第二部:血塗られた進行

第8章:暴発寸前

血に汚れたカードキーを握った森下海人の手は、激しく震えていた。

先ほどまでの戦闘の余韻が身体に残り、正気を保つのが辛い。

敵として現れた青年を自分で刺し殺した――その事実は何をどう言い訳しても消せない。

頭の中で何度も「仕方なかった」「あれで良かった」と繰り返すが、自責の念が渦を巻いている。


 しかし、時間は容赦なく流れ続ける。

廊下へ引き返した十人は、殺した男の血飛沫を背中に感じながら足を進めた。

伏見圭の意識は相変わらず危うく、そのまま死に至る可能性が高い。

そして、追加ルールの“犠牲者が出なければ全員脱落”が、またいつ高らかに宣告されるかわからない。

誰もが鬼気迫る表情だ。


「……行こう。あのカードが扉を開けるかもしれない」 

久遠柊馬はまだ言葉が混濁しそうになるのを必死にこらえながら、“STAFF ONLY”と書かれた鉄扉へと向かった。

あれほど踏み留まっていたはずの殺意が、今は微妙に揺らぎ始めている。

自分もまた、あの狂人と大差ないところへ近づいているのではないか――そんな嫌悪感が胸を突き刺す。


 鍵穴にカードキーを差し込み、静かに認証パネルへかざす。

一拍あって、ピッと短い電子音がした。柊馬が唾を飲み込みながらドアを押すと、重々しい電子ロックが外れ、中が開け放たれる。


「……開いた」 


宝生ルカが蒼ざめた顔でそう言い、小さく息をついた。

だが、中へ足を踏み入れようとした瞬間、伏見圭がふらりと身体を崩し落ちる。

青木幸子と北条光希が慌てて抱きかかえるが、その体温はどんどん下がっているように感じられる。


「やばい……もう、保たないかも」 


光希の唇が強ばる。圭の意識は混濁し、すでにまともな受け答えができていない。

南條エリカがひきつった声で「何とかしなきゃ……」と漏らすが、このままでは危険すぎる。誰かが決断を下さないといけない。


 そこへ、森下海人がかすれた声を振り絞った。


「……圭をここに置いて、先に進むか……? そしたら俺たちだけは先へ行ける。もちろん、助ける術があるならそれがいいけど……」 


あまりに非情な提案に、青木幸子が震えながら首を振る。


「そんな……そんなこと、できない……!」 


だが、海人は自嘲するように睨み返す。

彼はもう感情をまともに処理できないほど追い詰められていた。

殺人を犯し、眠れず、ずっと過酷な状況にさらされているせいで、正義や道徳を保ち続けるのが難しくなっている。


「じゃあどうするんだよ。早くしないと誰かがまた死ぬ。おれたちだって時間がないんだろう……?」


 不穏な空気が渦巻く中、久遠柊馬は奥の部屋に目を遣る。

床には様々な段ボール箱と書類らしきものが山積みだ。

その一角に救急セットの赤いマークがかすかに見える。

宝生ルカがそれに気づき、「救急箱かもしれない!」と駆け寄る。 

ぎりぎりの希望に縋るように箱を開けてみると、中には包帯や消毒薬、最低限の医療用品が詰まっていた。

それが使えるものかどうか、彼女は何度も確認し、青木幸子らとともに急いで伏見圭の治療に取りかかる。


「……助かるかもしれない!」 


ルカが声を上げた瞬間、唐突に背後のスピーカーからけたたましいノイズが鳴った。嫌な予感が身体を走る。

すぐに続いたアナウンスは、予想どおり無慈悲な言葉だった。


「ふふ……まだ足りませんね。今回“脱落”したのは、あなた方ではなく先客の狂人だけ。そろそろ、しっかりゲームを進めていただかないと困ります。殺し合いは加速しなさい——さもなくば、全員死です」 


