第12章:消えた灯

狂気に支配された森下海人の背後では、南條エリカの亡骸が冷たく横たわっていた。あれほど必死にもがいていた彼女の体から生気が失われ、カレーの匂いに閉ざされた世界ごと凍りついたかのようだ。

まるでその死を嘲笑うかのように、廊下の天井から流れる電子ノイズだけが冷酷に鳴り響いている。

宝生ルカは震える唇をかみ、まだ呼吸すら安定しない伏見圭を抱えていたが、とても体勢を保てる状況ではなかった。


 高坂宏太は海人を止めようと必死に動く。

だが先ほどまでの乱戦で身体は消耗し、影を伸ばす一瞬の集中力を得られずにいる。海人はパイプを取り落としたまま肩で息をしているが、いつ再び襲いかかるか分からない。

高麗杏奈の歌がやみ、彼女の姿は見えない。

おそらく青木幸子、宇佐美リヒトとともに逃げ去ったのだろう。

足音が遠ざかったあとの通路は、かえって張り詰めた孤独を煽り立てていた。


 すぐ脇で北条光希が動けぬまま、エリカの死体を凝視している。

彼女のピンク色の服には血と埃がこびりつき、かろうじて「ピンク」であることを主張しているだけだ。

あのとき南條エリカが身を挺して海人を止めようとしなければ、今こうして自分が生きていることもなかったのかもしれない。

その考えが胸を締めつけ、声すら出せない。


「くそっ……」 


宏太が呻き声を漏らした。海人がうつむいたまま前かがみに立ち尽くし、パイプを拾うでもなく、ただ微動だにしない。

殺意に火がついたまま沈黙している――その姿はむしろ一番危うい。

次の瞬間にも再び暴走して、誰かの命を奪いかねない。


 宝生ルカは圭を床に寝かせながら、泣きじゃくるように「お願い、圭さん、死なないで……」と繰り返した。

微かな鼓動があるものの、止血は不完全で、もはや限界に近い。

と、そこへ海人の鋭い息遣いが再び聞こえる。


「もう……誰も信じられない。どうせ、これ以上やっても……みんな死ぬんだろ……」 


虚ろな呟きは自分に言い聞かせるようだった。

宏太が息を呑み、いつでも影操作できるように身構える。

しかし海人の荒んだ瞳にあるのは殺意だけではない。

深い自責、悔恨、諦め――あらゆる負の感情が混ざり合い、彼を追い詰めている。


 そのとき、伏見圭の口元がかすかに震えた。

宝生ルカが「圭さん……!」と身を乗り出すと、圭はうわ言のように掠れた声を発する。


「はやく……逃げろ……」


誰に向けて言ったのかも分からない。

だが彼の瞳は森下海人を捉えていた。

次の瞬間、圭の胸が痙攣したように大きく上下し、まるで最後の力を振り絞るかのように息を吐き出す。


宝生ルカは思わず「圭さん!」と叫び、身体を支えるが、圭は目を閉じたまま静かに力が抜けていく。


「嘘……嘘でしょ……!」 


ルカは何度も首を振り、再び圭の胸に耳を当てるが、もはや脈は感じられない。

薄れた体温が急速に失われていくのがわかった。


「あああ……っ!」 


声にならない叫びがこみ上げ、ルカはその場で崩れ落ちた。

伏見圭は力尽きたのだ――長らく苦しんでいた傷が深く、手当ても不十分なままに、命の灯火が消え去った。


 また一人、死んだ。静寂が訪れる。海人はその光景を見ていたが、何も言わずにパイプを握り直すことさえしない。

高坂宏太はショックで言葉が出ず、胸を押さえて息を呑んだ。

自分にもっと力があれば、彼を救えたのかもしれない――そう思うと、逃げ場のない罪悪感が四肢を縛る。

北条光希は震えながら後ずさりし、床に尻をつく。

エリカと圭、二人の命がほぼ同時にこの場を去った事実に、理性が追いつかない。


