第4話

湿っぽい山道を歩きながらゲイルに手渡された紙袋の中身を覗き見ると、バターの美味しそうな匂いを纏った食べ物と、瓶詰めにされた野草、綿布が何枚か入っていた。

自分の生活もままならないくせに、と詰る気持ちと慣れない優しさにむず痒さから、心臓を掻き毟りたくなった。


他人からの好意を無防備に受け取ることに慣れていないせいもあって、素直に感謝を口にするのは苦手であった。

それでも、彼の見返りを求めない優しさに対して何も言わずにいるのは失礼だと感じて、不器用ながらも言葉を紡いだ。

まるで自分の声とは思えないほどに掠れた音ではあったが、その言葉に対する反応は驚くほど甘やかなものだった。


ゲイルの頬が紅潮していく様を見て、胸の奥が焼けるような錯覚を覚えた。

沸き起こる得体の知れない感情を振り払う様に乱暴に歩みを進めていく。

気付けば、慣れた雪道が目の前に現れた。

日も暮れかかって来ていたため、山越えに向け、麓の集落で一夜を過ごすことにした。

廃れ切った宿屋の主人は、突然現れた客人を一別した後、欠伸をするように言葉を溢した。


「部屋は空いている。好きに使ってくれ」


そう言うなり、奥の部屋へと消えていった。

静まり返った室内は、耳鳴りがするほどに寂れていたが、それでも寝泊まりするには十分であった。

灯した蝋燭の光を頼りに、ベッドに腰掛けると、手にしていた紙袋を開いた。

包みの中からは飾り気のない田舎パンが現れた。

すっかり冷えてしまっているのに、彼の優しさが温度として残っているようにも見えた。


躊躇いがちに口に運ぶと、バターの香りと僅かな甘みが口に広がった。

じわじわと湧き上がってくる嬉しさに、知らず知らずのうちに口元が綻んでいた。

それと同時に、彼の生活に負担を強いてしまったのではないか、と思うと複雑な心境に表情が曇りだす。

なんだか彼の純粋な行為が、自己犠牲に慣れてしまっているようにも思えて、少し胸が痛んだ。


食事はただの燃料補給、いわゆる作業だという認識で生きてきた。

もっと言えば、自分に渡される食事には少なからず邪な感情が込められている気がして、美味しいだなんて思ったこともなかった。

それなのに、今、口の中に広がる匂いや、味は、心底温かい。

ただひたすらに、優しい味だった。


ゲイルと出会って、彼の温かい感情に触れる度に、枯れ果てたと思っていた心に、ふとした時に水が満ちるのを感じる。

満たされてはいけないと思うのに、心が渇望する。

それ程までに、彼の与えてくれる温かさは、ローガンの中に蓄積されていた心の淀みを溶かしつつあった。


ローガンは口内に残るバターの香りを楽しみながら教都に着いてからのことを、ぼんやりと考えていた。

教都に戻れば、またいつも通りの日々が始まる。

以前と同じ様に規律正しく、無機質な音が響くだけの生活になるだろう。

何も変わらない毎日に、なんの疑問を抱くことなく、ただ流れるだけの人生で良いと思っていた。


生きることに“意味”などというものは存在せず、ただ、自分の役割を果たすだけの、つまらない人生を歩いている最中だった。

それでいいと思っている自分がいた。

必要以上の干渉を断ち、誰に対しても一定の距離を取り続ける。

それが、最も息のしやすい生き方でもあった。

いつもの様に、何事にも深入りしない生き方をするつもりでいた。

しかし、同時に、この何もない生活に変化を望んでいる自分もいた。

燻り続けていた思いが、ゲイルとの出会いで一層増したように思う。


極端な話をすれば、自分の心の中に留まる人物は僅かにしか存在しない。

なにより、執着する存在を持つことに、恐怖を抱いている自分がいた。

自分の意志では、コントロールのできない感情を持ってしまうことが、酷く恐ろしく、同時に自分の領域を犯される事への嫌悪感が、他人に対する隔たりとなっていた。

その隔たりを、ゲイルの優しさが、じわじわと溶かしていく。

毒気のない純粋な優しさに絆されているだけかもしれないが、ローガンにとっては感情が動くということ自体が久しいものだった。

だからこそ、芽生えた感情をどう扱ってよいか分からないという戸惑いもあった。

なにより、この感情の行き着く先を考えることを本能的に恐れていた。


きっと、答えを見つけてしまったら、今まで通りには生きていけない気がしたから。

そこまで考えて、ローガンは自嘲気味に鼻を鳴らした。

たった数日で、随分と人間らしい感情を持つようになったものだとも思った。

これも、全てはあの臆病でお人よしの男のせいだと思うと、心の中で舌打ちをした。


人の欲望に塗れた世界しか知らなかった彼にとって、ゲイルの言動は異質なものでしかなかった。

善意を無償で与える人間がいるなどと、考えた事も無かった。

見返りも求めず、ただ相手を想う人間が存在するのだと知ってからは、どこか居心地の悪い感覚に襲われることもあった。

だが、少なからず、その感情に歩み寄ろうとしている自分自身も存在していた。


何故なら自分の行動はいつだって打算的で、合理的に物事を判断する癖が身に付いてしまっていたから。

それは、誰かの為ではなく、より多くの命を残すことに重きを置いてきたからこそ身についた習性だった。

他者の為に何かをしたいと思ったことなど、一度としてない。

そういった類の感情は、自分にとって不要なものであり、価値のないものだと思い込んでいたからだ。


だが、彼の言動を目にする度に、今まで培ってきた価値観が揺らぎ始めている事実に、戸惑っているのも確かであった。

消化しきれない思いに、小さく舌打ちをして、思考を放棄した。

答えの出ない思考に、浸る時間が惜しいと感じ始めたからだ。

毛布を被ってベッドに横になると、空腹が満たされたこともあり、程なく睡魔が訪れた。

眠気と共に、ゲイルが与えてくれた香りが遠ざかっていく。

もう少しだけ側に居てほしい、と名残惜しさと共に微睡の中に意識を手放した。


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