第2話

一方ゲイルは森の中を歩いていた。

ローガンに栄養のあるものを食べてもらいたいのに、痩せた土では芋くらいしか育たない。

ならば、森に採取に出かけようと歩き出したはいいが、目ぼしい作物は見当たらない。

ムキになって少し遠くまで来たことを後悔し始めた矢先、うっすらと主張していた霧が煙のように濃さを増して行った。


「ねぇ!」


度頭から威圧的な声色に顔を上げると、鼻息を荒くした少女が、恨みがましい目でこちらを睨んでいた。


「ゲイルの帰りが遅すぎる」


「だから何だ?」


「言われなくても察しなさいよっ!」


発せられた棘のある言葉に言い返してやろうと少女を見やれば、不安そうに膜の張った目に言葉を飲み込んだ。

喚き立てる少女の頭にポンと手を置くと、男は盛大に溜息をついた。


「ほんっとに、怪我人に優しくないよな、お前は」


咎めるような言葉とは裏腹に声音はひどく優しい。

緩く立ち上がると、傍に置いてあった鎧を纏い、剣を腰に携えたその姿は見惚れるほどにいい男であった。

暗色のマントを翻し、巻き起こった風は、全てを払いのける程の才幹を感じさせた。

悠然と踏み出した足は、プライドの高そうなブーツの音を残し、森へと消えていった。


男は冷静さを欠いていた自分の行動を悔いた。

まさかモンスターに出くわすだなんて、と僅かに震える身体を縮こめて岩場に隠れた。

自分の手には古びた短剣が一本。

それも、戦力になりそうにもない果物ナイフだ。

こうなったら、敵の注意を他に逸らすしかないと、汗ばんだ手で小石を掴んだ。

震えた手の中からは、擦れ合った小石がカタカタと音を立てた。


おもむろに小石を茂みに投げ、一目散に小屋を目指して走った。

振り向いてはダメだと自分に言い聞かせるが、荒い息が近付いて来ていることが分かり、膝が震え出した。

濃霧によって遮られた視界が、より一層聴覚を過敏にしていた。

遂に耳元に吐息がかかった瞬間、腰が抜けてしまい動けなくなった。


ゆっくりと振り向くと、立ち込める霧の中から一つ目がぬっと現れた。

ほんの数秒だが、時が止まったような感覚に陥った。

スローモーションでにんまりと笑ったモンスターの口元の動きと連動するように、時差がなくなった神経は目の前のモンスターの全体像を認識した。

そいつはまるでコウモリのような姿をしていた。


目の前の男の恐怖心を感じ取ると、モンスターは嬉しそうに目を細めた。

更に男の恐怖心を煽ろうと、鋭く針のように尖った尻尾を悪戯に振り回して、男を脅してみせた。

期待を裏切るように、泣き喚いたりせず、覚悟を決めたようにゆっくりと目を瞑った男に、モンスターは興を削がれたのか鋭い尻尾を振り上げ男の喉元に狙いを定めた。


瞬間、突風に紛れて劈くような声と共にモンスターが吹っ飛んでいた。

耳元を駆け抜けて行った音の正体を探ると、遠く離れた大木にダーツの的が出来ていた。

青光りするその剣はさながら氷のような冷たさと美しさを宿しながら、敵の中心を射抜いていた。

まるで冷気で血が固まってしまったかのように、ダーツの的からは出血すら起こっておらず、眠るように息絶えていた。

呆けた頭が事態を認識するのに随分と時間がかかっていた。

脳が正常に動き出した時には目の前に人影が現れていた。


特に言葉を発するわけでもなく、冷然と見下ろすターコイズブルーの目に恐怖を覚える。

ほら、と冷えた声音と共に伸ばされた手にゲイルは「す、すいません」と弱々しい声をあげ、右腕で顔を覆った。

その行動が、彼が受けてきた境遇を思い起こさせ、ローガンは胸糞悪さに顔を顰めた。

だからといって優しい言葉をかけてやれるほど、彼は器用ではなかった。

大柄の子犬は、拾い主の次の行動にビクビクと顔色を窺っている。

良心の呵責からか僅かに震えるゲイルの腕を、心なしかやんわりと掴み立たせると、亜麻色の短い髪をひと撫でし、「行くぞ」とぶっきらぼうに言い放った。


不当な扱いを受けてきたゲイルに対しての同情か、はたまた哀れみにも似た類の感情か。

柄にもなく普段より柔らかく接してしまった自分に驚きつつも、同じ男として情けない様子のゲイルに次第に苛立ちが湧いてきた。

おどおどと落ち着かない様子で視界の端を行ったり来たりする男に、文句でも言ってやろうと、後ろを振り向いた瞬間、グシャグシャになった野草を握り締めている手を見て、言葉が引っ込んだ。

ゲイルが大事そうに握り締めている野草は、傷薬に使う物だと分かってしまったからだ。

傷薬を必要としていた人物なんて自分しか思い至らない。

どこまでお人好しなんだ、と呆れと共に得体の知れない感情が芽生えた。


小屋の前で体育座りをしている子リスに声をかけた。


「土産だ」


そう言って図体のデカい男を差し出すと、少女は嬉しそうに彼に抱きついた。


「あんたのせいだから、お礼は言わないわよ。その代わり、しばらくここにいることは認めてあげる」


涙目で偉そうに意見する少女が可笑しくて、声を上げて笑うローガンの姿に、二人は目を見開いた。

それと同時に二人は同じ感情を共有していた。


――― なんて綺麗なんだ、と。


ゲイルは慌ただしくローガンにお礼を言うと、足早に裏庭に逃げていった。

心臓がバクバクとうるさい。

萎れた野草を火にかけながら、鳴り止まない心臓の音に困惑していた。

いくらローガンが綺麗だからといって、男にこんな感情を持つなんて異常だ、と自分に言い聞かす。

焚き火の前で膝を抱え、彼は大きく息を吐いた。

消化不良の様な不快な感情が溜息とともに消えてしまうように。

再度息を吸い込み、自分の感情を否定しようとした時、不意に母の言葉を思い出した。


――― ゲイル、私たちは人種柄我慢することも多いけど、もし、好きな人が出来たら、我慢なんてしないでね。私たちは、人を好きになる権利まで奪われたわけじゃないんだから。


母が主張した“権利”なんてものは自分の人生には存在していなかった。

だから、その言葉を掻き消すように鍋の中身を乱暴にかき混ぜた。

だが、不意に先程撫でられた頭に手をやると、顔が熱を持ち、収まりかけていた心音は鼓膜まで震わせた。

経験したことのない体の変化に困惑し、訳もなく泣きたいほどに苦しかった。

そして、苦しさを伴うほどの感情は、野草が煮詰まった頃、ようやく彼の心音を落ち着かせた。


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