第11章:新たな犠牲者

管理室を目指す、と決めたはずなのに、足取りは重いまま。

通路を進むたびに血の匂いが鼻を突くような気がして、南條エリカは吐き気を抑えきれずに肩を震わせる。

一度胃の中身を吐いてしまえば、すべてカレーの匂いが混ざって感じられ、何もかもが輪郭を失っていくようだった。


 宝生ルカは伏見圭を必死に抱え、何とか意識を繋ぎ止めようとするが、その姿勢は見るからに不安定だ。

身体のあちこちが震え、ほんの少しの衝撃でもジャンプしてしまいそうな予感がする。

あの爆音じみた音楽をまた鳴らせば、誰かが神経を逆撫でされて取り返しのつかない惨劇を起こしても不思議ではない。


「……がんばって、圭さん……」 


呼びかけても返事はない。

圭はかろうじて鼓動を保っているだけで、荒い呼吸が胸をわずかに上下させているにすぎない。


 森下海人はその後ろで俯きながら歩いていた。

先ほどの錯乱は小康状態に入ったが、その瞳は相変わらずどこにも焦点を結んでいない。

ときどきナイフの柄を握り直す癖が抜けず、青木幸子は距離を取りながら不安げに歩く。


「海人さん……あなた自身が眠れず苦しんでることはわかる。けど……少しでも私たちを助けようとは思ってくれない?」


声をかけても、彼は乾いた唇をわずかに開いただけだった。

「ああ……」と呟いたのかもしれないが、雑音にかき消されて何を言ったのか定かではない。


 高麗杏奈は意味不明な歌をほとんど止めているが、喉がガラガラで、声を出せばまた発作が再開しそうなのかもしれない。

彼女は時計を気にしながら、いつ絶望のメロディが再来するかびくびくしている。

周囲はどんな小さな音にも敏感になっているし、これ以上の騒音は神経を破壊する凶器に等しい。 


宇佐美リヒトは地図と書類の断片を握りしめ、何度も目を通す。「Control Room」や「Security」といった単語を見るたび、そこに希望があるのではと信じたくなるが、裏を返せば死角が多い場所ほど罠や敵の潜伏がありうる。

