救急車は来たときと違ってサイレンを一切鳴らさずに走り去った。それが搬送される人間の容態を物語っていた。

 救急車が去ったあとも公園内の騒然とした様子は変わらなかった。二人の警官が規制線テープを張り、別の警官が目撃者となった男女数名から話を聞いていた。

「ほんと、いきなりだったんです!」

「びっくりしました。止める間もありませんでしたよ」

 若いカップルやリード付きのコーギー犬を連れた中年男性が興奮した口調で警官の質問に答えている。彼らのそばにはブルーシートが敷かれていて、その下には大きな血溜まりがあった。シートは花見客が敷いていたのを許可を取って警官が敷いたものだった。

 ナチュラルヘアの男はしばらくその様子を眺めていたが、おもむろに公園の出口へと向かって歩き始めた。花見に来ていた熟年カップルが声をひそめて喋る声が聞こえた。

「どんな精神状態だったのかしら。怖いわねぇ」

「狂気の沙汰だよ。自分で自分の喉を掻き切るなんて」

 これで良かったのだろうかと男は思った。良かったのかどうかはわからないが、自分が一貫して「逃げる」という信念を貫いたのは確かだった。マイナスにマイナスを乗ずるとプラスになるように、逃げることからも逃げたのである。

 老人のそばから立ち去り、そのまま公園からも立ち去るつもりだった。だがこのまま立ち去ってしまえば後味の悪い思いをすることになるだろう。もし犠牲者が出て老人が彼の望み通り死刑になれば、少なくとも二人以上の人間が命を絶たれることになるだろう。かと言って、今ここで老人の凶行を引き止めたとしても、また時が経てばあの迷彩色の殺意が老人の影の中に生じ、どこかで同じことをやろうとするだろう。そうなっても人を殺めることができないように老人の体を壊しておくこともできるが、悶々とした思いを抱えながら身動きができないまま残された余生を死ぬまで過ごすというのはさすがに残酷すぎるだろう。

 いずれにしろ、後味が悪い。

 いったん老人のそばから立ち去った男は踵を返すと、自分の影を再び老人の影に巻き付かせた。巻き付かせた自らの影で男は老人の影を制御した。男に影を操られ、全身の動きを操られ、老人は素早く紙袋に右手を突っ込んだ。そして――

 すべては一瞬の出来事だった。

 男の進む先に桜の花びらが舞い落ちてきた。異様に大量の花びらだった。男が手のひらを上に向けて前に伸ばすと、舞い落ちる数枚の花弁が男の手のひらに乗った。

 男はそれを一瞥すると手のひらを下に向けて振った。花びらは男の手のひらから一つ残らず地に落ちた。





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桜の園 木田里准斎 @sunset-amusement

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