はじめての告白

尾瀬 有得

『はじめての告白』

「君が好きだ。付き合って欲しい」


 人生初の男子からの告白は、高校二年生になる直前の二月。すっかり日の落ちた学校からの帰り道で、あまりにも突然にさらりと言い渡された。


 紫藤しどうあかりは一瞬、自分が言われていると思わなかった。

 手入れが簡単というだけの理由のショートカット。茶色のブレザーにチェックのプリーツスカートから伸びる足は、鍛えているために少し太い。顔はやや父親似で彫りが深く、178センチの高身長もあって、服装次第で男子と間違われるのも茶飯事だ。


 そんな自分に、男子からの告白なんていう一大イベントが訪れるとは。まさか、としか言いようがない。


「――ゃん。シドちゃん?」


「ひゃい」


 想像以上に近づいていた告白の主の顔と、裏返った声に自分でも驚く。そして、とにかく熱い。主に顔が。

 あかりはようやく言葉を絞り出す。


「あの、えっと、なんで?」


「なんでってことないでしょ。うーん……強いて言うなら一目惚れ?」


 告白してきた男子、清家道清せいけみちきよは苦笑した。


 彼はこの春から三年生の、ひとつ上の先輩。部活では部長を務めている。

 パーマがかった短い髪、顔は整ったしょうゆ顔で、身長も180センチと高い。あかりと同じ佐神大付属高校さじんだいふぞくこうこうの茶色のブレザーを颯爽と着こなす、校内きっての人気者。


 だが、あかりにとってそれはどうでもいいことだった。少なくとも、今までは。


 道清はレギュラー。重要なのはそこだ。

 あかりが高校に入学してから、ずっと追い抜くことを目標にしていた、同じポジションの先輩ということである。


「答えは今じゃなくていいから」


 照れたようにあさっての方を向いている道清に、あかりは頷いたのだか首を振ったのだか、自分でもよく分からない。


「それじゃ、また明日ね」


 自転車に乗って去っていく道清の姿を呆然と見送りながら、それでもあかりは、鈍くなった頭で今の状況を必死に整理する。



 最初はそう、今日の練習だ。


 佐神大付属高校アメリカンフットボール部の練習は、同大学の専用フットボールフィールドで行われる。手入れの行き届いた青い芝のグラウンドは、他校からも羨ましがられる壮観な景色だ。


 練習の締めはスクリメージ。攻守に分かれて、控えとレギュラーで別れて試合ミニゲームを行う。


 あかりの眼前には、濃紺のユニフォームをきたオレンジ色のヘルメットを被った集団がいる。彼らはまるで立ち合いの前の力士のように、最前列でプレーの開始、その時を待つ。その迫力たるや、練習であってもさすがに関東随一の実力者集団である。


「セー、ハット!」


 あかりの掛け声と共にセンターからボールがスナップされた。

 一秒。二秒。オフェンスラインがディフェンスをブロックしている間に、あかりは瞬き一つせずにパスのターゲットを探す。


 一人、二人、マークが離れない。

 予定の変更を検討している間に、ラインバッカーの喜多野きたのがこちらに突っ込んでくるのが視界の端に入った。


 捕まる寸前でタックルを素早くかわし、あかりは喜多野が守るべきだったゾーンを走るレシーバーにショートパスを投げ込む。


 よし、と内心で喝采を上げた瞬間、最前列にいたと思い込んでいたディフェンスラインが見え、あかりは背筋が凍った。


 ボールがその選手に叩き落とされ、笛が鳴る。あかりは天を仰いで一つ大きく息を吐いた。


 うわぁ、やっちゃった……


「紫藤!」


 矢倉の上から監督の芳田よしだがメガホンで叫んだ。すぐにあかりはその下へと駆け足で向かう。


 走りながら、頭の中で今のプレーの流れを俯瞰図にして、丸と矢印で選手の動きを大まかに把握する。


 最前列にいたはずのラインマンがゾーンを変えて後方のパスカバーに入る、ゾーンブリッツと呼ばれる戦略だ。ブリッツでスペースを空けたのは罠だったのである。


 たどり着いたあかりに、芳田は帽子を脱いで少し毛量に乏しい真っ白な頭をかきつつ問う。


「喜多野のブリッツで焦ったか」


「いいえ」


 焦りはなかった。自分がパスを投げるまでのスピードは把握している。喜多野がスピードのある優れたラインバッカーであっても、自分であればという自信はあった。現にパスを投げるところまでは想定内だった。


