ブラウンカンパーニュ

ぺぺ

第1話

雪山を越えた先には、大岩の崖を喧しいほどの水音を響かせて流れる滝があった。

閉鎖的な都市の向こうに、このような大自然があっただなんて、と手負いの男はぼんやりと辺りを眺めてみせた。

左腕から滴り落ちる血痕に苦笑いを浮かべ、一人岩陰に身を潜めた。

血の匂いを嗅ぎつけて獣にでも襲われたなら、今の自分ではひとたまりもないだろうと危機迫る状況の中にあるというのに、どこか他人事のように気だるげに中を仰いでみせた。

なによりも慣れない暑さとジンジンと熱を持った傷口の痛みに考えることすら億劫で、気を抜けば直ぐにでも意識を失いそうだった。


遡ること数刻前、部隊を引き連れ獣狩りに出向いた聖騎士団副長である、ローガン・フォードはかねてよりマークしていた巨大な怪鳥に急襲されていた。

目に痛いシアン色をした巨大な鳥の翼から繰り出される突風は荒い雪粒を凶器に変えた。

鋭さを纏ったそれは、部隊の戦力を削ぐには十分だった。

広範囲に渡る怪鳥の攻撃では被害は拡大するばかりだ。

何より後方で必死に攻撃を凌ぐ部下の表情は、どの顔も疲弊しきっており、つまらない理由で命を落としそうなまでに歪んでいた。


いっそのこと一対一でけりをつけようと、ローガンは副長補佐官に部隊の撤退命令をだした。

一瞬躊躇った補佐官であったが、彼の性格、状況を理解した上で、撤退の命令と共に部隊を後退させた。

その声に安堵したローガンは走りながら発煙筒を着火させると、怪鳥を雪山トレイルレースへご招待した。

守るべきものがなくなった彼の足は驚くほど軽く、足場の悪い雪山などものともせずに駆けて行った。


不意に退屈しきった薄いグレーの目が、じろりとローガンの方に向いた。

楽しそうな遊びに招待された怪鳥は、目の色を深めると、招待状を受け取りに行こうと体を反転させた。

随分と部隊と引き離せたのを確認し、足を止める。

静止と共に疲労が重さに変換された。

自身を覆う不愉快な赤い煙に嫌気がさし、招待状を処分しようと放り投げた瞬間、左腕に鈍い痛みが走った。

あくまでも好奇心に満ち溢れた怪鳥の行動に、ローガンはうんざりした様な表情を浮かべた。

次いで、ああ、元気一杯の女は苦手なんだ、と力なくため息を吐いた。


怪鳥の噛み付く威力は相当なもので、嘴が手甲にめり込みミシミシと音を立てている。

早く引き離さなければ腕ごと噛みちぎられてしまいそうだ、と焦る彼の目と楽しさで上機嫌の彼女の視線がぶつかった。

彼女はローガンの目をまじまじと見つめ、余りの美しさにだらしなく口を開けると、暫くの間視線を外せずにいるようだった。

思いがけず解放された左腕は、ようやく血液循環を再開させた。

素早く腰に携えた剣に手をかけたローガンを前に、彼女は仕切り直す様にお上品に立ち直し、まるで恋人にするかの様に彼の額に頭を擦り付けた。

またね、とでも言うように挨拶をすると、どんよりとした灰色の雲を排するように飛び立っていった。

怪鳥を取り逃がしたことに悔しさを覚えたが、とにかく今は体制を立て直さなければ、と痛む腕を押さえながらたどり着いた先は仄暗い森の中であった。


男は薄汚れた木桶を両手に、滝を目指していた。

足場の悪い荒地を慣れた足取りで進んでいく。

滝壺に到着した時、不意に目に留まった血痕に、男は動揺し慌ただしく辺りを見渡した。

軽快だった足取りは徐々に鈍り、足取りを知らせるように続く血痕を前に遂には動きを止めた。


引きずるようにして残された靴跡を見て、相手が人間であると認識した。

だが、手負いとはいえ、相手が攻撃してこないとも限らない。

念のため、と気休め程度の果物ナイフを握りしめ、血痕の跡を辿っていった。

