第7章:敵の撃退

廊下の奥から冷たいすきま風が吹き抜け、床に倒れ込んでいた伏見圭の髪をさらりと揺らした。

支えていた北条光希が、なんとか彼を立たせようと試みる。

相変わらず彼の肩口からはじわじわと血が滲んでいるが、応急処置の布が足りない。足元には海人が投げつけた板切れが転がっていて、悲鳴にも似た残響が今も耳の奥にこびりついていた。


「圭さん、意識を保って……!」 


光希が切羽詰まった声を上げ、宝生ルカと青木幸子も焦りを隠せない。

そんな彼らを見て、森下海人は荒い息を吐きながら壁に背を預けた。

自分が暴発して以降、全員が神経をギリギリに尖らせているのを痛感する。

彼は眠れない苛立ちを噛み殺すように歯を食いしばっていた。


 そこで、宇佐美リヒトがハッとしたように顔を上げる。

さっき拾った地図の断片をまじまじと睨みながら、急に早口になった。


「なあ……この先に、小さな“室内庭園”らしきスペースがあるみたいだ。何の意味があるのかはわからないけど、“植物”があるかもしれない。そしたら青木さんが能力を使って、何か手がかりを得られるかも……」

「植物と“こんにちは”しか言い合えないんじゃなかったっけ?」 


南條エリカが困ったように返す。

だが、青木幸子は必死の表情で首を振る。


「本当に“こんにちは”しか言われないのかは、まだわからないわ。もしかしたら別の言葉を聞き出せるかもしれない。あるいは“こんにちは”の仕方が何かヒントになるかも……」 


