第10章:最初の脱落者

衝撃音の余韻が廊下の奥を揺らし、空気が不気味に震えていた。

先ほどまで死闘寸前の空気を纏っていた森下海人も、高坂宏太も、高麗杏奈も、その不吉な響きに意識を奪われる。

高麗杏奈の歌声はひとまず小康状態に入り、代わりに荒い呼吸の音が彼女の唇から漏れ出した。

廊下の向こうでは、久遠柊馬と北条光希が何かを仕掛けているのか、それとも――。


「いったい何が……」 


呆然とした声を漏らしたのは宝生ルカだった。

伏見圭の手当てに必死だった彼女は、突然の騒音に呼応するように震えあがり、反射的に脚を動かしてしまう。

着地の瞬間、金属製の打楽器のようなビリビリしたノイズが響き、そこに南條エリカの「やめてよ!」という悲鳴が重なる。

耳障りな音に耐えきれず、エリカは頭を抱えてしゃがみ込む。

カレーの匂いしかわからない自分が、今何の危機を嗅ぎ取るべきかわからないまま、ただ悲鳴をあげるしかない。


 高坂宏太はどこか覚悟を決めたように歯を食いしばり、海人の前へ立ちはだかった。

海人は相変わらずナイフを落としたまま、狂気に染まった目で視線をさまよわせているが、硬直して動けない状態だ。


「海人……俺だって怖いよ。誰が敵か味方か、もうわからない。でも……おまえはまだ、自分を見失うな……!」 


宏太の声にはわずかながら正気が残っていた。

ほんの一瞬、かつて海人が“普通の男”だった頃の面影を感じさせる。

だが、海人はかすれた笑いを浮かべながら荒い呼吸をするだけで、言葉を返さない。 それでも、宏太は自分の影に意識を集中し、いつでも海人を取り押さえられるよう構えていた。

一秒だけ、ほんの一瞬だけ影を伸ばせる。

そのタイミングを見誤れば、自分がナイフで刺されるか、海人がさらに暴走してしまう。


 そんな二人を横目に、青木幸子は圭の側を離れていた。

なぜなら、先ほどの爆発音に似た衝撃の中、遠くから微かな植物の“声”が聞こえた気がしたからだ。

あの人工庭園の植物とは違う、別の何かが呼びかけているような――そんな幻聴めいた感覚に突き動かされている。


「……私、少しだけ行ってくる。あっちに何かがあるかもしれない……」 


もちろん制止されると思ったが、誰も彼女を引き留める余裕がなかった。

南條エリカは自分の耳を塞いだまま震え続け、宝生ルカは伏見圭の首筋を何度も確認しては声にならない悲鳴をあげている。

圭の意識はもはや闇に沈みかけていた。


 高麗杏奈の歌もまた、断続的に奇妙な単語を連ねるだけになっており、正気とは程遠い。

切羽詰まった表情のまま「トララッタ、ヘスコロ……!」などと口走る彼女の瞳はどこにも焦点が合っていないように見える。 

宇佐美リヒトは再び資料をつかみ取り、廊下の奥に目をやる。

先ほどの衝撃は、久遠柊馬と北条光希が階段を上った先から発生した可能性が高い。彼らが罠にかかったのか、それとも何かを爆破してでも出口を開こうとしたのか。

いずれにせよ、リヒトの心に湧き上がるのは「連中が自分たちを出し抜いた」という疑惑だった。


「……このままじゃマズい。もしかして、柊馬と光希は本当に出口を見つけて、罠を吹き飛ばしたのかも……」 


しかし、それを確かめに行くにはあまりに危険すぎる。

仲間の中で暴走しかけている者が少なくとも二人はいる。

森下海人と高麗杏奈――いや、もっと多いかもしれない。 

リヒトは鼻で笑うように息を吐いた。

戦場で得た歴史の知識が無意味に詰め込まれた頭脳では、今の状況を論理的に整理しきれない。

むしろ、何か一つ行動を誤れば、自分も相手を殺さなくてはならない可能性がある。そのことが、じわりと背筋を凍らせていた。


「このまま黙って死ぬのか……それとも、誰かを犠牲にするか……」 


思わず自問したとき、ふとドアの向こう側で扉を開け閉めするような音が聞こえた。感情的になっていた海人さえも、そのかすかな音に反応して呼吸を止める。

外の通路に何かがいる――いや、誰かが戻ってきたのかもしれない。

 警戒しながら宏太が廊下へ足を踏み出す。すると、重苦しい足音が近づいてくるのがわかった。

まるで巨大な何かが床を踏みしめているようだが、その正体を想像するだけで寒気が走る。

先ほどの爆発音の後に現れた“新たな敵”なのか、あるいは柊馬たちが死の淵から戻ってきたのか。


「……誰だ」 

宏太が低く唸る。

しかし応答はない。

代わりにさらに近づく靴音が、こちらを威圧するかのように鳴り響いた。

高麗杏奈も歌声を止めて振り返り、エリカは咄嗟に鉄パイプの端を握りしめる。

その間にも宝生ルカは圭を看ながら、怯えきった瞳を入り口へ向けるだけだ。


 やがて、陰の中から姿を現したのは北条光希だった。

彼女は血と埃まみれの服をピンク色に染めたまま、険しい面持ちでこちらを見る。

久遠柊馬の姿はない。


「光希……? 柊馬はどうしたの?」 


リヒトが息を呑みながら尋ねる。光希は答えずに部屋へ足を進め、怯えるエリカを軽く睨んでパイプを下ろさせる。


それから、なおも混乱している海人のほうへ視線を移した。


「柊馬は……もう二度と戻ってこないわ。あいつ、出口らしき扉を見つけて、強行突破を試みたけど……爆発が起きて、そのあとに誰か――たぶん“残っている参加者”か何かが仕掛けた罠で襲われたの。私だけ、どうにか逃げてきた」


