第9章:扉の先へ
扉を開いた先にあったのは、見慣れない通路と金属の柵が立ち並ぶ細長い空間だった。
森下海人は手の中のカードキーを握り締めたまま、視線をさまよわせる。
誰もが神経を研ぎ澄ましているが、脳裏には先ほど自分が殺した男の面影がちらついて離れない。
眠れない疲弊と罪悪感、それが海人の理性をじわじわと削り落としていく。
数メートル先では、久遠柊馬と北条光希がひそひそと何かを話し合っている。
部屋の奥へ続く階段を見つけて、どうやら先に偵察に行こうと示し合わせているようだ。
柊馬はまだ言葉が壊れかけで、ときどき舌がもつれそうになるが、どうにか正気を保っている。
「もし出口が見つかったら、二人だけで行くの?」と光希が訊ねると、柊馬は曖昧に頷いた。
もはや全員を引き連れる余裕など残っていない。
主催者の宣告どおり、時間が来れば一挙に全滅の可能性が高いのだ。
宝生ルカと青木幸子は伏見圭の応急処置に必死だ。
救急セットに残っていた包帯と少量の薬を使い、なんとか止血を続けているが、圭の呼吸は浅く、まともに意識を取り戻せる兆しもない。
ルカはうっかりジャンプをしないよう気をつけているが、さっきから足が震えており、ほんの拍子で変な音楽が爆音で鳴りかねない。
そんな緊迫の中、青木幸子は植物園に戻るかどうか迷っていた。
もう一度、あの“雑音”を確かめたい気持ちが強いが、誰もが外れた行動を警戒し合っていて、とても言い出しづらい。
南條エリカは部屋の隅で蹲りながら、何かに耐えるように胸を押さえている。
ここに来るまでも幾度となく血の臭いを嗅いできたはずなのに、彼女にはすべてがカレーの匂いに感じられる。
その狂った感覚が、むしろ今の惨状を否応なく際立たせる。
血や汚物、腐敗すらすべて「カレー」。
胃の奥がきしんで吐きそうになる。
高麗杏奈は時計を睨みながら、自分の身体がいつ無意味な歌を再開するかと怯えている。
先ほど凄惨な殺人を目の当たりにして以来、喉がひりつくように痛むが、あの発作は抑えようがない。
もしこの場で大声の歌を始めてしまったら、今度こそ仲間から制裁を受けるかもしれない。
殺し合いが起きてしまうかもしれない——その恐怖に耐えきれず、唇を噛んだ。
宇佐美リヒトは血塗れの段ボールから拾った資料を読み込んでいるが、相変わらず暗号や断片的な地図しか手がかりがない。
歴史的事件の年代を考えるよりも、今はこの施設の謎を解くことが最優先だ。
しかし書かれた英数字の羅列を見れば見るほど、意識が霞んでくる。
焦る気持ちばかりが先走り、混乱ばかりが募る。
高坂宏太はそんなリヒトを手伝うでもなく、ただ廊下の奥を警戒していた。
いつどこから“次の敵”が現れてもおかしくないし、このままでは仲間同士が揉め始める未来が透けて見える。
先ほど死闘で男を葬り去った海人も、今にも再びナイフを振りかざしそうだ。
だが宏太自身も疲れていた。もともと一秒間の影操作しか持たない彼にできることなど限られている。
そのとき、突如として柊馬と光希が先の階段を上ろうと動き出す。
誰かが「どこに行くの?」と声をかける間もなく、柊馬が口ごもりながら振り返る。
「ここを……調べる。そっちで圭の具合が落ち着いたら合流してくれ……」
だが、その視線は明らかに嘘をついている。
それを感じ取った森下海人が、鋭く睨み返す。
「おまえら、まさか……」
「……何を疑ってるの?」と光希が笑みを浮かべるが、そこには疲労と焦燥が滲んでいた。
「ここでじっとしてたら、時間切れで死ぬだけでしょ? もう誰かを殺すのは嫌だもの……脱出の方法を探すしかないじゃない」