 だろうな、と芳田はにやりとした。


「お前は判断がとにかく素早い。他の連中や道清にも見習わせたいくらいだ」


 褒められながらもふっと追い抜くべき目標の名前が出て、あかりは息を呑んだ。

 清家道清。佐神大付属高校アメフト部のエース。仲間からの信頼も厚い、関東屈指のクォーターバック。


 彼は今日の練習を休んでいる。私用ということだが、このところそれが続いており、だからこそアピールの絶好の機会だとあかりは意気込んでいた。


「だがな。尖った長所ってのはそのまま短所にもなる。だから単純な落とし穴に引っかかる。お前が道清に及ばないとすりゃ、そこだ。気をつけてかかれ」


「はい……」


 神妙に頷きつつ、あかりはぐっと奥歯をかみ締めて悔しさを押し殺した。


 佐神大付属のクォーターバックは現在五人。誰もが我こそはとエースの立場を狙っている。

 そんな中にあって、あかりは二年生の女子ながら、彼の立場を脅かす存在として部内で一目も二目も置かれ始めていた。


 高校アメフトで初の女子レギュラー。それがあともう少し、手を伸ばせば届くところにまできている。


 明日こそは――あかりは悔しさを決意に変え、もう一度ぐっと奥歯を噛んだ。



 練習を終え、あかりは制服に着替えて家路につく。普段はバス通学だが、考えごとをしたいときは徒歩で帰ることにしている。


 校門を出てバス停を通り過ぎ、道を一本奥に入った住宅街に入ると、そのまま家の方角を目指して歩く。


 ふと、練習での最後のプレーが思い出された。ようやく指先が引っ掛かった気がした道清の背中が少し離れたように感じられ、あかりは無意識のうちに歩くのが早くなる。否応にも両手は悔しさに震えた。


「シドちゃん!」


 ぎくりと身をすくめると、後ろから自転車に乗った道清が追いついてきた。

 最悪のタイミングだ。あかりは微かな緊張に少し身を固くして、「どうも」と返す。


「……お休みだったんじゃ?」


「ああ。でも監督と話したかったからね。顔だけ出してきた。俺がいなくて寂しかった?」


「誰が……」


 からかうような口調に、あかりは思わず後輩の立場を忘れて舌打ちをする。

 道清はおどけて肩をすくめると、自転車から降りてあかりの隣に並んで歩きはじめた。


「……なにしてるんです?」あかりはため息をついた。「近づかないで下さい。ライバルと馴れ合う気ないんで」


「そう言うなよ。どうせ同じ方向だろ?」


「妙な誤解されたくないんです」


「誤解ねぇ。別にいいよ、誤解したい奴にはさせておけば」


「そういう問題じゃ――」


 ない、と言いかけて、あかりは口を噤んだ。代わりに聞こえよがしにまた舌打ちを一つ。


 部内では同じポジションなので必然的に彼と過ごす時間は長いが、練習のこと以外に会話らしい会話はない。

 あかりが一方的にライバル視していることもあるが、肩を並べて一緒に帰るような関係ではないはずだ。


 突然、どういうつもり?


 疑問を抱えつつ、それからしばらくは二人とも無言で歩いた。道清の自転車のチェーンが回転する音だけが響く。


 やがて沈黙に耐えかねたか、道清が口を開いた。


「ねえ、シドちゃん。前から聞きたかったんだけど、なんでアメフト部に?」


 あかりにしてみれば慣れた問いである。無視してもよかったが、さすがにそれは先輩に対して感じが悪すぎると思い直し、正直に答える。

 

「まあ、家庭の事情ってやつで」


 今も大学アメフトのコーチをしている父の影響で観た、幼い頃の甲子園ボウルの試合があかりの原体験だ。母も父と同じ大学でスタッフをしていたので、あかりにとってアメフトは身近なものだった。


 そう説明すると、道清はふうんと感心したように頷く。


「それでもなかなかいないよ、自分もやろうって奴は。変わりモンだな」


「ほっといて下さい」


 自分でも変わっているとは思うが、やりたいのだから仕方がない。そのことに恥じ入る気持ちはないし、無理だと諦めるつもりもない。


 もちろん、アメリカンフットボールは基本的にコンタクトスポーツだから、どのポジションも誰かとぶつかりあうことは避けられず、女子であるあかりの存在が部内では煙たいものであることも理解している(今でこそ誰も気にしないが、入部当初は腫れ物扱いだった)。