正直、望みは薄い。

しかし、何もない通路を彷徨うよりはマシだと思われた。

リヒトは地図を指先でなぞりつつ、「ここを曲がって突き当たりの階段を下りていけば行けるはずだ」と示す。


 十人は傷を負った伏見圭をできるだけ保護しながら、かすかな希望に縋るように歩き出した。

時折、宝生ルカの足が跳ねるたびに、不意にジャズやロックのリフが数秒だけ鳴り響く。

それを聞くたびに誰かが「しっ!」と声を上げ、ルカ本人も「ああ、ごめん……」と小さく謝る。

自分の能力が騒音になるなど、当初は考えもしなかったが、もう笑っていられない状況だった。


 階段を下ると、確かに空気が微妙に湿り気を帯びている。

その奥にはガラス張りのゾーンが見え、わずかに葉の色が覗いていた。

久遠柊馬が警戒を怠らないように扉を開けると、そこは小さな植物園のような区画で、背の低い観葉植物やツタが絡まる金属フェンスが並んでいた。


「こんな場所があるとは……」 北条光希が呆れたように呟く。

無機質なコンクリート空間ばかりだと思っていたが、どうやら施設には人工的な緑地も用意されているらしい。

薄汚れた看板が転がっており、“BIO GARDEN”と書かれているのが見えた。


 青木幸子は早速、近くの観葉植物にそっと手を触れた。

「こんにちは」と言われるだけの能力かもしれないが、わずかな望みに賭ける。

すると、ふわりとした感覚が脳内をかすめ、植物のやわらかい声——いや、念話のようなものが聞こえる。


「……こんにちは」 


それだけだった。いつも通りだ。

でも、幸子は涙ぐみながら何度も触れる。

もしもここで新しい反応が返ってきたら、それが大きな突破口になるかもしれない。


「……駄目、やっぱり同じだわ」 


力なく彼女が振り返ると、森下海人がやりきれなさそうに舌打ちをする。

そもそも、この植物が人間の都合を察してくれるわけもなく、結局役に立たないのか。柊馬も壁際に視線を落とし、フッと低く息を吐いた。


 だが、そのとき青木幸子の耳にかすかに違和感が走った。先ほどの「こんにちは」に、ほんの一拍遅れてどこか別の声が混じった気がする。


「待って……今、もう一回……」 


彼女は再び植物に手を当てる。

すると、ほとんどノイズのような微弱な声が耳の奥を揺らした。何を言っているのかは聞き取れず、幸子はぎゅっと目を瞑る。 

それは、まるで“誰かが隠れている”とでも知らせようとしているかのような——雑音だ。

はっきりした言葉ではないが、幸子は心臓が高鳴るのを感じる。


「みんな、もしかしたら何かいるかもしれない……!」 


そう言った瞬間、遠くでガシャリとフェンスが鳴る。その音に反応して、十人が一斉に身構えると、植物の影から人影が滑り出してきた。


「——いや、隠れてただけだよ」 


青年のようにも見えるが、その顔色は土気色で、見るからに普通ではない気配があった。

彼はぎこちない動作でこちらを睨むと、不気味な笑みを浮かべる。


「き、君は……!?」 


高坂宏太が驚きの声をあげるのも無理はない。

どこから入り込んだのか、明らかに外部の人物。

だが、その男の腕や首には、何か金属の輪が食い込んだような痕が残り、服もボロボロだ。

何より、瞳に生気がない。

その姿を見て、久遠柊馬がゴクリと唾を飲み込む。


「……前の参加者、か?」 


海人が苦渋の表情で男を見つめる。

先日クローゼットで見つかった死体と同じ“囚人服”のような装いだ。

もしかして死に損ねたまま逃げ回っているのか、それとも……。 

男は不気味に片方の唇を釣り上げたまま、舌なめずりのような仕草をする。

そして、顔面を痙攣させながら短く笑った。


「まだ生きてるのが驚き? へへ……こんな場所に閉じ込められりゃ、正気じゃいられないさ。けど……アンタら、まだ死んでないんなら、むしろチャンスじゃねぇか?」


 嫌な汗が背中を伝う。

男が何を言おうとしているのか、誰もが薄々察している。

彼は力尽きかけの伏見圭に興味を示したように、じろじろと視線を走らせる。


「一人、ケガ人がいるじゃねぇか。そいつを……仕留めちまえば、アンタら助かるかもしれないだろ? そういうゲームなんだろ、ここは?」 


あまりに露骨な提案に、宝生ルカが息を呑み、青木幸子は思わず声を荒らげる。


「やめてください……そんなことしたら……!」

「おいおい、甘いこと言ってる場合か? 俺はもうまともじゃねぇんだ。誰かが死ねば自分が助かる——そうだろ? だったら俺は……」


その瞬間、男がギラリと目を光らせ、懐から鋭利な金属片のようなものを取り出した。

手製のナイフか、あるいは折れた金属板を研いだものか。

彼が圭に向かって突進してくる気配に、全員が悲鳴をあげた。


「くそっ……!」 


久遠柊馬が間に入るように身体を動かすが、そこで不意に言葉をつぶすように肩を震わせる。

まるで頭が混乱したかのように意味のない音を喉の奥で噛み砕き、苦しげな表情を浮かべる。


(まずい……今、俺の能力が……!) 


