかった。


父親と自分の間に、親子らしい感情や言葉のやり取りを必要だとは感じなかったからだ。

大司教は、そんな息子の様子を暫く見ていたが、諦めがついたのか、再び手元に視線を落とした。

彼の関心が書類に向いていることを確認すると、ローガンは音を立てないように扉を閉めた。

途端に深い溜息が零れ出る。

全ての雑念を振り払う様に、足早に回廊を歩んだ。

その音を追うように、豪快な足音が耳に届く。


「ローガン!無事で何よりだ!!」


廊下に響き渡るほどの大声を張り上げて近付いて来たのは、聖騎士団副長補佐でもあり、ローガンの古くからの友人でもある、カミーユ・ラペイであった。

彼を一言で表すならば、大きな体躯と筋肉の塊を持ち合わせている男だ。

健康的な肌色と、雄々しい髭、そして巨大な斧を武器として愛用していた。

騎士と呼ぶには、些か粗野な風貌だ。しかし、その性格は実直で、曲がったことが嫌いな熱血漢だった。

その為か、周囲からは疎まれがちではあったが、その人柄を慕う人間も多い。

ローガンにとって、数少ない友人の一人でもあった。

その彼が、珍しく焦燥した様子で駆け寄って来る。


普段であれば、その巨体に似合わない俊敏な動きで、ローガンを軽々と組み伏せることが出来るだろうに、今日に限ってはそれさえも忘れてしまったようだ。

ローガンは、呆れたような顔付きのまま、両手を広げた。

その意図に気付いたのであろう、太い腕がローガンの身体を抱き締める。

全身を覆う鎧のせいで、彼の体温を感じることは出来ないが、その分厚い胸板からは力強い鼓動が伝わってきた。

思わず苦笑いが浮かぶ。

彼が心配してくれていることは素直に嬉しかったが、その行動は些か暑苦しかった。


「……暑い、汚い、臭い」


ローガンが不機嫌そうな声でそう呟くと、再会を喜んでいた筈の彼は、あからさまに肩を落した。


「おっまえ、ほんと、最悪!心配して損したわ」


その口調とは裏腹に、彼は安堵の表情を浮かべていた。

そして、気を取り直すかのように咳払いをする。


「やーっと、戻ってきたことだし、飯でもどうだ?」


屈託のない笑顔を向けられて、ローガンの口元にも自然と笑みが灯る。

友人との久方ぶりの食事は魅力的だったが、生憎と先約があった。


「すまない。この後、用事がある」


その言葉を聞いた瞬間、カミーユの顔つきが変わった。


「えー、なに?女?」


「いや、女じゃない。気になるやつがいるだけだ」


「……は?……朴念仁のお前がか?……え、マジで言ってる?」


その反応も無理はない。

今までの人生の中で、ローガンが他人に興味を示すことなど皆無だった。

それがいきなり、特定の人物に興味を持つようになったのだ。

カミーユの反応も当然のことだろう。

俄かに信じがたい話ではあるが、嘘をついているようにも見えなかった。

とはいえ、目の前の人物に、そういった感情があるのかどうかさえ疑わしい。

長年一緒にいるが、彼の表情が緩む姿など、ほんの数度しか目にしたことがなかった。


「…ちょ、その話詳しく!お前やっぱ、今日の夜、酒場に来い!絶対だ!」


食い気味に身を乗り出したカミーユを横目に、ローガンは小さく嘆息を漏らすと、口元に笑みを浮かべた。

それは、僅かな変化ではあったが、確かに笑みと呼べるものだった。

しかし、ローガン本人ですらも自覚していないほどに些細なもので、それを見逃さなかったのは、長年の付き合いがあってこそだろう。

ローガンは、一瞬で無表情に戻ると、踵を返して歩き出す。

その後ろ姿を見送りながら、カミーユは口の端が疼くのを感じていた。

やがて口の端を上げて笑みの形を象ると、興奮冷めやらぬままに、音の外れた鼻歌と共に姿を消した。


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