 無表情でそう言う彼女の目には、色濃い闇とあきらめの色がある。

柊馬を見捨てたのか、それとも柊馬が自分で散ったのか。

あえて誰も突っ込まない。

問いただす余裕がないというのもあるが、どうせ死闘の中で起きた悲劇なら、追求しても何も生まれないだろう。


「出口なんてなかった……あの扉の向こうは、さらに凶悪な仕掛けが待ってるか、主催者が兵器でも隠しているか……とにかく、無理よ。私たちは……私たちは」 


光希の声が震え、余裕を失った瞳が泳ぐ。

裏切って脱出しようとした彼女の計画は頓挫したらしい。

それどころか、久遠柊馬という切り札を失い、絶望だけが残ったというわけだ。 

それを聞いた宝生ルカはほとんど壊れた声で呻き、

「じゃあ本当に……全員死ぬの……?」と呟く。

圭はその声を聞いているのかいないのか、もはや反応が乏しい。

ただ、わずかに胸が上下しているだけだ。


「死ぬなんて……私はまだ何も……!」 


南條エリカが泣き崩れ、血とカレー臭が混ざり合った異様な匂いを吐きそうになる。だが、その悲鳴の中で、森下海人はひどく乾いた笑い声を上げた。


「そうか……俺たちは助からないんだな……」 


その口調はどこか諦観を帯びている。ナイフを取り落としたまま、彼は吸い寄せられるように光希へ近づく。

光希は少しだけ身を引いて警戒するが、

海人の瞳には先ほどのような凶器じみた光はない。

むしろ虚空を見つめているようにも見える。


「もういい……何もかもが嫌になった。眠れない苦しみも、この殺し合いも……全部終わりにしてくれ。誰か俺を殺せ……」

「馬鹿言わないで、そんな……!」


高坂宏太が海人の腕を掴む。

しかし海人の腕は冷たく硬直していて、まるで骨の抜けた人形のようだった。


「おまえはまだ……いや、そもそも俺たち全員……こんなところで終わりたくないだろ……?」

「でも、出口なんてないって……柊馬は死んだんだろ? じゃあ何を期待して生き延びるんだよ……」 


海人の言葉が凍えるように響く。その背後で高麗杏奈の歌声がまた掠れ出す。

「……ラ、ラララ……テュス……」という不気味な抑揚は、彼らの精神を容赦なく削っていく。


 そこへ、宇佐美リヒトが沈黙を破った。


「……出口が見つからないなら、主催者を探し出せばいい。カメラがあるはずだ。そいつを制御するブースもどこかにある。管理室か、セキュリティルームか……何か。俺たちがそこを抑えれば、状況を変えられる可能性がある」


絶望に沈んだ空気を割るような強い声に、皆が目をやる。

リヒトは資料の一端を掲げてみせる。

そこには断片的な英文のメモがあり、“Control Room”という単語がいくつも踊っている。


「書類を全部読み込めているわけじゃないが、どうも制御室が何箇所かに分かれてるらしい。柊馬が突き止めた“出口”は罠だったが、まだ別の管理システムがどこかにある可能性は高い。……もちろん、ここにいても死ぬだけなら、探してみる価値はあるんじゃないか?」


 ほんのわずかな希望の光が見えた気がした。

宝生ルカが埃まみれの床から立ち上がり、伏見圭を抱えかけてよろめく。

彼女一人では無理がある。


「誰か手伝って……圭さんを移動させたいの……もし少しでもマシな場所があれば、まだ救えるかもしれない……」 


青木幸子が駆け寄ろうとしたとき、海人が珍しくそれを手伝う素振りを見せる。

意外な光景だが、彼はもはや暴れる気力すらないのだろう。

やけっぱちと虚脱が入り混じったまま、ただ黙って圭を持ち上げようとする。 

そこに高坂宏太も加わり、なんとか圭の身体を支える形ができあがる。

高麗杏奈は半分意識の飛んだまま奇妙な歌を呟くが、その声にも少しだけ落ち着きが戻ってきた。


「よし……なら、移動するか。リヒトが言う管理室を探すんだ……」 


南條エリカが涙を拭ってパイプを握り直す。

一方の北条光希は柊馬を見捨ててきた罪悪感と、それでも生き残りたいという欲望を抱えたまま、黙って皆の後を追う。

もはや仲間うちの裏切り云々を検討する余裕すらない。

全員が一致団結するわけではないが、死にたくないという思いがかろうじて歩みを揃えていた。


 こうして、十人が九人となり、瀕死の伏見圭を抱えながら、残された者たちは廊下の先へ進み始める。

誰もが心に暗い影を宿し、いつ狂気が再燃するかわからない。

森下海人も、またナイフを拾うかもしれないし、高麗杏奈の歌が新たな悲劇を呼ぶかもしれない。

それでも、足を止めれば全員が死ぬだけだ。

管理室へ通じるルートがあるならば、わずかな望みに賭けるしかない。


その背後で、北条光希はピンク色の服の袖を握りしめたまま、唇を噛んでいる。

彼女にはまだ“何か”を隠しているような気配があるが、それを口に出せないでいる。まるで、今ここで明かせば、さらなる裏切りと死闘が勃発しかねないことを知っているかのようだ。


死闘の果てのさらなる死闘。

誰もが疑心暗鬼を抱え、精神が擦り切れながらも歩みを進めていく――そうしなければ、いつの間にか誰かが後ろからナイフを突き立てる展開もありうる。

その可能性は、もはや否定できないほどに切迫した現実だ。

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