 それでもあかりは諦めずにやってきた。そして今、あのフィールドに手が届きかけている。


 見てろ、清家道清。お前がそんな涼しい顔でいられるのも、あとわずかだ。


 そんな心の内をよそに、当り障りなく世間話に付き合っている間に、少し開けた道路に繋がる十字路が近づく。道清が自転車にまたがったので、どうやらここが家路の別れるポイントのようだった。


「じゃ、私はこっちなんで」


 本当は歩きながら今日の反省をする時間にしたかったのに予定が狂わされた。その苛立ちが自然とあかりの口調をぶっきらぼうにさせた。


 軽く頭を下げて歩き出そうとすると、「ちょっと待って」と道清に呼び止められ、あかりは立ち止まる。


「……なんですか?」


 問うと、道清は照れたようにはにかんだ。


「いや、チャンスを逃さないっていうのが俺の信条なんだよね」


「チャンス?」


 あかりが眉を寄せると、道清はすっと真剣な顔になって立ち止まった。


「シドちゃん。俺は、君が――」


 

 そして今――くしゃみを一つして、あかりは我に返った。


 寒い。日も暮れて増してくる寒さに、思わず身体が震えた。道清が去ってどれくらいぼうっとしていたのだろう。


 あの清家道清が。アメフト部のエースが。校内屈指の人気者が。

  今。


 どうしてこうなったのか、まったく理解ができない。嬉しいのだろうか? それもいまいち判然としない。なにせ驚きが強過ぎる。あまりに突然過ぎて「なぜ?」という思いがどうしても先に来る。でも――


「君が好きだ。付き合って欲しい」


 頭に先程の道清の言葉がリフレインして、あかりは顔が熱くなるのを感じた。そしてそれに反比例するように冷えた身体を自覚し、ふわふわした謎の高揚感のまま、足早に家を目指した。



 それから一週間が経ち――


「あ……」


 部室前に張り出された評価の一覧を目にして、あかりはいよいよ焦燥に息を呑む。


 あの告白の次の日から、あかりは調子を落とした。頭の中に道清の言葉がちらつき、気が付けば彼を目で追ったりして、散漫なプレーが目立つようになったのだ。

 芳田やコーチ、仲間たちからの叱責も増え、その結果が、ついに二番手、三番手どころか、最下位である。


 悔しくて泣きたくなる。まとわりついて離れない自己嫌悪をより増幅させて、それでもあかりは隣の女子ロッカーに着替えに向かった。


 女子マネージャーの数人がそんなあかりを気遣うが、あかりには「なんでもない」としか言いようがなかった。まさかはじめて男子に告白されて、そのことで頭がいっぱいになっているなんて、恥ずかしくて絶対に言えない。


 着替えを終えてロッカーを出ると、評価表の前に道清が誰かと並んでいる姿が見えた。顔を合わせるのも気まずくて、反射的にあかりは足を止める。


 少し距離があったからか、二人は後ろにいるあかりに気付いた様子もなく、神妙な顔で話し合っている。

 相手は小柄だが引き締まった上腕をした坊主頭。副部長の小菅こすげだ。それほど大きな声で話していないが、どうにか聞き取れた。


「シド、調子落としてるな……お前、なんかしただろ」


 話題はどうやら自分のことらしいと察して、あかりは身を硬くする。評価表の方を向いたままの道清の声があっけらかんと頷いた。


「したよ。それがなにか?」


「ひでぇ野郎だ。かわいそうに……」


 小菅は呆れたような溜息と共にそう言葉を吐き出した。

 

「心外だね。別に特別なことをしたわけじゃない。ただ言っただけ」


「なにを?」


「君が好きだ、付き合ってくれって」


 ぶっと小菅が吹き出すのと、あかりが息を呑むのは同時だった。


 未だあかりの存在に気付いていない二人は、後ろで当の本人が聞いているとも知らずに、話を続けている。


「お前、最悪だ……なんで今?」


「なんでもなにも、このままじゃヤバいなって思って。あれはバケモンだよ。このままじゃウチのQB、マジで彼女になりかねない」


「あー、まあ……」


 どこか得心が行ったような小菅に対し、道清は不満そうに評価表を拳で叩く。さらに続いた道清の声は、より冷たい色を帯びていた。


「頭ぐるぐるして調子崩してくれればめっけもんさ。女を公式戦になんて出させてたま――」


 そこで道清は言葉を切る。後ろを振り返り、そこにあかりが立っていたことにようやく気付いたのだ。


 凍り付いた二人の顔を、あかりは睨む。


 なんて顔だ。私が聞いているなんてこれっぽっちも思ってなかったのか。 


 全身が震え、悔しさに涙がこぼれた。


「……ふざけるな……」


 好きだという言葉をあんな風に軽々しく使って、調子を落としてくれたら? そうまでしてお前はレギュラーの座を奪われまいとするのか。なぜ? 私が女だから?