 まるで悲劇を称賛するかのように、スピーカーからノイズ混じりの乾いた声が響く。


「素晴らしい。これで“脱落者”がさらに増えましたね。さあ、次は誰が……」


声は途中で途切れ、言葉にならない笑い声のような電子音が尾を引いた。

高麗杏奈たちが逃げた先まで響いているかは不明だが、少なくともこの場に残る者たちの心を深くえぐるには十分だった。

煽るような口調がいつまでも頭にこびりつく。


 血に塗れた廊下には、二体の亡骸が並んでいる。

南條エリカは目を開いたまま動かず、伏見圭は苦悶からようやく解放されたかのように穏やかな表情で息絶えていた。

宝生ルカは圭の手を握りしめたまま肩を震わせ、北条光希も目を潤ませつつ視線をそらす。 

いまだ生きているのは、森下海人と高坂宏太の二人。

それでもこの場所に留まるのは危険だと本能が告げている。海人が次に何をしでかすのか分からず、宏太も完全に信用できるわけではない。

もはや共闘さえ成り立たない一触即発の状態だった。


「……ルカ。俺たち、もう出よう。ここにいたら、本当に全滅だ」 


宏太が意を決してそう言うが、ルカは圭の亡骸を抱きしめたまま動かない。


涙を噛み殺し、宙を睨むような眼差しで言葉を失っている。

北条光希も立ち上がれず、茫然自失で血痕を見つめ続けている。


「ねえ、こんな結末……嫌だよね」 


光希が呟くと、宏太は静かに頷く。だが、覚悟を決めなければ動けない。

海人の存在が、再び殺意を放ち始める可能性があるからだ。 

その海人はパイプを投げ捨てたまま、亡骸たちをぼんやり眺めていた。

自分が手を下したエリカ、そして放置された末に死んだ圭。それらを見比べるように、ぶつぶつと口を動かしている。

眠れない深淵と地獄が結びつき、完全に理性を蝕んでいるようだった。


 やがて、海人がゆらりと身体を揺らして立ち上がった。

その動作に反応するように、宏太が影を動かし、いつでも制止できる構えを取る。

ここでまた誰かが襲われれば、さらに死者が出るのは確実だ。 

しかし海人はむしろ先へ進むように足を引きずり、廊下の奥を目指した。

何を考えているのか定かではないが、一人で消えていこうとしているように見える。


「おい、海人……」 


宏太が声をかけるも、海人は振り返らない。代わりに肩を小刻みに震わせ、

「眠れねえまま……終わるのか、これで……」とかすれた声を漏らすだけだ。

まるで彷徨う亡霊のように、廊下の闇へ溶け込みつつある。


 こうして、その場には二人の亡骸を挟んで、宝生ルカと北条光希、高坂宏太が取り残された。

海人は闇の向こうへ消え、先に逃げた青木幸子や高麗杏奈、宇佐美リヒトの行方もわからない。 

ルカは圭に最後の別れを告げることもできず、ただ「ごめんね……」と泣き崩れる。光希も放心しきったまま背を丸め、宏太は胸が張り裂けそうな罪悪感と無力感に苛まれる。

ここからどうすればいいのか、答えが見つからない。 

廊下に血の匂いが漂い、主催者の不気味なノイズが遠くでかすれ続けている。

死の連鎖はさらに加速するだろう。

まだ生き残っている者たちは、次の瞬間に誰かを殺し、あるいは殺される運命を否応なく引きずるしかない。

バトルロイヤルの凶行は、もはや終わりが見えない地獄へ踏み込んでいた。


 伏見圭というもう一人の犠牲者を加え、南條エリカと並んで血に沈む。

出口はおろか、わずかな希望すら霧散し、残された者たちの正気がまた一枚はがれ落ちる。

次に待つのは誰の死か。

それとも、この施設に巣食う真の悪意が、さらなる罠を仕掛けているのか。

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