第6章:迫るタイムリミット

彼らは誰も声を出さないまま、細長い廊下を進み続けていた。

伏見圭の肩に巻いた布はすでに血をたっぷり吸ってしまい、微かな鉄の匂いが空気をじわりと侵している。

圭は顔色を失いながらも、北条光希と宝生ルカ、青木幸子に支えられて歩いている。彼が耐え切れなくなれば、それこそ“脱落”が避けられない事態になるかもしれない。けれども、そのおかげで今はかろうじて命が繋がっている。


 森下海人はそんな圭から距離を置くように、列の最後尾でうつむいていた。

眠れない苛立ちに追い詰められ、一度は暴発してしまった自分を今は深く恥じている。

さらに、“もし圭がこのまま死んだら、結局自分が手を下したようなものだ”という罪悪感が、ますます心を重く縛りつけていた。


「……大丈夫?」 


青木幸子が振り返って海人に声をかける。

彼女の優しい声色は、気遣いを含んでいたが、海人は苦笑いを返すしかない。

自分にかけてもらえる言葉など、もうないと思いこんでいた。


「ありがとう。でも、俺こそどうにかなりそうだ。眠れないのが……こんなふうに重くのしかかるなんてな」 


そう答えながら、彼はふと柊馬の背中を見やった。

冷静な判断力を保っているかに見える久遠柊馬が、どこかで無理をしているのを感じるからだ。

ひとたび均衡が崩れれば、彼とて何をしでかすかわからない。そんな予感がひたひたと胸を蝕んでいる。


 前方を行く高坂宏太は、時折自分の影を凝視していた。

あの瞬間、海人のナイフをほんの一秒だけ阻んだ気がする。

実際に何が起きたのか、彼は確信できない。

それでも、まったく使えないと思い込んでいた能力が人を救うきっかけになるのではないか、とかすかな希望が灯りはじめている。


(俺の影はちっぽけだ。けど、ほんの一瞬でも、このメンバーを守れたのなら……) 


そんな思いが束の間に胸をよぎったとき、宇佐美リヒトが先頭で立ち止まる。

視線の先には“STAFF ONLY”と書かれた鉄扉があった。

頑丈そうな電子錠が設置され、幾重ものロック機能が働いているのか、安易に開けられそうもない。


「やっぱりここだな。さっき通りかかったときに見つけたけど……どうする?」


リヒトが柊馬に問う。

柊馬は眉をひそめたまま扉を軽く叩いてみる。

鈍い金属音が返ってくるだけで、鍵の存在を思い知らされる。


「カードキーかパスコードかわからないが、いずれにせよここを開ける術はない。下手に破壊しようとすればアラームが鳴り、罠が発動するかもしれない」

「でも、放っておいては何も進まない。ここに医薬品や救急セットがあるかもしれないよ。圭の手当てだって……」 


宝生ルカの声に熱がこもる。

彼女は支えながら歩いてきた圭の顔色がさらに青ざめているのを知っている。

ここで応急処置ができなければ、彼は本当に命の危険にさらされるだろう。


「そうね……時間が経てば、いずれ圭さんの傷が悪化して命を落としかねない。そうなれば、それこそ“脱落”になるわ」 


北条光希が憔悴の色をにじませながら言う。

最初は派手なピンクを嘆いていた彼女も、いまやそんなことを気にかける余裕などない。


 その言葉に、青木幸子は耐えきれず顔を伏せた。

誰かが死ねば残りのメンバーが生き延びられる、それがあの“ゲームのルール”なのだろう。

だが、自分たちはそんな結末を望んでいない。


「私……そんなの耐えられないよ……」 


幸子の震える声に、高麗杏奈がそっと手を差し伸べる。

彼女もまた、毎日決まった時間に無意味な歌を歌い出してしまう能力の“発作”がいつ訪れるかで気が気ではなかった。

いざというとき、それは周囲に居場所を知られてしまうかもしれないし、隠れて行動しようにも不利すぎる。


「ここで圭さんを救う方法が見つからなければ、誰かが“そろそろ自分が殺らないと殺られる”って考えてしまうかもしれない……」 


杏奈は自分の手が震えているのを感じながら、言葉を飲み込む。

そうならないことを祈る一方で、疑念も募る。

もし圭がこのまま死にかけたら、誰かが“もういっそ”とトドメを刺し、最初の犠牲を確定させるのではないか――そんな恐れが頭をよぎっていた。


 やがて、北条光希がロックの隙間をまじまじと確認し始める。

彼女に専門知識があるわけではないが、少しでもヒントを探すためだ。

すると、黒いカバーの下に小さなタッチパネルがあることに気づく。


「これ、もしかしたら数字を入力できそう。でもランダムなコードを打ち込んだら、一発で警報が鳴ったりしない?」

「試すしかないかもしれない。……でも、そのリスクがある以上、ここで大騒ぎになったら圭どころか全員が危ないだろうな」 


柊馬がいつになく言葉を詰まらせながら続ける。沈黙が降りたあと、突然、海人が意を決したように前に出た。


「なあ……こいつを試してみるから、もし警報が鳴ったら、すぐにみんな逃げろ。俺一人でも、ここに残って暴れれば、カメラを混乱させるくらいはできるかもしれない。時間を稼げる」 