 拳に爪が突き刺さる。道清と視線が交錯するも、その表情は蒼白のままで、どこか諦めに似た達観した感じがした。その目からは何の感情も読み取れない。溜息をついて、道清はそのままグラウンドの方へ去っていった。


 自然、取り残されて困ったような表情を浮かべた小菅と目が合った。彼は「ああ」とか「うん」とか取り繕う言葉を必死に探している。


 やがて腹立たしいほど気の毒そうな表情で頭を掻くと、


「シド、あのな、今のは――」


 もちろん、聞いてやるつもりはなかった。精一杯の虚勢で小菅を睨みつけ、あかりは全力でグラウンドに駆けて行った。


 練習が始まると、あかりの集中力は自分でも驚くほど研ぎ澄まされていた。

 基礎トレーニングから個人練習、パート練習に至るまで、誰もが(あの二人を除いて)あかりの鬼気迫る様子に目を見張った。


 最後のスクリメージになり、あかりは出場の準備に取り掛かる。

 攻撃側がエンドゾーンまで残り37ヤードでファーストダウンを更新。そこであかりの出番になった。


 あかりはヘルメットを被って交代に走る。矢倉から選手たちを臨む芳田と他のコーチの姿を一瞥し、あかりは仲間たちと輪になって作戦会議ハドルに臨んだ。


 右腕に巻いたリストバンド型プレーブックには今日の作戦が書いてある。その中であかりが選択したプレーは――


「ロングパス行くよ。ショットガン・左バンチから単騎の右サイドでミスマッチを狙う」


 その選択に仲間たちは微かに驚きを見せた。


 理由はわかる。

 あかりの武器はクイックリリース。早い展開のショートパスこそ真骨頂。ロングパスはその逆の選択である。


 だからこそ、いくのだ。


「女の肩じゃロングパスは投げられないって思ってる? それとも、こっちは控えだからレシーバーが振り切るまでパスプロテクション持たないってビビってる? 相手も同じだよ。。意表を突くってそういうことでしょ。レギュラーの連中に一泡吹かせたくない?」


 そこには道清も含まれる。サイドラインで腕を組んでこちらを見ている彼を見て、あかりは自分を奮い立たせた。


 教えてやる。お前のその汚い策謀が、私にどれだけの力を与えたのか。

 お前の立場が今、どれほど危ういのかを!


 あかりが散会の合図に手を広げると、仲間たちは顔を見合わせ、どこか意を決した顔で手拍子で応えた。そしてそのまま作戦通りに隊形を作り始める。


 守備陣がそれに合わせて指示を送り合い、プレー開始前の独特の緊張感がその場に漂う。


「セー、ハット!」


 あかりがセンターからボールを受け取る。瞬間、最前列では激しい衝突音と共に、ラインたちの攻防が繰り広げられる。


 あかりの言葉に奮起したのか、控え組のオフェンスラインは、必死にレギュラー陣のディフェンスのパスラッシュを押し止めていた。


 一秒、二秒。あかりはステップを踏みつつ、意識を右サイドのレシーバーに集中させる。守備を振り切った瞬間、最高のタイミングでキャッチできるボールを投げ込むために。


 クイックリリースは忘れろ。耐えて、我慢して、最高のロングパスを投げ込め!


 ポストに走ったレシーバーがカットを切り、フリーになったのが見えた。同時にあかりの身体がスローイングに動く。


 今まで何万球も投げてきたが、実戦でここまで長い距離を投げるのは初めてだ。でも、大丈夫。できないのではない。

 


 アメフトはボールを持った選手に対しては一切の容赦がない。

 だが、ボールを離した瞬間、ルールによって守られる。タックルは禁じられる。


 女子であるがゆえに、いかに短い時間でその権利を得るかが鍵だと、あかりはこれまでずっと思っていた。クイックリリースと判断の早さを磨いてきたのはそのためだった。


 でも、ロングパスのないクォーターバックなんて、守備としてこれ程守りやすいことはない。そう思われたらエースになんてなれない。


 だから証明する。このプレーで、私が彼らに何ら劣らないことを。

 たとえ女子でも、なんかに負けないんだから!