彼女の言い分は正論に聞こえる。
だが、あまりに急ぎすぎる行動に、青木幸子や宝生ルカは不安を拭えず顔を曇らせる。
高麗杏奈は唇を震わせながら「私も一緒に……」と呟いたが、光希に手で制される。
「ごめん、今は少人数で動いたほうが早いわ。大勢だと足音も響くし、暴走するリスクも高くなるから……」
そう言い残して二人は階段へと姿を消した。
背後で待ち構えていた監視カメラの赤いランプが、より一層彼らを追い詰めるように点滅している。
静寂が落ちると、途端に森下海人の荒い息が部屋に響いた。
「……アイツら、本当に戻ってくるか? このまま出し抜くんじゃないのか?」
誰も確証を持って答えられない。
青木幸子はただ俯くだけで、ルカは圭の止血に必死で相槌を打つ余裕がない。
南條エリカがそっと呟く。
「きっと戻っては来ないよ……私たちのこと、もう見捨てたんだと思う」
彼女の声には自暴自棄な響きがあった。そんな会話を聞いていた高麗杏奈が、「そんなの……ひどいじゃない」と呟くが、その声音も憎しみよりは途方に暮れた諦念の色が濃い。
ところが、いつ限界が来てもおかしくない伏見圭が、弱々しく目を開いた。
朦朧とした意識の中で、苦しげに何かを言おうとする。
ルカが慌てて耳を傾けると、「ここ、出て……先、に……」と途切れ途切れの言葉を発する。
圭は皆が悪い方向に進んでいるのをわかっているのか、少しでも早く外へ出るよう促しているようだった。
「圭さん……ごめん。まだ、何もできなくて……」
ルカが涙をこらえながら、最後の包帯を圭の肩口にきつく巻きつける。
効果があるかどうかはわからないが、今の彼女にできる精一杯だ。
そんな張り詰めた空気を断ち切るように、唐突に森下海人がナイフを握りしめたまま、うわ言のように呟きだした。
「眠れねえ……もう何日も眠れてない。……このままだと、俺はまた誰かを刺すかもしれない……」
そっと彼に近づこうとした高坂宏太が、反射的に影を操りかける。
だが、そんな小手先の動きがどこまで止められるかわからない。海人はもう挙動不審で、いつ振り向いて誰かを襲っても不思議ではないほど崩壊寸前だ。
「海人さん、落ち着いて。あなたは……」
青木幸子が優しい声で呼びかける。
だが、彼女が手を伸ばそうとした瞬間、海人は身を翻してその手を払いのけた。
「近づくな……! 俺は……自分が怖いんだよ!」
ナイフの切っ先が幸子の指をかすり、血がにじむ。途端に幸子は立ち尽くし、涙を浮かべそうになるが、かろうじて叫び声は殺した。
取り乱した海人を刺激すれば、本当に第二の惨劇が起きるかもしれない。
「まずい……」と宏太が喉を鳴らす。
彼も影操作で強引にナイフを弾き飛ばすことを考えるが、成功のタイミングは一瞬だけ。
もし失敗して海人が逆上すれば、どうなるかわからない。
高麗杏奈は怯えるように後ずさりし、南條エリカはカレーの匂いが混じる鉄の香りに頭がぼんやりしている。
そんな中、宇佐美リヒトが意を決したように書類を放り捨て、海人へ向き直った。
「海人、落ち着けって。おまえは悪くない。殺さなきゃならなかったんだ、あのときは……」
「うるせえ……! 偽善者ぶるなよ!」
海人が凄む声には、目を合わせるだけで心が凍るほどの怒りと狂気が宿っていた。
リヒトは一歩も退かないが、その姿勢がかえって海人を煽っているようにも見える。
そこへ追い打ちをかけるかのように、高麗杏奈の身体が震え出した。
どうやら彼女の“歌の時間”が近づいているのだろう。杏奈は歯を食いしばり、なんとか声を押し殺そうとするが、自然と口から意味不明なメロディがこぼれ始める。
