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影の中に広がっている白と黒の迷彩柄が痙攣しながら老人の声を奏でた。呪詛だった。六十年以上歩んできた自分の人生への呪詛だった。そしてそんな人生を自分に歩ませた世間に対する呪詛だった。
なぜか人生の節目節目においてめぐり合わせの悪いこと、理不尽なこと、肩すかしのようなことが繰り返された。不運と言うにはあまりにも出来すぎた不運だった。その不運のせいで彼は何事に対しても自信が持てず、誰かを、あるいは何かを信じて物事を成し遂げるということができなくなった。そしてそんな不運をもたらしたのは人間社会が自分に対して目に見えない何らかの悪意を持っているからだと信じ込んだ。
友人や恋人でもいればそんな人生にも変化が訪れたかもしれない。しかし不運が始まった初期の段階で彼は人間不信を自らの行動哲学にしてしまった。開かずの扉で守られた狷介孤高の部屋が幼くして彼の棲家となったのである。その部屋の中に棲み着いた彼にとっては外の世界は自分に対する敵意の塊だった。
殺意が生じた直接の引き金は貯金が底を尽いたことだった。身寄りの無い彼にはあてにできる人間がいなかった。それまでは亡くなった親から譲り受けた家や土地もあった。それで何とか死ぬまでやっていけると思っていた。だが満足に働いた経験が乏しく手に何の職もなく、人とのつながりを拒絶する男が生活の糧を得るのは困難を極めた。六十歳になってすぐに受け取り始めた微々たる年金は光熱費と食費に消え、自宅もその下の土地も人手に渡り、ナマポの支給を渋る市役所の職員を罵倒して、来月からは退去しなければならない自宅に戻るとサバイバルナイフを紙袋に入れて外に出た。
サバイバルナイフは老人が若い頃にミリタリーショップで手に入れたものだった。当時、ベトナム帰還兵の男が無理解な世間に迫害されて激怒し、警察を相手に銃撃戦を繰り広げるハリウッド映画が人気を博していた。その映画を見て触発された彼は主人公のベトナム帰還兵が御守のように持っていたサバイバルナイフに興味を示した。
何か実用的な用途で使おうとしていたわけではない。兵役を務めたこともベトナムへ行ったことも無い彼だったが、迫害されたベトナム帰還兵に自分を重ね合わせていた。サバイバルナイフは自分に対して無理解な世間への呪詛を吐き出すための呪物だった。
それゆえ、そのサバイバルナイフはしまってある引き出しからときおり取り出して呪文を唱えるためにのみ使われた。自分に不運をもたらす人間社会への恨みつらみや人間への憎悪の吐露という呪文だった。そして今日、長年そうやって繰り返してきた呪詛の儀式が完成するのだ。
そんな他人に対する強い殺意を発しながら、その一方で白と黒の迷彩色は自分自身に対する殺意にも満ち溢れていた。運命に翻弄され、人間社会での孤立に責められながら歩んできた自分の人生に老人は嫌悪感を催していた。
他人の命を奪って死刑になる。それが老人の目的だった。そのためには確実に事をおこなわなければならない。老人が犠牲者として選ぼうとしているのは必然的に非力な女・子供・年寄ということになる。
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