 手を挙げたレシーバーの到達点が。そこに狙いを定め、あかりは軽い助走と共にボールを投げ込む。

 独特な螺旋回転スパイラルでボールは緩やかな放物線を描き、あかりの狙いからずれることなく、イメージ通りの軌道をなぞる。


 通した! そう思った瞬間――


「シド!」


 誰かが自分を呼んだ声が聞こえ、全身が総毛立つ。気配を感じて向いた先には、パスプロテクションをやり過ごした喜多野。


 喜多野の、しまった、という目が一瞬だけ見えた。スピードの乗っていた彼は、投げ終えたあかりの姿を見て全力で方向を変えようとし、そして――


 衝撃と浮遊感。視界が芝生と空とを交互に映す。ふっ飛ばされて地を転がっているという自覚が遅れてやってくる。

 ようやく視界が青空に固定されると、あかりは気が遠くなりそうになるのを必死にこらえた。



「痛ったぁ……」

 サイドラインのベンチに横たわり、天を仰ぎながらあかりは悪態をつく。身体の痛みはプレーを終えると徐々に強くなっていた。


 首を倒してフィールドを見やれば、スクリメージはまだ続いている。今はレギュラーの攻撃と控えの守備だ。


 でも、攻撃チームに道清の姿はない。彼はあかりの頭側に少し距離を置いて座っている。話をするために芳田に許可を得たそうだ。


 身体の痛み以上に最悪の気分だった。話すことなど、こちらにはなにもないのだから。


「まったく……俺ならもう少し早いタイミングでロングパスを投げたけどね」


 呆れ気味の道清に、あかりは無言を貫く。

 確かに少し粘り過ぎた。だが――


「そのタイミングじゃタッチダウンにならない可能性がある。そう思った?」


 図星である。あかりはむっつりとしたまま身体を起こし、仕方なく答えた。


「そうです。じゃなきゃ意味ないですから」


 目にもの見せてやる。そんな暗い感情があかりを粘らせた。指摘されるとそれが再び頭の中を蝕んできて、あかりは気持ちに任せて道清を睨みつける。


 だが、彼は静かな目でそれを受け流し、くすりと笑った。


「……意味、ねぇ。ヒットされてぶっ倒れちゃ、それこそ意味ないけど」


 あかりは舌打ちをして顔を俯ける。


 くそっ、分かってるのよ、そんなの。


 結局、あかりのパスはタッチダウンになった。だが、今は芳田に命じられてサイドラインで歯噛みをしながら仲間たちの姿を見つめるばかり。いわんやその評価は、である。


 悔しい。たった一発のヒットで。それも喜多野はブレーキを踏んでいたというのに。それでも、あれは――


 あかりが思わず身を震わせると、道清は笑う。


「ははっ、今さら怖くなったかい?」


「誰が!」


「そ。でも少しは怖がりな。あれくらいの事故ったレイトヒットは当たり前にある」


 諭すような道清の言葉に、あかりはぐっと言葉を詰まらせる。


 確かにそれは間違いない。何度も見たことがある。わかってる。けど――


 尚も言い返そうと言葉を選ぶあかりに、道清は大きくため息をつく。


「ねぇ、シドちゃん。君は素晴らしい選手だ。今のプレーがそれを証明した。でもね」道清は後ろ手に体を預け、フィールドを見つめながら続ける。「君は女の子だ。たとえ監督が許しても俺は認めない。あそこは女の子が立っていい場所じゃない」