さきほど北条光希が言った「久遠柊馬の死」も、まさにその類かもしれない。


 一方で、北条光希は最後列に位置していた。

すでに単独の脱出は諦めたのか、それとも、また別の機会を狙っているのか――彼女の顔色は冴えず、ピンク色の服が逆に不気味な際立ち方をしている。

ときどき壁際を見回し、何かを探るような目つきになるのを高坂宏太は見逃さなかった。


「光希……もし何か隠してるなら、今のうちに言ってくれ。もう手遅れになるかもしれない」 


声をかけても、彼女はわざとらしく視線をそらし、「何も知らない」とだけ呟く。

その瞬間、耳障りな機械音が廊下の天井から鳴り出した。――あの主催者による無慈悲なアナウンスかと思いきや、今度は妙に早口の電子音声が断続的に流れたのだ。


「……何なの、これ。前みたいな“脱落を促す”放送じゃない……?」 


青木幸子が不安げに立ち止まると、南條エリカが恐る恐る壁際を覗く。

暗いレンズがにらみを利かせる監視カメラは相変わらずそこにあるが、その上のスピーカーからノイズが混じるように響いている。何かが異常をきたしたのかもしれない。


「まさか、柊馬さんが起こした爆発の影響で、施設のシステムが乱れた……?」 


リヒトが眉をひそめる。その可能性を示唆しながらも、どう対処したらいいのか誰もわからない。

ノイズの切れ間から断片的な声が漏れるが、「システ……ヤ……ラ……」と何を言っているのかほとんど判別できない。


 緊張が張り詰める中、宝生ルカの足元で金属の何かを踏みつける音がした。

彼女が見下ろすと、そこには細長い針金のようなものが横たわっている。

まるでトラップの一部のように見えた。

もう一歩踏み込めば足首に絡まっていただろう。「危ない……!」 とっさに後ずさりするルカ。

だが、その拍子に伏見圭がズルリとずり落ちそうになる。

慌てて支えようとした瞬間、期待通りの悪夢がやってきた。

――彼女がわずかにジャンプした格好になってしまい、管楽器が割れるような大音量が鳴り響く。


「ぎゃああ!」 


南條エリカが頭を抱えて膝をつき、海人は思わず耳を塞ぐ。

宝生ルカ自身も「ごめん!」と叫びながら、伏見圭を庇うのがやっとだ。

この騒音に乗じるように、高麗杏奈の喉が反応し、デタラメな歌詞がまた口をついて飛び出しかける。

彼女は必死に歯を食いしばるが、完全には抑えられそうにない。


 そこで、森下海人が突如苦しげな息を吐き、凶暴な目付きに戻った。

大音量の刺激が彼の精神をいよいよ壊しにかかったのかもしれない。

再びナイフを探すように視線をさまよわせ、身震いしながら呟く。


「うるせえ……もういい、やめろ……!」 


高坂宏太が影を使うタイミングを計るが、海人は鋭い動きで宏太の腕を振り払った。今度はすんなり影を当てる隙さえ与えない。「海人さん、落ち着いて!」 青木幸子の悲鳴じみた呼びかけも届かない。海人は床に落ちていた鉄パイプを掴み、一気に北条光希の方へ振りかぶった。「おまえら、どうせ裏切るんだろ……! もう誰も信じられない……死ねっ……!」


 一拍遅れて光希が悲鳴をあげる。ピンク色に染まった服が目立ちすぎて、海人の標的にされてしまったのだろう。

慌てて後退した光希だが、通路の狭さと荷物の乱雑な配置のせいで足がもつれ、尻餅をつく。

その絶好の隙を見て海人がパイプを叩きつける――その刹那、思わぬ音が響いた。 ぎゃんっという金属同士がぶつかる衝撃音。横から南條エリカが持っていた鉄パイプを必死に突き出し、海人の一撃を辛うじて受け止めたのだ。