彼の声には覚悟とも破滅的な衝動ともつかない響きが混ざっていた。だが、青木幸子がすぐさま海人の腕を掴む。


「駄目だよ! 海人さん、あなたは……今、いちばん危ない状態なんだから。眠れないストレスもあるのに、下手をすれば本当に……」

「それでも、誰かがやらなきゃいけないなら、俺がやるしかない。さっき圭を傷つけたのは俺なんだ……責任取らせてくれ」 


普段は尖った目つきの海人が、今はまるで必死に罪を償おうとしている。

幸子はそれを見て更に言葉を失うが、思いきり首を振る。

静かな拒絶の動作が、かえって痛々しく見える。


 そのやり取りを見ていた宇佐美リヒトは、ちらりと液晶端末と地図を睨む。

何かに思い至ったのか、それらを足元に置いてスクワットのように姿勢を低くした。


「ここ、もしかしたら“暗号”が……。いや、根拠はないんだけど、地図の黒い塗りつぶしと、端末に出る『認証キー』ってのが関係してる気がする。過去の戦史を応用するわけにもいかないけど……」 


リヒトの脳裏には、おびただしい量の歴史知識が行き来しているのだろう。

彼はまるで数字の羅列や事件の年号を組み合わせるように、ぶつぶつとつぶやき始めた。


「476年……1453年……ねぇな、何かのメッセージがあるとしたら……」 


横で宝生ルカや光希が固唾を呑んで見守るが、リヒトは首を振るばかりだ。

現時点で確証を得られない。


「もしかしたら、“脱落”した誰かが持っていたカードキーを使わないと開かないのかもしれない」 


高麗杏奈が呟くと、全員の表情が凍る。

つまり、いずれ誰かが死ねば、その死体からキーが見つかる……という最悪のシナリオだ。

久遠柊馬が嫌な予感を拭いきれないまま、膝に手をついて小さく舌打ちした。


「ここで足止めされるわけにもいかない。圭をこのまま連れて歩き回るのは危険だが、あと何かしら他の部屋を調べないと状況は変わらない。……海人、お前が暴走する役目なんかにはしない。それより体力を温存しておけ」

