第13章:消える記憶
青木幸子と高麗杏奈、そして宇佐美リヒトは荒れた通路を走り続けた。
熱い呼吸が肺を焼くようで、立ち止まれば後ろから血塗られた狂気が追いすがってくる気がしてならない。
遠くで誰かの悲鳴や音楽の残響が混じり合い、耳鳴りのようにこびりついている。
高麗杏奈は必死に口を押さえ、衝動的に歌い出さないように耐えていた。
リヒトが書類を抱えたまま先導する形だが、先ほどの乱闘で何枚か散逸したらしく、肝心の地図が部分的に失われている。
時間のない中で手がかりを探すしかない。
やがて彼らは小さな扉を見つけ、無謀と承知の上で中へ飛び込んだ。
蛍光灯が明々と光る狭い部屋は、古びた医務室のようにも見える。
「ここなら……もしかしたら医薬品があるかもしれない。エリカさんや圭さんを助けられなかったけど、いま他の誰かが怪我をしても、少しは役に立つかも……」
幸子が震える声でそう言い、棚を探る。
しかし、そこに残されているのは消毒液の空き瓶や割れた注射器ばかり。期待は容易く裏切られた。
リヒトは部屋の隅に備え付けられたコンピュータらしき端末を覗き込んだ。
どこかで見たのと同じように、「認証キーを挿入せよ」と表示が出ている。
使えるカードキーはない。そもそも操作する時間も落ち着きも無かった。
「またか……やはり管理室に近い部屋なのかもしれない。けれど、鍵がなきゃどうしようもない」
彼は唇を噛む。いくら歴史事件を暗記しても、今の状況には何の役にも立たない。
頭の中で紀元や事件名が浮かんでは霞んでいくばかりだ。
「……とにかく、先を急ごう。ここに閉じこもっても状況は変わらないし、海人さんがいつ追ってくるかもわからない」
青木幸子がそう提案し、リヒトは重い足を引きずりながら頷いた。
高麗杏奈は息を整えようと壁に背中を預けるが、時計をちらりと見るたびに自分の能力の“歌時間”が再発する恐怖に駆られる。
ここで大声を上げれば、ほんの些細な物音が殺意を呼び覚ますのは明らかだ。
しかし、足を踏み出した途端、廊下の奥から小さくパリンというガラスの割れる音が聞こえた。
誰もいないはずの奥まったエリア……嫌な予感が駆け抜ける。
幸子と杏奈、リヒトは自然と目を合わせ、意を決して進むしかなかった。
曲がり角を抜けた先、薄暗い照明の下でうずくまっている影があった。
頭から血を流しているように見える。
見るに堪えないほど地面にはガラス片が散乱し、真っ赤な血がゆっくり広がっている。
「……誰かいるの?」
幸子が震える声で問いかけると、その影はゆっくりと振り向いた。
そこにいたのは北条光希だった。
ピンク色の服はさらに汚れ、顔にはうっすらと擦り傷がある。どうやら何らかの罠を踏んだのかもしれない。
「光希さん……どうしてここに……」
高麗杏奈が戸惑うように問いかけるが、光希は答えずに立ち上がろうとして、また崩れ落ちた。
棚から落ちたガラスケースに突っ込んだのだろう、足首がひどく捻れているらしく、ほとんど力が入らないようだ。
「なにが……どうなってるの。みんなは……ルカや宏太は……」
光希の声は掠れ、意識も朦朧としている。
リヒトが周囲を警戒しながら彼女に近寄るが、よく見ると彼女の手には血にまみれたカードキーのようなものが握られていた。
「そのカード……どこで?」
リヒトが問いかけても、光希は焦点の定まらない瞳で宙をさまよう。
「さっき、広い通路で誰かが落とした……死体のそばに落ちてたかも。……もう誰が死んだか、わからないわ……」
その言葉に、幸子と杏奈は目を伏せる。
エリカや圭の亡骸を思い出すだけで胸が痛む。