彼女は泣きそうな目で歯を食いしばり、打ち合いに耐えている。


「もうやめて! 殺し合いなんてしたくない……!」

「うるせえっ!」


海人は力任せに叩き込む。

エリカの体力で対抗できるはずもなく、ズザッと床を擦りながら後退し、背中を棚に打ち付ける。

頭がくらりと揺れ、視界が歪む。

パイプが手から離れて転がる。


 そこへ高麗杏奈の歌が限界を超えたように爆発する。

わけのわからない単語が凄まじい大声で吐き出され、耳障りなメロディが廊下にこだまする。

海人は顔をゆがめ、さらに癇癪を起こしたようにパイプを振り回す。


「いい加減にしろ、黙れ……!」 


恐るべきことに、そのパイプの先端が青木幸子の頭部をかすめた。

彼女は悲鳴を押し殺して倒れ込み、髪が何本か切り落とされたようだった。

辺りには鉄臭い風が漂い、誰が怪我をしているのかも定かでないほどカオスに陥る。


 すると、後ろで宝生ルカが叫ぶ。


「伏見圭さんが……!」と泣き声交じりに。圭の意識はもう限界を超えていたのか、見る見るうちに顔が青ざめ、呼吸が弱々しくなっていく。

誰もきちんと手当てを続けられないまま、乱闘に気を取られているのだ。 

その惨状に、高坂宏太は奮起せんと身体を跳ね、もう一度海人を止めようとする。

しかし今度は失敗できない。彼がほんの一瞬だけ呼吸を整え、海人の影を捉えようと目を凝らした――。


「動け、俺の影……!」 


だが、海人は敏感に察知したのか、すかさず横にステップを入れて軌道を外す。

宏太の影は空しく床を滑るだけ。

しかも海人はそのまま勢いを利用し、パイプを高々と振り上げて宝生ルカへ狙いを定めた。


「もう誰でもいい……殺してやる……!」


 ルカは伏見圭を抱え込んだまま動けない。

ジャンプすれば音楽が鳴る――この状況では命取りだ。

目をぎゅっと瞑り、恐怖に耐えようとするしかない。 パイプが振り下ろされる寸前、奇妙な叫び声が飛び込んできた。

高麗杏奈の喉から絞り出された音と同時に、別の金属音が炸裂する。

ガツンという衝撃が海人をはじき飛ばした。 

見れば、北条光希が倒れた姿勢から必死に足を伸ばし、海人の脛を蹴り飛ばしたのだ。

ピンク色に汚染された服のまま、涙目で震えつつも、土壇場の反撃を成功させた形だった。


「や、やめなさいよ……!」 


海人は膝から崩れるように床に転がり、パイプを取り落とす。

だが、転がったその先に先ほど南條エリカが落としたパイプが転がっている。

彼は再び何かを掴みかけるが、その瞬間、ギャッと痛みに似た声をあげた。


 エリカが奮起したのか、もう一本の鉄パイプを彼の肩に叩き込んだのだ。

追いつめられた狂気に抗うべく、自分の命が危ういとわかっているのに、必死に力を込めている。


「海人さん……目を覚まして……これ以上、誰も殺させない……!」 


叫び声と衝突音が混ざり合い、床は血と汗でぐしゃぐしゃだった。

そんな地獄絵図の中、青木幸子はようやく体勢を立て直し、伏見圭のそばへ駆け寄ろうとする。


「どいて、早く手当てしないと!」と叫ぶが、足元に転がる海人とエリカのパイプ合戦に阻まれて近寄れない。 

宇佐美リヒトは完全に動揺し、資料を抱えたまま動けない。

高麗杏奈の歌は激しさを増し、声が裏返るほどだ。

高坂宏太が影を狙うが、混戦のあまり狙いを定めきれない。北条光希は膝を抱え込んでいる。


 そして――エリカのパイプを海人が素手で押さえ込み、狂気の表情を浮かべたままもう一本のパイプを手にする。

エリカが恐怖で目をそらした瞬間、海人はそのパイプを彼女の喉元へ突きつけ、力任せに押し下ろした。


「死ねッ!」 


再び凶鳴が響く。

パイプがエリカの首筋を圧迫し、ひしゃげた金属音を立てながら彼女の息を奪っていく。

顔を真っ赤にして抵抗しようとしても、海人の腕力には到底及ばない。

エリカは目を見開いたまま、絶望の色を浮かべる。


「やめろおおお!」 


高坂宏太が影を必死に伸ばすが、海人は狂気の反射神経で身体をずらし、まんまとかわす。

そのままパイプをもう一度強く押し込むと、エリカの目に涙が滲み、口からかすかな呼吸音すら消えた。 

一瞬、世界が静止したかのように感じられる。

高麗杏奈の歌も止まり、宝生ルカも悲鳴さえ失ったまま呆然と凍りつく。


 南條エリカの身体がガクンと力を失い、そのままぐったりと床に崩れ落ちる。

目は開いたままで、どこかを見つめているようだったが、微動だにしない。

その手には鉄パイプが滑り落ちて転がり、カンと空虚な音を立てるだけ。


「……エリカ、さん……?」


青木幸子が絶句して一歩踏み出す。

しかし、その瞬間、海人が立ち上がり、パイプを握り直して振り向く。

その瞳はまだ血走ったままで、完全には正気に戻っていない。

エリカを殺してもなお、彼の狂乱は収まらない。 

絶叫をあげながら、宝生ルカが伏見圭を放り出すように手を離してしまう。

圭の身体が床に横たわり、呼吸はほとんど確認できない。

リヒトは思わずその場に尻餅をつき、高麗杏奈は泣き声と叫び声の境目のような音を漏らす。


「やめろ……海人……! おまえ、もう人を殺したくないって……!」 


高坂宏太が絶望的に叫んでも、海人は聞こえていない。

視界全体が赤黒いフィルターで覆われているかのように、狙われる標的を探している。

次に誰を殺すのか、あるいは自分を殺させて終わるのか――破滅的な衝動が彼を支配していた。 

そう、南條エリカは犠牲になった。カレーの匂いしか感じられなかった彼女の命が、ここで儚く散ってしまった。

彼女の遺体からは血の臭いが立ち上るが、誰もそれを“カレー”と呼ぶ人はいない。

もう誰も――。


 倒れたエリカの死を目の当たりにした瞬間、青木幸子の中で何かが弾けた。

助けられなかった後悔、海人に対する恐怖、植物の声にすがっている自分への嫌悪……すべてが胸を抉る。


「……もう、無理。こんなの……嫌……!」 


彼女は泣き叫びながら、通路の反対側へ駆け出す。

逆上した海人の攻撃範囲に留まっていては命がないと判断し、本能的に逃げの一手を選んだのだ。

高麗杏奈も同時に悲鳴をあげながら同方向へ逃げ、歌の止まった口を必死に押さえている。

宇佐美リヒトはリヒトで、紙束を抱えてまごついているが、やがて「まずい……!」と呟き、二人を追うように走り出した。


 廊下に残ったのは、高坂宏太、宝生ルカ、北条光希、そしてまだ息も絶え絶えな伏見圭。

それと、狂気の海人。

そして、冷たく横たわる南條エリカの亡骸。


「くそ……っ!」 


宏太が再び影操作を狙うが、勝手に身体が震えて集中できない。


宝生ルカは倒れ込んで動けず、光希は呆然とエリカの遺体を見つめたまま、まるで魂が抜けたようになっている。 

死が始まった。

いや、死はずっとそこにあったが、ついに仲間同士の“初めての殺害”が起きた。

誰かを葬ることで、死の連鎖が止まるのか、あるいはさらに深い地獄が始まるのか――その答えはまだ誰にもわからない。


 南條エリカという犠牲者が増えたことで、残された者たちの精神はより危うい状態へと追い込まれた。

森下海人がこのままさらなる殺戮を繰り返すのか、それとも誰かが彼を止めるのか。伏見圭も限界に近いが、今は誰も手当てする余裕すらない。

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