乾いた宣告が下り、血の匂いが重くのしかかる。

高麗杏奈はそこで無意味な歌がぶり返すのでは、と身をすくめたが、ギリギリで時間は来ていないようだ。

彼女の能力が今また暴走すれば、隠れることもままならないし、仲間同士でさえ混乱するのが目に見えていた。


「……もう、限界だ」 


柊馬が力なくこぼし、フラつきながら床に手をついた。

彼の“無意味な言葉”の発作もまだ完全には収まっていないのか、言い淀むたびに声が震えている。


「このままじゃ、また誰かが勝手に暴走して……結局殺し合いになる」 


その言葉に、北条光希は一瞬だけ目を伏せる。すでに彼女の服は血の汚れを吸い込み、ピンクの布地が生々しい色合いに変わっていた。

彼女がそっと柊馬に触れ、耳打ちのように何かを告げる。

二人の間で何が話されたのかはわからないが、柊馬は小さく頷く。


「わかった……俺たちで、先に探索を進めよう。他のみんなは圭の処置を続けてくれ」


 まるで二人だけの同盟を組むかのようなやり取りだ。

周囲は不審な視線を向けるが、光希は「あくまで分担よ」とだけ言って奥の廊下へ進む。


 一方、宝生ルカは圭の救命に全力を注いでいるが、どこか落ち着かない様子が見える。

いつ能力が発動して大音量を響かせるかと恐れているのだろう。

ほんの小さな衝撃であの騒音を鳴らしてしまえば、もし他の参加者が敵に回ったときに圧倒的に不利になる。 

宇佐美リヒトはリヒトで、地図や書類を必死にめくりながら何か活路を探そうとしていた。

歴史知識が何の役にも立たないと感じつつ、書類に刻まれた日付や暗号らしき文字の羅列を見比べ、どうにかこの施設の秘密を読み解けないか模索している。


「カレー……カレーくさい」 

南條エリカは疲弊しきった声で鼻を押さえた。

どんなに血塗れでも、どんなに腐敗臭が混じっていようと、結局自分には“カレーの匂い”しか感じられない。

それがいっそう不気味な違和感を際立たせ、吐き気を催す。

もう限界だ。

人間の死臭すら認識できないとなると、逃げるべき危機感さえ鈍るかもしれない。

彼女は唇を噛み、ぐらりと揺れた。


 沈鬱な空気が漂う中、森下海人は一人ぼう然と突っ立っていた。

手に残る生々しい感触が消えない。

彼は己の犯した殺人行為を悔いているのか、それとも再び衝動に駆られることを恐れているのか。

どちらにせよ、その目は虚ろで、誰も近寄りがたい雰囲気を放っている。 

そして、高坂宏太が恐る恐る彼に声をかけた。


「海人……大丈夫、じゃないよな。でも、一緒にこの先を調べよう。きっと出口を探すことが、今は一番の優先……」

「わかったよ……眠れなくても、動くしかねぇ……」 


投げやりな言葉とは裏腹に、海人の手は震えている。

もはや誰がいつ裏切るか、あるいは誤って相手を殺してしまうか、わからない限界の精神状態だ。

だが、一人では恐怖に飲まれてしまいそうだった。


 そんな中、廊下の先から小さな物音がした。

神経を尖らせて柊馬と光希がそちらを覗くが、誰かが仕掛けているのかもしれない。一瞬、警戒した彼らはお互いに目を合わせると、こっそり囁き合う。


「……このまま二人で先に罠を探して、もし都合のいい“突破口”が見つかったら——」

「そうね。あまり大勢が動くと誰かが暴走して手がつけられないし。圭の容態もどうなるかわからないし……」 


二人は周囲に聞こえないように話を進めている。

薄暗い非常灯の下に潜むように立ち、やがて柊馬が低く唸る。


「……もし出口が開く手段が見つかったら、俺たちだけでここを脱出する手もある。……正直、全員を連れて行く余裕なんかないかもしれない」 


光希はほんの一瞬、葛藤の表情を浮かべたが、すぐに唇を結んで頷いた。

もはや仲間を思いやる余地すら削り取られつつある。

それだけ追い詰められているのだ。


 一方、背後では青木幸子が植物園に戻りたいと言い出していた。

先ほど感じ取ったかすかな“雑音”に引っかかるものがあるという。

だが、「そんな余裕あるのか?」と森下海人が咎めるように口を挟む。

そこでまた言い争いが起こりそうになる。


「まって、もしかしたら植物が何か伝えようとしてるのかもしれないの。あそこに戻って確認すれば、出口に繋がる情報が……」

「自分から敵に突っ込むようなもんだろ! 正気かよ!」 


反発しか返せない海人に、幸子は泣きそうな顔で訴える。

彼女にとって“植物と会話できる”能力は最後の希望なのだ。

だが、ここでまた分断が起これば、ますますリスクが増える。


 十人の精神はもはや蜘蛛の糸のように張り詰めていた。

誰かが少し引っ張れば、すべてが崩れてしまう。

宝生ルカが服をきつく掴んで震えているとき、ふと小さくジャンプしてしまい、ハープのアルペジオのような音が鳴る。

それに驚いた南條エリカが思わず悲鳴をあげ、森下海人は反射的にナイフを握りしめてしまう。

隣にいた高坂宏太が「あっ……」と声をあげて止めに入るが、些細な音や動作が、すべて敵意に変換されかねない状態だった。


 こうして、同じ場所にいながらも、それぞれが裏切りと恐怖を抱きながら駒を進め始めた。

北条光希と久遠柊馬の二人がこっそり同盟を結んだのは、果たして成功への道か、それとも仲間を出し抜く危険な裏切り行為なのか。

青木幸子の提案に賛同する者と反発する者の対立も生まれた。 

まさに、ここから先は“死闘”の舞台に足を踏み入れるのだろう。

最初に死人が出たことで、彼らの良心は脆く削られ始めた。

全員が“自分だけは生き残る”決心を固めているからこそ、衝突が不可避になっていく。

何より、タイムリミットが迫るにつれて、誰もが疑心暗鬼を振り払えずにいる。


 血の臭いと不穏な視線が交錯する中、深い闇に呑み込まれていく。

こんな廊下の片隅で、どんな策略や同盟、そして裏切りが渦巻こうとも、彼らには抗う術が見つからない。

次に流れる血は、仲間同士から生み出されるかもしれないし、別の狂人が待ち構えているかもしれない。

すべてが絶望の入り口に思える一方で、わずかな希望にすがっている者もいる。 

どこかで監視カメラの赤いランプが点滅し、彼らの苦悶を焼き付けていた。

メンタルが極限に達した死闘は、今まさに加速し始めている。

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