「私は大丈夫です。危ないことだなんて覚悟の上で――」


「俺が大丈夫じゃないの」


 被せてきた道清の言葉に、あかりは息を呑む。口調は淡々としていたが、道清の表情は静かな怒りを湛えているように見えた。


「皆、口々に言う。君のことを男顔負けの特別な凄い子だと。確かに、と思う。でも……俺は嫌だ。絶対に認めない。俺は君に選手をして欲しくない」


「……はぁ?」


 あまりの一方的な言い様。ぶちっとこめかみのあたりで音が鳴った気がした。

 キレた、と自分でもわかった。


「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないの? 私が選手であんたになんか迷惑かけたわけ?」


 売り言葉に、と言わんばかりに道清もこちらを睨む。


「ああ、迷惑だ。自分の好きな女の子をあんな危ないとこに置いておいて平気な男がいるわけないだろ?」


「はぁあ!?」


 一瞬だけあかりは固まった。そして道清の言葉を頭の中で繰り返し、より気持ちが昂る。


「なんなの、そういうの腹立つ! 嘘だったくせに!」


「嘘なもんか」


「じゃあなんなのよ! さっきは――」


 フラッシュバックする部室前の一件。女を試合になんてと言い放つ道清の冷たい顔。その記憶があかりの言葉を詰まらせた。


 彼もまたその記憶が引き出されたのだろう。少し申し訳なさそうに小さなため息をつく。


「……さっきは悪かった。君を精神的に揺さぶるつもりはあったけど、君が好きだっていう気持ちは嘘なんかじゃない」


「ふざけないで!」


 はじめて受けた告白。それが私を揺さぶるためだなんて聞かされて。舞い上がってバカみたいで。悔しくて。


 ふっと頬になにかが伝う感触。あかりはユニフォームの袖で顔を乱暴に拭う。

 道清はこちらを見つめながら、困ったように首を横に振った。そしてフィールドを指さして言う。


「ねえ、シドちゃん。あそこはね、ボールを持った相手を潰すために、そこらの男が裸足で逃げ出すような巨人たちが全霊でタックルにくる、そういう場所だ」


 その激しさこそ、アメフトという競技が格闘技と球技の融合と言われる所以でもある。

 同時に、観る者を熱狂させる魅力でもある。


「わかってます、そんなの!」


「だろうね。だからこそ、俺は君が危ない目に合うのに耐えられない。なれるならラインになりたいよ。そうすれば君のために体を張れるのに。でも、俺はクォーターバックだ。君を守るためには、俺があの場に立ち続けるしかない、っていうのにさ……人生って上手くいかないよな」


 道清は自嘲するような笑みを浮かべ、右肩を押さえた。


「白状するよ。右肩が痛んでる」


 道清の言葉に、あかりはすっと冷静さを取り戻した。嘘、と言いかけて、すぐにそれが真実であることを悟る。


 なら、昨日練習を休んだのは……それに最近休みがちなのも――


 あかりの考えを読んだように道清は頷いた。


「そうでなきゃ、こんな卑怯な手、使うもんか。万全なら絶対に君をあの場所には立たせたりしない。だけど今の俺じゃもしかしたら……そう思ったらつい、ね。本当にごめん」


 でも、と道清は顔を上げる。


「失敗だったなぁ。逆に君を燃えさせてりゃ世話ない。そういうとこが好きなんだけどね」


 道清が首をすくめ、あかりは顔を赤らめて彼の視線の先を追った。

 そろそろ出てこいという意味か、芳田が矢倉の上からこちらを見ている。道清もそれを理解したのか、立ち上がって両手で丸を作った。


「懺悔は終わりだ。行くよ」


「え、でも肩は……」


 あかりが言い淀むのを見て、道清はふっと口元を緩ませる。


「大丈夫。無理だと思ったら監督が止める。昨日はその相談をしてたんだ。譲りたくないからね、ここを」


 プレーが止まり、こちらに向かって控えのクォーターバックが走ってくる。

 ヘルメットを被る道清の背中に声をかけようとして、あかりは言葉に詰まった


 でも、なんて言おう。

 はじめての告白。ひどい顛末だ。でもそれは道清なりに苦心してのことで……ああ、でもやっぱりなんかモヤッとするし――


 ぐるぐると思考している間にも交代のタイミングは近づいている。時間がない。なんのために磨いた判断力だ。フィールドの上だとあんなにも即決できるのに――


「あ、あの!」


 あかりの声に通清が「ん?」と振り向いた。

 火照った頬に少し冷えた夕方の風が当たる。心臓の音がうるさい。

 だから、一息に言った。


「あそこには、私が立ちます。だって、す、好きな人を危ない目にあわせたくないのは、お、同じだから。怪我してるなら、余計、です」


 どもりながら必死に言葉を紡ぐあかりに、道清はぷっと吹き出して笑う。そして――


「まいったね……ホント好きだよ、そういうとこ。負けないけどね」


 そう呟いて、フィールドへ駆けていった。

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