第16章:植物の声
森下海人の死で、廊下にはひとつの静寂が戻った。
しかし、それは安堵をもたらすものではない。
青木幸子は喘ぐように肩を震わせ、宝生ルカは手にしたナイフを落としそうになりながら目の前の血塗れの現実を見つめている。
高坂宏太は影を操る腕を押さえ、深い疲労の気配を滲ませていた。
高麗杏奈だけは、まだ曲の断片のような唸り声を口の奥に含んでいるが、その瞳は何も映していないかのように虚ろだった。
――四人。ほんの少し前まで誰もが共闘しようとしていた。
けれど、ゲームのルールは無慈悲だ。
最後の一人が決まるまで、殺意を止める術は誰にもない。
やがて、宝生ルカがふらつく足取りでカードキーのそばへ膝をついた。
北条光希が血塗れで落としていった“管理室”への唯一の手がかり。
彼女はそれをつまむように拾い上げ、唇を震わす。
「……これを使えば、もしかしたら出口か何か、あらゆる仕掛けを止められるかもしれない。でも、もうみんなボロボロで……」
言葉にならない呟きが尾を引く。
そのとき、高麗杏奈が不意に顔を上げ、時計を睨むように視線を動かした。
彼女の能力“無意味な歌”の時間帯がまた迫っているのかもしれない。
吐き出しかけた声を必死に飲み込み、脂汗が額を伝う。
青木幸子は息を整えようとするが、足の傷が思うように回復するわけもなく、うずく痛みと恐怖が頭を鈍く支配する。
「……私たち、このまま管理室に行って……何をするの? まだ誰かが死ななきゃいけないなんて、おかしいよ……」
涙声の幸子を見て、宏太は唇を噛みしめる。
この手に負えない残酷な状況を、どうやって打破すればいいのか。
心は迷い、それでも足を止めれば主催者に全滅させられるだけだと感じられた。
そうして一瞬の逡巡の後、宝生ルカが先に廊下を見据え、ゆっくりと立ち上がる。
「行くしかない。こんなに死んで、もう戻れない。だから……たとえ誰かが裏切るとしても、管理室を探して、終わらせるしか……」
その視線は微かに覚悟を帯び、ナイフの柄をまだ握りしめている。
高坂宏太は苦々しい表情を浮かべつつも頷き、彼女の意志を汲んだ。
動かなければ、皆を殺す“罠”か主催者の介入が来るのがオチだ。
高麗杏奈は不安定なまま、どうにか歌をこらえ、幸子に肩を貸そうとする。
心許ない足取りでも、互いに支え合えば動ける。
そう信じて最初の一歩を踏み出したとき、上方のスピーカーから奇妙なノイズが聞こえた。
まるで怒号のようにも聞こえる機械音――誰かが通信を強引に遮断しようとしているのか。
それは既にまともなアナウンスではなく、軋んだ金属音の塊だった。
ルカと宏太が警戒しながら通路を進み、幸子と杏奈は後ろをついていく。
かすかな足音だけが連なり、やがて扉が見えた。
鉄製の重厚な扉で、横にはカードリーダーのような装置が取り付けられている。
宝生ルカが拾ったカードキーをかざし、センサーが薄緑のランプを点灯させる。
重苦しいロックの外れる音がして、扉が開いた。
部屋の奥には幾台ものモニターやキーボード、そして配線が無数に広がっていて、いかにも“管理室”と呼ぶに相応しい空間だった。
息を呑んで中へ足を踏み入れるルカと宏太。幸子と杏奈も続くが、この部屋の奥で何が起きているのかはまるでわからない。誰かが潜んでいるかもしれないし、さらなる罠が仕掛けられているかもしれない。
彼らは壁に並ぶモニターを見回す。
そこには廊下や部屋の様子が映し出され、無残に倒れた死体も幾つも映っている。
自分たちが通ってきた“地獄”を客観視して、誰もが歯を食いしばる。
しかし、その中心にあったコンソールには警告音のようなランプが点滅していた。宝生ルカがキーボードに手を伸ばすが、パスワードらしき画面が障壁になり、思うように操作できない。青木幸子は混乱しながらも、モニターに映る無機質なカメラ映像を凝視する。
「どうすればいいの……全部止めて、外へ出られないの……?」
心の底から悲痛な声が漏れる。高坂宏太は影を動かせるわけもなく、機械操作にはまるで縁がない。
高麗杏奈も時計を気にしながら、いつ歌が再発するか分からない恐怖に怯えるだけだ。
そのとき、どこかでガチャンという小さな音がした。
彼らは反射的に身構える。もし罠が作動したなら、もう後戻りできない。
視線を合わせ、手探りでコンソールの周辺を調べようとする。
だが、高麗杏奈が耐えきれずに歌い出しそうになる。無理やり口を塞いでも、声帯が震えて限界を訴えていた。
「……ラン、ラララ……!」
小さな声が漏れるたび、他の三人は「しっ!」と静かに示し合わせる。
しかし焦りと圧迫感は募るばかりだ。
その刹那、幸子の足元で何かが弾けた。
暗闇に紛れていたコードが切れたのか、小さな火花が散って白煙を噴き上げる。
彼女が悲鳴をあげ、足を踏み外すようにバランスを崩して床に倒れ込む。
つんのめった拍子に、壁に設置されたモニターの角へ頭を強打してしまった。
「幸子さん!」
宏太が駆け寄るが、彼女の目はすでに虚空をさまよっていた。
血が額から滴り、床にまだら模様をつくっていく。
ルカと杏奈が悲鳴をあげて周りを見渡すが、モニターの電源がまた不穏な音を立て、映像が乱れ始めた。
「大丈夫……!? 返事して……!」
宏太が必死に呼びかける。しかし幸子の意識はかき消されたように反応がない。
彼女はわずかに口を開きかけたが、息を吐く代わりに血が流れ落ち、瞳から光が消えていく。
青木幸子は植物の声にすがり続けてきた。
誰かを助けたいと願い続けてきた。
だが、最期はこんな形で管理室の床に斃れ、無念のまま息を引き取った。
「嘘……こんなの、あんまりだよ……」
宝生ルカがぐしゃりと膝をつき、もう言葉にならない悲嘆に捉われる。
高坂宏太は呆然と立ちすくみ、高麗杏奈はまた歌の断片が声になって喉を震わせていた。
そっと幸子を抱き起こそうとしても、その命が戻るはずもない。
こうして、管理室へ辿り着いてもなお、また一人が脱落した。
今この場所に呼吸をしているのは、ルカ、宏太、杏奈の三名だけ。
瀕死の幸子を救う余裕はもはや存在せず、鳴り響く電子音が三人の鼓膜を浸蝕していく。
冷えきった管理室のモニターが再び点滅を繰り返し、血と煙に混ざった死の臭いを撒き散らしていた。
もう誰も、この施設の外へ出られるという確信を抱けないまま、地獄の深みへ足を踏み入れ続けている。
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