第3話

空が黄昏始めた頃、男は飽きもせず、鍋をかき回していた。

ただ昼間とは違い鼻をつくような青臭い匂いではなく、薬膳的ではあるがどこか刺激性のある香りが漂っていた。

嗅いだことのない香りにローガンは不信感を纏った声で、ゲイルに声をかけた。


「なんだ、この臭いは?」


急に声をかけられたゲイルは過剰なまでに肩をビクつかせ、恐る恐ると言った風に声の方へと視線を移した。


「…ぁ、え、と…夕飯を…」


ゲイルの肩越しに鍋の中身を確認すると、褐色のドロドロとした液体が沸沸と煮立っていた。

よもや人が食べるものとは到底思えない、とローガンはあからさまに眉を潜めた。


「これは、食い物か?」


正直な感想を口にするローガンに、ゲイルは口をぱくぱくと開いたり閉じたりするばかりで、肝心の言葉が出てこないでいた。

黙り込んでしまったゲイルの顔を心配そうに覗き込んだローガンに、ゲイルは飛び跳ねるように一歩下がった。

あからさまな拒絶だと捉えられたのでは、と心配になり、即座に謝罪の言葉を口にした。

そんな彼の謝罪を黙殺するように、ローガンは被せて言葉を放った。


「間抜け、急に動くな」


冷たい声音の中に、僅かな気遣いが感じられた。

素知らぬ様子で、その言葉だけを残して去ろうとするローガンのマントに思わず手を伸ばしていた。

衝動的に引き止めてしまったが故に、出だしの声は上擦り、話す内容さえ見失ってしまった。


「…ぁ、あの、俺が育った村の料理で…その……」


頭の中を整理せずにいきなり話し出してしまったものだから、ゲイルの話す内容はまとまりが悪く、ローガンは不思議そうな顔をして見せた。

伝えたいことは沢山あるのに、教養のない自分では上手く言葉に出来ないと歯痒さにゲイルは唇を噛んだ。


亡くなった母親が教えてくれた唯一の料理だった。

彼女は生前、大事なことがあった日はカレーを作ってくれていた。

南部の故郷料理で、人を幸せにするとされている料理だ。

ゲイルにとっては意味のある料理で、大切な人に食べてもらいたい料理でもあった。


「…ぁ…え、と。…夕飯、カレー、です…」


聞いたこともない料理名に、ローガンの表情は更に曇っていった。

ローガンの否定的な表情に、不安からか眉を下げ始めたゲイルを落ち着かせるように、歪な形の木杓子に口をつけたローガンは、悪戯っ子のようにニヤリと笑うとゲイルの頭に冷んやりとした手を乗せ、スッと去っていった。