「でも……」

「大人しくついてこい。今はこれしかない」


 柊馬の冷たい声に、海人は唇を噛む。先ほどまで自分の勝手で取り返しのつかない事態を引き起こしかけた。

その責任を強く感じている彼は、本当は自分から罠に飛び込む道を選びたいのだろう。

だが、柊馬の静かな威圧に対し、結局は反論を飲み込むしかなかった。


 伏見圭の呼吸が荒くなる。力が抜けていくのが、見ているだけでもわかる。

止血用の布はもはや限界に近い。

幸子は必死に「頑張って……」と彼を励まし、光希は「圭さん、もう少しだけ」と声をかけ続ける。

ルカは震える声で音楽のことを話そうとするが、口を開くたびに出るのは弱音ばかりだった。


 行き止まり同然の“STAFF ONLY”の前から後退するように、再び廊下を戻る。

どれほど歩いても似たような光景ばかりが続き、時計も見当たらない。

タイムリミットが近づいているのか、まだ余裕があるのか、誰にもわからない。 

そのとき、誰かが小さく悲鳴をあげた。南條エリカだ。

彼女が指差す先には、薄暗い角を曲がった場所に段ボール箱が積まれている。

乱雑に開封された形跡のあるそれには、血のような赤黒い汚れがこびりついていた。


「もしかして、また……死体が入ってるとか……?」 


エリカの声に、宝生ルカがそっと近づく。

だが、箱の中は空っぽだ。代わりに何枚かの紙が散らばっていた。

そこには通路や出口を示すような矢印らしきものが書き込まれている。 

柊馬がそれを拾い上げ、リヒトと共に目を凝らすと、地図の断片と見られる紙だった。

前の設計図とは微妙に違い、見慣れない部屋がいくつも描かれている。


「……ここに“管理室”って書かれてるな。だが、さっきのSTAFF ONLYとは位置が全然違う。おそらく複数の階層があるんじゃないか」 


リヒトが推測すると、柊馬も同意する。


もし“管理室”にたどり着ければ、監視カメラを操作したり、鍵を開ける機能があるかもしれない。

かすかな希望が胸をかすめたが、それが実現する保証はまったくない。


「でも……探すしかない。圭さんをこんな状態で連れまわすのはしんどいけど、ぼやぼやしていると今度こそタイムリミットで全員が……」 


北条光希が意を決して言いかけた瞬間、ちょうど伏見圭が足元をふらつかせ、膝から崩れ落ちる。

幸子とルカがとっさに支えるが、圭は唇をかみしめ、呻くように声を漏らす。


「悪い……もう、動けないかもしれない……」 


顔中に汗がにじみ、意識も朦朧としているようだ。

出血量が多すぎるのだろう。

彼が今このまま意識を失えば、そのまま息絶えるかもしれない。

誰もが暗い想像に囚われ、息を詰める。


 殺すのではなく、助けるために手だてを探す。

だが、十分な医療設備がなければ、助からない。

もし圭が死ぬとなれば、“脱落”が確定し、他の九人は生き延びる道が開けるのだろうか。

そう考えた瞬間、自分の中に芽生える冷たい思考に、青木幸子はハッとして首を振った。


「圭さんは……絶対に死なせちゃだめ。ここで見捨てたら、私たちはもう……人間じゃなくなるよ」 


弱々しくそれを口にした幸子を、海人が暗い目でじっと見つめる。

海人だって、本音を言えば圭を救いたい。

自分が傷つけた以上、その責任をとりたいと思っている。

けれども、この絶望的な環境では、誰かがいつ裏切ってもおかしくない――そう直感してしまうのだ。


「わかってる。……このままだと、結局は誰も助からないだろうからな」 


彼は低く呟き、段ボールの近くに倒れている板切れを見つけ、即席の担架をつくれないかと考え始める。

何をするにも危険がつきまとうが、行動しないよりはマシだろう。


 しかし、その瞬間、再び無機質なアナウンスが頭上から響いた。


「時間が迫っています。残念ですが、まだどなたも“脱落”していないようですね。次の警告音が鳴るまでに犠牲者が出なければ、この施設にいる全員を抹殺いたします。どうぞお急ぎください」 


あまりに冷酷な通達に、十人の身体が一斉に強張る。

誰もが顔を伏せ、視線をさまよわせた。

先ほどまで「助けなきゃ」という思いが渦巻いていたところへ、“誰かを殺さなければ全員が死ぬ”という現実があらためて突きつけられる。


 窒息しかねない沈黙の中、森下海人が立ち上がった板切れをじっと睨む。

あのときの衝動が再び身を苛む気配がある。

柊馬が何かを言おうとしたが、そのときには遅かった。

海人は行き場のない怒りと苛立ちをぶつけるように、その板を廊下の壁に投げつけた。

大きな音が反響し、続けて彼が叫ぶ。


「こんなの、無理だろ……! 誰も殺せなくて、みんなで死ぬか? それとも……誰かを犠牲にして、生き残るか? クソが……選べるわけがねえ!」 


その絶叫に呼応するように、廊下の天井スピーカーがジジッとノイズを吐き出した。部屋に充満する狂気を見透かすような不快な音だ。


 皆が息を呑んだまま立ち尽くす中、高坂宏太は圭に視線を落とし、ぐっと歯を食いしばる。

自分の中で衝動的に湧き上がる想いがある。

誰かが行動を起こさなければ、このままでは何一つ変わらずに終わる。


(でも、誰かを殺して得た鍵で出るなんて……それは地獄そのものだ) 


どうすればいいのかはわからない。

ただ、わずかな望みをかけ、もしかしたら自分の影操作が奇妙な形で道を開くかもしれない——そう思わずにはいられない。

彼自身がまだ知らない“影の秘密”があるのではないか、という願望のようなものが、今は頼りだった。


 こうして、深まる苦悩の中で、一行は再度廊下を彷徨する。

伏見圭の体力は限界に近く、彼を巡る決断が迫る。

誰かが圭を“助ける”のか、それとも“手を下して”自分たちが生き残るのか——。

残酷な選択はすでに目の前まで来ている。 

この先、“管理室”らしき場所へ通じる道を見つけ出せなければ、あるいは誰かが真っ先に裏切りの刃を振るってもおかしくないだろう。

どちらの可能性にも血の臭いが纏わりついている。 

あくまで限られた時間の中で、勝ち目のない賭けを強いられた十人の足音が、暗い通路に消えていく。

次の瞬間には、再び悲鳴が上がってもおかしくない。

沈黙と残響が入り混じりながら、深い闇の中へ沈む。

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