血痕の跡が途絶えた先には、岩陰から鈍色に光る手甲が見えた。

慌てて近寄ると、そこにはひどく整った顔立ちをした人物が力なく大岩にもたれかかっていた。


艶やかなプラチナブロンドの髪から覗く顔は青白く、まるで彫刻芸術のようであった。

余りの美しさに持っていたナイフが手から離れ、粗い砂地に飲み込まれ僅かに悲鳴をあげた。

その音に反応するかのように一瞬開いた碧眼に、青年は息を呑んだ。

同時に幼い頃に母が読み聞かせてくれた神話の本を思い出した。

ずっとずっと記憶の片隅に追いやられていた絵本のページがめくられたような気分だった。

その虹彩の色は絵本に登場する神秘の泉のように美しく、威厳に満ちていた。

みっともなく開いていた口を閉ざすのと同時に、目の前の人物は気怠そうに目を閉じてしまった。

もう少し見ていたかったという思いと、一刻も早く目の前の人物を助けなければという思いが強く働いた。

青年はずっしりとした彫刻を担ぐと、来た道を引き返し、自分が住まう小屋へと足を進めた。


目が覚めるとベッドの上だった。

体を起こすと、カサリと音を立てたベッドはお世辞にも綺麗なものとは言い難かった。

まるで木枠に薄い布を敷いただけのような粗末な作りだ。

見慣れない古ぼけた小屋に、思考回路が追いつかない。

ここはどこだ?と考えを巡らせていると、ドアが開く音が聞こえた。

冴えない頭でボーッと扉の方に目をやると、淡い日の光が朧げに人影を映し出した。

擦れた靴の音と共に、随分と大柄な人影が近づいてくる気配に警戒心と共に身体中の毛穴から汗が噴き出る。

幸いにも無傷な利き手をグッと握り込んだ瞬間、弱々しい声が室内を満たした。


「…ぁ、あの、これよかったら……」


発せられた声は体躯の割に控えめで、どもったような声にローガンは一瞬眉をひそめた。

緊張しているのか、スープ皿を持つ手が僅かに震えている。

至近距離で見た男は表情こそわからないが、薄汚れた窓から僅かに覗く光を受けて褐色の肌や、短い亜麻色の髪が柔らかく艶めいていた。

急に事態を把握した脳は反射的に彼の手を払い除けていた。

木製の器は切なくカランと音を立て、床にはスープが悲しそうに広がった。


「……悪いが、ブランの作ったものなど口にできない」


低く響いた声に、驚きの表情を見せたかと思うと、ブランと呼ばれた青年は唇を噛み締めながらスープ皿を拾い、足早に去っていった。

去り際に見た彼の表情は今にも泣き出してしまいそうで、下がり切った眉が子犬を連想させた。

彼が部屋から出て行くのと同時にドタドタと大きな足音が室内を満たした。

次の瞬間頬に強烈な痛みが走った。


「あんた何様?助けてもらっといて、よくもそんなことが言えるわね」


何事かと視線を少し上げると、鼻息を荒くした少女がローガンの頬を思い切り平手を食らわせると、まくし立てるように彼を責め立てた。


「あんたがどこの誰かなんて知らないけど、自分の食事を削ってまで、あんたに食べさせようとしたゲイルに失礼でしょ!謝りなさいよ!!」


少女の怒号に、ゲイルと呼ばれた青年は慌てたように彼女に駆け寄ると、栗色の頭をポンと撫で、切なく笑ってみせた。

幼いながらも恐ろしい目つきでこちらを睨みつけている少女を諭すように、ゲイルは少女に飾り気のないお菓子を差し出した。


「…ぁ…これ、アシュレイが、食べたいって、言ってたやつ」


ゲイルは話しづらそうに単語を区切りながら、ゆっくりと言葉を紡いでいった。

彼女の怒りを制するように、目の前に現れた焼き菓子に、少女は驚いたように目を見開き、まじまじと彼の顔を見つめた。

暫くの沈黙の後、彼女はゲイルの気遣いを尊むように、ゆっくりと口角を動かすと、ありがと、と短くお礼を返した。