柊馬の月に一度だけ発動する“無意味な言葉を一時間話し続ける能力”が、よりにもよってこのタイミングで発作のように襲ってきたのだ。


「……ウグ、グルル……リャ、ルララ、ラン……」 


彼は必死に声を止めようとするが、裏返った言葉が次々と零れ出る。

それは“敵”に対してまったく牽制にならないばかりか、こちら側の混乱を増幅させるだけだった。


 一方、宝生ルカも焦りで足がもつれ、ふいに跳ね上がった拍子にロックギターのような爆音が鳴り響く。

轟音に驚いた敵男が一瞬怯むが、すぐに金属片を握り直してさらに突進してくる。


「や、やめて……!」 


今度は北条光希がとっさに男の腕を掴もうとするが、逆に振り払われて床に尻餅をつく。

彼女の服は相変わらず可愛らしいピンク色だが、この場にあってはまるで目立ちすぎるターゲットでしかない。

男が低く唸り声をあげ、光希に目をやる。次に狙うのは彼女かもしれない。


 そこで動いたのは高坂宏太だった。

彼は男の後ろへ回り込もうと走り出し、同時に必死で自分の影を凝視する。

影を一秒だけ動かす——ほんの些細な力だが、今この一瞬をしのげればいい。


「……動いてくれ……!」 


宏太の影がぐにゃりと歪み、男の足元にわずかに伸びる。

驚いた男が踏み込みを鈍らせた隙に、森下海人が素早く背後から抱きすくめるように飛びかかった。


「ぐあっ……!」 


男が嫌な声をあげ、振り払おうとするが、眠れない体質の海人は疲弊していながらも意外な執念で食らいつき、腕を固定する。


「はぁ、はぁ……! こんなとこで……誰も殺させるわけには……!」 


海人の息遣いは荒く、力を使い果たしそうな様子だが、今は必死に男の腕を押さえ込んでいた。


 だが、敵男の狂気は想像以上だった。

苛立ちをむき出しに歯を食いしばり、海人の腕を噛みつくように振り返る。

海人が苦痛に声を上げた隙に、敵は潜り込むように身を捻って金属片を振りかざす。


「やめろ……っ!」 


そこへ割って入ったのが宝生ルカだ。

腰を低く構えながら無理やり跳ねたことで、またしても爆音のようなブラスバンドが鳴り響き、敵男の耳元を激しく叩く。

衝撃で男が一瞬怯んだ瞬間、北条光希が倒れ込んだままの体勢で足を伸ばし、男の膝を蹴りつける。


「これで……っ!」 


ガクンと膝が折れ、男がバランスを崩した。

その一瞬、久遠柊馬の異常な言葉が止まるかに見え、まるで本能的に動いたかのように柊馬が手元にあった手斧を振りかざした。


「……ラ、ララル……っ! うわぁッ!」 


混乱した叫び声の中、鈍い音が鳴り、男の腕から金属片が落ちる。

柊馬の斧は男の肩に深く食い込み、血が飛沫のように飛び散った。


 敵男はそれでも狂気じみた瞳を光らせ、口を引き裂くように笑う。


「やるじゃねぇか……へへ、でも俺はもう、引き下がれねぇんだ……!」 


肩から血を流しながら強引に身体をひねり、抜けかけた金属片を再度拾い上げる。

そのまま、伏見圭をめがけて突っ込もうとする——。 

だが次の瞬間、「やめて!」と声を張り上げたのは高麗杏奈だった。

彼女が駆け寄ろうとした瞬間、時計を指し示すように突然“大声の意味不明な歌”が始まってしまった。どうやら、彼女の能力の“発動時間”が来てしまったのだ。


「ルラルラッタ! ヒョウロンカミンッタナンノソラ〜♪」 


理解不能な歌詞が、痛ましい殺戮の場をさらにカオスにしていく。

敵男は耳障りなその声に一瞬だけ怯み、足をもたつかせる。

そこへ意を決した南條エリカが、段ボール箱に残っていた鉄パイプを拾い上げ、男の脇腹を突き上げる。


「こんな、こんなの……嫌っ!」 


狂気に抗うような悲鳴と共に、エリカのパイプが男の体を跳ね上げた。

痛打を浴びた男はさすがに叫び声を上げて膝をつき、完全に動きが鈍る。


 混線状態の中で、宇佐美リヒトが血まみれの男を睨む。

今のうちに止めを刺せば、この狂人を排除できる。

そう分かっていながらも、手が震えて剣呑な行動には出られない。 