誰がどこで死んだのか、頭が混乱して区別もつかないほど悲惨な状況だ。
「とにかくここは危ない。光希さん、立てる?」
「無理よ。足、やっちゃってる……歩けない。……私を置いて、行って」
光希は血走った目でそう言い、酷い痛みに呻く。
青木幸子が「そんなことできない」と声を震わせるが、光希は容赦なく言い返す。
「だったら、あなたたちもここで死ぬだけ……管理室があるなら行きなさい。私が持ってるこのカードで……」
言いかけたところで、廊下の奥から複数の足音が聞こえた。
咄嗟に幸子とリヒト、杏奈は身を硬くする。
もし海人だったら――。
その想像だけで鳥肌が立ち、心臓が高鳴る。
足音は意外にも二人分らしい。
影が差し込んで姿を現したのは、高坂宏太と宝生ルカだった。
ともに血塗られた姿だが、互いを警戒するように距離を保っている。
「光希……そこで倒れてるのか。足を怪我したの?」
宏太が声をかけ、光希を見下ろす。
彼はさっきまで海人の暴走に巻き込まれていたはずだが、いつの間にかこちらに合流したらしい。
ルカは圭の亡骸を置いてきたことを後悔しているのか、表情が死んだように沈んでいる。
「海人は……どうしたの?」
リヒトが怯え混じりに問うと、宏太は辛そうに目を伏せる。
「さっき、ひとりでどこかに行ってしまった。俺たちはもう止められなくて……。死体が……あまりにも多すぎる。俺もルカも、動揺が収まらないまま走ってきた。……とにかく、ここは危険だ」
意見がまとまらないまま、北条光希の足首から血がじわりと染み出す。
動かせば痛みが激しく、立ち上がれそうにない。
彼女の手には、あのカードキーが握られたままだ。
「そのカード……もし本当に管理室を開けるキーなら、使うしかない。でも、光希さんを置いていくのは……」
青木幸子が逡巡していると、突然、高麗杏奈の身体が震え出す。
恐れていた“歌の時間”が来てしまうのだろうか。
彼女は必死に口を押さえ込むが、喉の奥から無意味な音が漏れ始める。
「……ら、ルッタ……ララ……!」
声を聞いた宝生ルカが驚いて足を滑らせ、床に置かれていたガラス片を踏みつぶして爆音じみた打楽器音を鳴らしてしまう。凄まじい騒音が狭い空間を揺らし、思わずリヒトが咄嗟に耳を塞いだ。
「やめてよ、そんな大きな音……!」
光希が叫ぶと同時に、遠くの曲がり角から激しい足音が響いてくる。
悪い予感はすぐに的中した。
人影がバタバタと近づいてくる気配……その凶暴なテンションは森下海人を思わせる。
顔を見なくても分かるほど、殺意を含んだ踏み込みだ。
「逃げなきゃ……!」
幸子がそう言いかけたところで、廊下の奥から荒れ果てた海人の姿が現れる。
血走った目、両手にはパイプとナイフを同時に握りしめ、もう理性が残っているようには見えない。
「どいつもこいつも、うるせえ……殺してやる……!」
叫びながら猛スピードで突進してくる海人。
まず標的になったのは、足を傷めて動けない北条光希だった。
逃げようにも逃げられない。
杏奈の歌は相変わらず暴発気味で、思考を乱すノイズをまき散らしている。
「待て……!」
高坂宏太が影を伸ばそうと力を込めるが、海人の動きが速すぎる。
近くにいた宝生ルカが悲鳴をあげつつ、光希の前に立ちふさがるが、
パイプで脇腹を殴打されて吹き飛ばされる。
床に転がったルカはうめき声を上げて動けない。
海人はさらに光希に向けてナイフを振り上げる。
その間に合わなさを悟ったリヒトが、紙束を放り出して海人の背にタックルを試みる。
だが、力の差は歴然だった。
