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ナチュラルヘアの男は老人の行動を阻止しなければと思った。放っておけばここは桜の園ではなく血の海になる。
老人は六十代前半のように思われた。最近の六十代と言えば体力や運動神経が昔の同年代よりも勝っていると聞く。相手によっては二十代や三十代と格闘しても互角に渡り合える場合もある。腕力でこの老人を制圧するのはリスクが大きい。
だが男にとって老人を制圧するのに腕力は必要なかった。足元に映るヤモリの影から伸びた舌が老人の影に巻き付いている。老人は彼の意のままに動く。文字通り生殺与奪の権を握っているのだ。巻き付いた影の舌を通じて老人の影に指示を与え、指示を受けたその影が老人の体をコントロールする。老人をこの場にじっと立ち尽くしたままにすることも、老人を殺すこともできるのだ。
いっそ殺してしまおうかと思った。老人は死にたがっている。望みを叶えてやるのだ。
だがそれでは自分の抱えたやり場のない無念を晴らしたことにはならないだろう。ただ単に世の中から排斥され、他人から追い詰められて命を絶っただけだ。望みを完全に叶えてやったことにはならない。
この老人も逃亡者なのだと男は思った。運命に弄ばれて自宅に引きこもり、世の中や他人から逃亡し続けた結果、ただひっそりと死んでゆくだけなのだ。なんと虚しい人生だろうか。
自分も同じ末路を迎えるような気がした。このまま逃亡生活を続けた先に待っているのは、この老人と同じ運命ではないかという気がした。
もちろん自分はこの老人とは違う。そればかりか普通の人間ともまったく異なるのだ。
男は「影使い」だった。影の形を自由自在に変え、影を通して人間の心の中を覗くことができる。影を操って人間の体の動きをコントロールすることもできるし、影の形を他人のものに合わせることによってその他人になりすますことも可能だ。
今のこの姿も仮のものだった。もともとは頭髪が薄くなった沢渡和史という中年男だったが、あるロックバンドのミュージックビデオを見たとき、モブキャラの俳優の影が演出のために強調されて映っていたので、その影に合わせて自分の影の形を変えた。そうすることによって、自分の顔貌や肉体をその俳優の男性と同じものに変えたのである。目立たない容姿の俳優だったので逃亡生活に適していると思い、拝借したのだった。
こんなふうに影を使って人知を超越したことのできる自分は、この世の終りが来るまで逃亡し続けることが可能だと思った。永遠のモラトリアムを手にしたような気分だった。
しかし、逃亡生活を続けるうちに疲れを感じた。桜の花を見にここへやって来たのはその疲れのせいだった。
自分の逃亡生活はいずれ破局を迎えるのだろうか。この老人のように逃げ切ることができずに他者や自分に対して牙を剥くことになるのだろうか。逃げることからは何も生み出せず、ただ破滅への秒読みを遅らせているだけなのか。逃げること自体が破滅を生み出すというのか。
今ここでこの老人の凶行を止めたとしても、逃げるのをやめることが自分にとって正解なのかどうかを知ることはできまい。自分にとっては何も得るものはない。また逃げ回る生活が続くだけだ。
所詮、ここは逃亡者の自分にとっては縁もゆかりも無い場所であり、そこで花見を楽しむ人々も赤の他人だ。関わりになる筋合いはない。ここで何がおこなわれようとも。
男は老人の影に巻き付けていた自らの影をゆるめ、解き離した。そして老人のそばから立ち去った。
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