しかし、男が今ここで逃げ出す気配もなかった。

殺意を収めるどころか、うわごとのように「誰かが死ななきゃ……俺は……」と繰り返すのみ。

再び立ち上がろうとする男に、久遠柊馬は斧を構え直す。

無意味な言葉を喉の奥でこらえながら、目に薄い怒りを宿していた。


「ここで殺すか……? いい加減にしろ……っ!」 


柊馬の声はくぐもり、まだ言葉が崩壊しそうだ。

それでもカメラに見られていることも忘れ、全員の殺気が男に向かう。

誰もが息を切らしながら、最後の一撃を下そうとするかどうか逡巡していた。


 そのとき、高坂宏太が思わず叫ぶ。


「待って……そいつ……何か握ってる!」 


男の手のひらに、黒ずんだカードのような物体が握られていた。

もしかして“STAFF ONLY”や“管理室”を開ける鍵かもしれない。

誰もが一瞬、殺意と恐怖のはざまで動きを止める。 

目を血走らせた男は、唇を痙攣させながら歪な笑みを見せる。


「こいつが欲しいなら……殺して奪え……」 


呻くような声の先にあるのは、紛れもない“生死の駆け引き”。

敵男を生かしておく道など見えない。

だが、だからといって心のどこかで踏ん切りがつかない。


「くそっ……!」 

柊馬が乱れた息で叫び、再度斧を振り上げようとするが、その手は震えている。

トドメを刺すという行為の重みが、誰の心にも圧迫感をもたらす。


 息を呑む刹那、銃声のような大きな衝撃音が鳴り、男の身体が大きく仰け反った。誰かが武器を使ったのか——いや、その手に武器を握る者はいない。

見ると、森下海人がよろけながらも、先ほどの金属片を男の背中に突き立てていたのだ。


「……ごめん。もう……逃がすわけには……いかないんだ」 


海人の顔には、血にも似た涙が伝っていた。

男が口から泡を噴きつつ、カードのようなものを落とす。

次の瞬間、力が抜けたように前のめりに倒れ込んだ。 

まさか海人が止めを刺すとは誰も予想していなかった。

海人自身も全身をわなわなと震わせ、表情は青ざめている。

息が切れ、視界が歪んだように感じながらも、ついに“取り返しのつかない行為”をしてしまった事実だけが残った。


 金属片が床に転がると、そこには胸から血を流す男の亡骸。

その隣には、黒いカードキーのようなものが血塗れのまま落ちている。

死体の目は虚空を睨んでいた。 

誰もが立ち尽くす。

相変わらず、高麗杏奈の謎の歌は止まらない。

久遠柊馬はまだ意味不明な言葉をこぼし続ける。

まさに“黒いドタバタ”と化した瞬間だった。 

それでも、森下海人は最後の力を振り絞り、震える手でカードを拾い上げる。

視線は乱れ、歯を食いしばりすぎて唇から血が滲んでいた。


「これで……俺たち、救われるのか……?」 


誰も答えを返せなかった。

殺された男が握っていたカードが本当に救いにつながるのか、それともさらなる地獄の入り口に過ぎないのか。

圭の息遣いは相変わらず弱々しく、殺し合いの運命はひとつも変わっていない。


 こうして、とうとう“デスゲーム”における最初の明確な死者がここに生まれた。

自分たちの手で殺したのだ——そう気づいたとき、十人の胸には説明できない絶望と罪悪感が渦巻いていた。 

だが、時間は止まってはくれない。遠からず次のアナウンスが入り、“これでゲームが進んだ”ことを主催者が嘲笑するに違いない。

彼らは震える足で、男の亡骸を横目に、“カードキー”を携えて再び歩き出す。 

静まり返った人工庭園には、血だまりと倒れた死体が残り、意味不明な歌声と柊馬の断続的な呟きだけがこだましていた。

どこかで監視カメラのレンズがぎらりと光り、死闘の結末を記録している。 

死と狂気が混じり合う中、森下海人の瞳にはもはや焦点が合っていない。

彼の不眠の悪夢は、いっそう深い闇へと堕ちていくかもしれない。

それでも、彼らは先へ進むしかなかった。

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