ナイフが目にも留まらぬ速さでリヒトの胸をかすめ、血が噴き出す。
「ぐあっ……!」
リヒトは倒れ込みながら青ざめた顔で書類を撒き散らす。
歴史的事件の知識も何ら意味を成さないまま、胸元から赤い筋が広がっていく。
杏奈の歌声が甲高く跳ね上がり、再び混乱を煽る。
海人は満足げな笑みを浮かべ、しっかりとナイフを握り直して止めを刺そうとする。
リヒトの息はもう細く、悲鳴すら上げられない。
彼のメガネは血で曇り、地面に転がっていた。
「海人さん……やめて……!」
幸子が絶叫するが、その声をかき消すかのように海人はナイフを振り下ろした。
鈍い衝撃音が響き、リヒトの身体が一瞬だけ震える。
そして、そのまま動かなくなった。
歴史を記憶し続けた男は、あっけなく“脱落”してしまった。
「嘘……嘘でしょ……!」
幸子の足が震え、倒れそうになる。
だが、殺戮を止める間もなく、海人は続けて北条光希に目を向ける。
足首を負傷した彼女は逃げられない。
もはや時間の問題かと思われた瞬間、影がわずかに海人の手首を絡めとった。
「そこで止まれっ……!」
高坂宏太が渾身の力をこめて影を操り、ほんの一秒だけ海人の腕を固定する。
さすがの海人もその違和感に身を強張らせ、動きが鈍る。
その隙を突いて宝生ルカが蹴りを入れようとするが、パイプで撃退されかねないと察して一瞬躊躇してしまう。
「ちっ……!」
海人が影を力ずくで振りほどき、再びナイフを構える。
そこへ高麗杏奈の歌声が絶頂に達した。絶叫じみたメロディが廊下に乱反射し、海人は顔を歪めて耳を塞ぐ。
ごくわずかな隙が生まれ、北条光希は必死に身体をずらし、ナイフの軌道から逃れようと這いつくばる。
しかし海人は容赦なくパイプを振り下ろし、その鉄の塊が光希の肩を激しく叩きつける。
光希の悲鳴が弾け、床に赤い染みが広がっていく。
杏奈の歌もまた、絶望を呼び寄せるかのような狂乱の音色だ。
狂宴のようなドタバタの中、青木幸子が遂に限界を超えたように大声を上げる。
「やめてえええっ!」
混乱したまま、意を決して海人に飛びかかる。
植物の声を頼りにする彼女に格闘の術などないが、とにかく止めなければならないと身体が動いたのだ。
海人はナイフを振り回し、幸子の腕をかすめて血を散らすが、それでも幸子は必死にしがみつく。
「もう十分……人を殺すのはやめて……!」
だが、海人にそんな理屈が通じるはずもなかった。
ナイフを握る手が幸子の背中を捉えようとする。
とっさに宝生ルカが叫んで身体を投げ出すが、逆に海人の肘がルカの顔面に入り、両者とも崩れ落ちる。
廊下は修羅の巷そのものだ。
そして、宇佐美リヒトの命はすでに消えた。
書類は血まみれで、読める箇所もほとんど失われている。
北条光希が握っていたカードキーも、いつ落ちたのか転がって血の上に沈んでいた。 リヒトの死が意味するものは何か。
結局、誰もが管理室に辿り着く前に死んでいく――その悪夢じみた現実に、青木幸子は泣き叫ぶしかない。
高坂宏太の影はもう限界で、海人を止められそうにない。
高麗杏奈は大声の歌を止められず、視界には赤い血とガラスの破片、折れ曲がったパイプが散乱している。
こうして、宇佐美リヒトという知識の塊はあっけなく命を奪われ、北条光希の安否も危うい。
森下海人の暴走は誰にも止められず、新たな血が流れ続ける。
破滅の足音がより一層大きく響く中で、まだ生き延びている者たちはただ必死に叫び合うしかなかった。
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