数歩歩みを進めた後、徐に振り向くと右手の人差し指を口元に持っていき、内緒のポーズをして見せた。


「美味かった。つまみ食いは子リスには内緒にしておいてくれ」


彼の不意打ちは本当に卑怯だと思う。

冷淡さを纏う彼の時たま見せる灯火のような優しさに、沸々と得体の知れない感情が沸き立っていくのを感じた。

きっと、報われない類いの感情だ、とチクリと胸が痛んだ。

その感情に名前をつけてしまったら、心を痛めてしまうと分かっている。

だから、この感情に名前をつけることはしない。


簡素なテーブルにそぐわない料理達が、今か今かと、住人達の着席を待っていた。

珍しく豪華な夕食に、子リスは尻尾を膨らませていた。


「ねぇ、ゲイル!これは、なんていう食べ物?」


不思議そうにカレーの匂いをかぐ彼女の背後で、したり顔のローガンと目があった。


「今日は、カレーなんだと」


「あんた、この料理を知ってるの?」


突然降ってきたローガンの言葉に、信じられないというように目を丸くしながら、問いかけるアシュレイに、ローガンは肩を震わせて笑い出した。

ローガンの破顔を見た途端、胸が詰まった。

まるで発作の様に時折生じる胸の痛みに、もしかしたら自分は病気なのではないか、とすら思えてくる。

そんな考えを打ち消す様に、アシュレイの甲高い声が室内を満たした。


「ゲイル〜!これ、美味しい!」


そう言って、先程焼き上がった田舎パンにカレーを付けて頬張っているアシュレイに目尻が下がった。


「うまい?」


アシュレイは、口一杯に頬張ったパンを咀嚼しながら、何度も頷いた。

ゲイルがかけた言葉に音として返ってきたのは、低音の男の声であった。


「ああ、うまいな」


ドキリと心臓が跳ねた。

心細い蝋の火ではローガンの表情を窺うことはできなかったけれど、室内を満たした声音は酷く柔らかかった。


数日経ったある日、彼は唐突にこう言った。


「一度、教都に戻ろうと思う。部隊の状況確認もしたいしな」


そう言うと、無機質な椅子の音が響き、その音がやけに耳に残った。

彼が発した教都とはこの国の最北端に位置する。

教都ルミナリエは、別名排斥の辺縁と呼ばれるほどに他者からの干渉を嫌う都市として有名だ。

残念そうに俯くゲイルとは反対に幼い少女はニッコリと笑ってみせた。


「やーっと、出て行く気になったのね」


「ああ、世話になった」


少女の言葉に対して、抑揚のない声で返事を返すローガンに、彼女はどこか面白くなさそうに口を尖らせた。

そんな二人のやり取りを横目に、ゲイルは無意識に息を漏らしていた。

残念に思う気持ちと同時に、自分の気持ちに折り合いがつきそうなことに安堵したのだ。

朝食用にと、焼き上げた質素なパンに叶わぬ思いを込めた。

せめて、このくらいは許されるだろうか。

薄い紙袋に、焼き上げたパンと、煮詰めた野草、綿布を押し込んだ。

お世辞にも豪華とは言えないが、厳しい生活を送るゲイルにとってはどれも貴重な品物ばかりだった。


この程度のものしか渡せないことを悔やんでも仕方がないと、ゲイルは自分に言い聞かせるように息を吐いた。

粗末なものではあったが、それでも精一杯の感謝を込めて、丁寧に包んだそれをローガンに差し出すと、彼は素っ気なくそれを受け取った。

その態度に落胆する自分を隠すように、ぎこちない笑みを浮かべると、ローガンは少し困ったような顔をして、頭を掻いた。

そして、呟くように言葉を紡いだ。


――― ありがとう。


それは、確かにゲイルに向けられた言葉だった。

聞き慣れない感謝の言葉に、自然と頬が熱くなる。

顔に集まる熱を見られぬように、俯いてみせた。

不意に、ふっ、と息が漏れた音がして顔を上げると、目尻の下がったローガンがこちらを見上げていた。

それは、ほんの些細な変化だったが、彼が今まで見せた表情の中で最も人間らしいと思えるものだった。

違いは何かと問われれば難しいが、あえて言葉にするなら、“心が存在した”と形容するのが適切かもしれない。

彼の発する音には、“感情”というものが感じられなかった。

そう表現すると、語弊があるかもしれないが、彼が発する声はただ“音”であって、そこに感情は存在していなかった。


だが、今の表情は“心がある人間”そのものだった。

ゲイルは初めてみるローガンの表情に目を奪われた。

そこには、淡々とした口調で人と会話する機械のような人物はいなかった。

彼の音に感情が宿っているのか、いないのか、それすらも分からなくなるほどの冷たい音しか出していなかった男が初めて見せた心のこもった笑顔に、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。

そして、同時に胸に湧き上がったのは、甘く鋭い痛みだった。

この感情を何と呼ぶべきかは知らない。

ただ、この痛みの正体を知りたくないと思った。

きっと知ってしまったら、二度とこの痛みからは逃れられない気がしたから。

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