「ダ、ララン……ぺスケ……ラァ……!」
誰もがギョッとし、また狂人が襲ってきたかと錯覚するほどの緊張が走る。
海人が振り返って杏奈を睨む。次に何が起きるかわからない。
乱雑な音が響く中、宝生ルカの足もとがぐらつき、悲鳴じみた音楽がまたしても鳴り響いた。
「駄目だ……!」
ルカ自身がわかっていながらも、身体が勝手に跳ねてしまう。
その結果、ジャズサックスとパーカッションが入り混じった奇妙なサウンドが一瞬だけ空間を震わせた。
重圧に耐えかねた南條エリカが半狂乱のように「全部カレーの匂いだ……いやああっ!」と泣き叫び、青木幸子は海人のナイフを避けるように逃げる。
すると、海人が怒鳴った。
「待て、逃げるな……! おまえだって、どうせ裏切るんだろう……! ああ、もう……誰が敵で誰が味方なんだ……!」
目眩がするほど張り詰めた空気の中、高坂宏太は必死に影を操作しようと精神を集中する。ほんの一瞬、海人のナイフを弾ければ……。
しかし、海人が警戒するようにナイフを握り直し、さらに後ずさったことでタイミングを逃す。
もし失敗すれば血を見る。宏太は迷う。
やがて、海人が椅子の背に突き当たってバランスを崩し、わずかに腕がぶれた。
その瞬間、宏太は決死の勢いで影を伸ばす。
一秒だけ——ほんの一瞬だけナイフの軌道を揺らせれば十分だ。
「海人……やめろ!」
影がぐにゃりと動き、海人の腕を下から押し上げる。
予想外の力に海人がよろめき、ナイフを取り落とす。
そこへ宇佐美リヒトが突っ込むように足を滑らせ、弾かれたナイフを手で払い除けた。
「っ……ぐあ!」
リヒトはナイフの刃先で指を切ってしまうが、海人は反撃する術を一瞬失い、床に倒れ込む形になる。
絶好の制圧チャンスにも関わらず、誰もが息を呑んだまま動けない。
恐怖と混乱で身体が固まっている。
すると、高麗杏奈の歌はますます大きくなり、けたたましい旋律が狭い室内を揺らす。
神経に障る音を聞きながら、海人が目を見開いてリヒトにしがみつく。
「殺すのか……? 俺を……!」
「落ち着け、違う……!」
「もう眠れねえ。いっそ死んだほうがマシかもしれない……!」
海人の叫びと杏奈の発作的な歌が重なり合い、南條エリカの悲鳴や宝生ルカの楽器音まで混じって、まさに地獄さながらのカオスが生まれる。
青木幸子は血を流す指を押さえながら、「お願いだから、もうやめて……」と泣き崩れる。
その修羅場に堪えきれず、高坂宏太は耳を塞いで目を閉じた。
もしこのまま誰かが海人を殺すなら、止められる自信がない。
かといって、今度こそ誤れば海人に殺されるかもしれない。
絶望と罪の狭間に、全員が翻弄されている。
時間は刻々と迫り、主催者は高みの見物を続けているのだろう。
「助けて……もう限界……」
誰かがそう呟いたとき、唐突に廊下の向こうで大きな衝撃音が響いた。
爆発にも似た振動が伝わり、照明が一瞬だけ点滅する。
何が起きたのか察しきれないまま、混乱のまっただ中にいる十人——いや、今は八人しかいないのか——は一斉に息を飲んだ。
久遠柊馬と北条光希が仕掛けた何かの罠なのか、あるいは別の参加者がまだ潜んでいるのか。
いずれにせよ、この悲惨な光景は、間違いなく次なる惨劇への幕開けでしかない。
狂気と血が錯乱する中、命の綱はじりじりと削られていく。
そして、伏見圭の止血はもう限界に近づいている。
誰もが錯乱状態に陥る中で、彼を救う算段など立たないまま。
死が迫り、裏切りや衝動的殺意が横行し始める。
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