まるで、フリージアが芽吹くように、とびきりの笑顔を向けられたゲイルは照れたように少し俯きながら、はにかんだように唇を緩めた。

少女のあまりの態度の変わりように呆然と見つめるローガンに、ゲイルが控えめに声をかけた。


「…ぁ、あの、え、と、名前…を……」


先程拒絶されたことを気にしてか、当初よりも数段おどおどと歯切れの悪いゲイルの話し方に、苛々した態度を隠そうともせず、待ちきれないとばかりにローガンが答えた。


「ローガンだ。ローガン・フォードという」


「…ぁ、え、と、俺は…」


自己紹介しようとするゲイルの声を遮るように、凛とした声が室内に響いた。

艶やかさを纏った低音は、耳触りの良さとは対照的に、どこか高圧的で相手に焦燥感を与える居心地の悪さも兼ねていた。


「ゲイルだろ。さっきからそこのチビが連呼してるからな」


綺麗な顔に似つかわしくない乱暴な喋り方に、ゲイルは戸惑いを隠せない顔をした。

もっというと女性だと思っていた人物が男性だったという事実に思考が追いついてきていなかった。


「ほーんと、失礼なオッサンね。ねぇ、ゲイル、とっとと元の場所に捨ててきたら?」


まるで拾ってきた猫を戻して来いとでも言うようなアシュレイの言葉に、ゲイルはブンブンと首を横に振った。


「でもコイツ、ゲイルが作ったもの粗末にしたし、気に入らない」


「それは…、俺がブランだから…」


自身が口にしたくない単語を音にしてしまったゲイルの淡褐色の瞳が、くすみを増したように感じた。

彼が口にしたブランという言葉は、褐色の肌を持つものへのいわゆる差別用語だ。

彼らのように褐色の肌を持つ者を奴隷として扱ってきた歴史認識がローガンの言葉に毒を持たせた。

慣れているはずの言葉がゲイルの心に、チクリと穴を空ける。


久しぶりの痛さに顔をしかめ、思わず身につけていた薄汚れたシャツの胸元を、くしゃりと掴んだ。

その言葉はゲイルの心をゆっくり麻痺させていき、ローガンの放った心ない言葉や態度さえ当然だと思わせた。

彼はローガンの方を見ようとはせず、畑の世話に行ってきます、と言いその場を後にした。


その様子を見ていた少女は、怒りの発作に耐えるように、目に力を入れた。

まるで燻った炎のように、感情的に罵りたい気持ちを抑え、黒い煙を幾度も吐いているようだった。

同時に、何かの衝撃で爆発しそうな危うさを秘めていた。

狭い空間に残された少女と青年の間にはなんとも気まずい沈黙が流れていた。

重々しい沈黙を破ったのは、少女だった。


「ねぇ、怪我が治ったら、さっさと出てってくんない?」


さっきまでの甲高い声とは違い、とても静かな声だった。

その静音が、彼女の怒りの深さを表しているようでもあった。


「もとよりそのつもりだ」


戸惑いを隠すようにローガンは無愛想に言い放った。

そんな彼の態度が彼女の怒りを急激に発火させた。


「てかさ、その紋章あんた騎士でしょ?あんたらは何不自由なく生活してるかもだけど、ゲイルにとっては、さっきのスープだって、久々に食べる食事だったんだよ。それでもあんたにあげようとしたのに」


腹立たしさが高じて彼女の目には僅かに涙が滲んでいた。

あいつが勝手にしたことだと言い聞かせようとしたが、責め立てる言葉に息苦しさを感じ、長い息を吐いた。

それと同時に少女の抗議でさえ、彼の出自を哀れんでいるから出た言葉なのではないか、とさえ思ってしまう。

汚い世界で生きていると、他人の感情さえ決めつけてしまう。

なにより、無礼な態度を働かれた当人が非礼を責めたりせず、黙認しているほうが余程心を軋ませた。

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