第5章:膠着状態

床を濡らす血の匂いが、狭い部屋の空気をいっそう重苦しくさせていた。

倒れ込む伏見圭の肩に手を当てながら、北条光希と宝生ルカは必死に止血を試みる。圭は深く息をつき、顔をしかめつつも弱々しく微笑んだ。


「本当に……済まない。俺のせいで、みんなに迷惑をかける」


 かすれた声を聞いた森下海人は、顔を俯かせたまま何も言えなかった。

先ほどナイフを振り上げてしまったのは、紛れもない彼の暴発だったからだ。

眠れない苛立ち、焦り、混乱……それらが重なり、彼を突き動かしてしまった。 

海人はふと拳を握りしめる。自分の思考がもう限界寸前だとわかっている。

眠れない身体――それを“能力”と呼ぶなど不条理に思えるが、どちらにせよ、ここで加速する負の感情はやがて最悪の行動を引き起こすかもしれない。

そんな不安が肌を突き刺すようだった。


 床に身をかがめた青木幸子がタオルの切れ端を押し当て、圭の出血を何とか抑えようとする。

その横で南條エリカが怯えた表情を浮かべながら、周囲を窺っていた。

足元に転がるナイフと、クローゼットで見つかった謎の死体。

それを見ているだけで吐き気がこみ上げる。


「とりあえず、圭さんを落ち着ける場所に移そう。こんな狭いところじゃ手当てもままならない」 


久遠柊馬がそう提案するが、先ほど自動的に閉まったドアはびくともしない。

パイプ椅子だけが並ぶこの薄暗い部屋に十人全員が閉じ込められたままだ。


「くそ、外に出さえすれば水や包帯の代わりに布があるかもしれないのに……」 


宝生ルカが悔しそうにつぶやく。

こういう場面でこそ“誰かの能力”が役に立ってほしいが、残念ながらそれが叶わないのは、誰もが理解していることだった。

ジャンプして着地音を鳴らしてもドアが開くわけではない。植物と「こんにちは」を交わしたところで、出口を教えてくれるわけでもないのだ。


 そのとき、南條エリカが不安気な面持ちのままポツリと言った。


「……さっきの死体、あれは本当に“前の参加者”だったのかな。もしそうなら……やっぱり私たち以外にも、こうして殺し合いを強要された人がいたってことだよね」 


誰もが答えを持っていない。

ただ一つわかっているのは、これが“最初の犠牲者”ではないということだ。

今までも何人かが殺し合いの舞台に上がり、そして散っていった。

ゆえに、自分たちだけが生き残って帰れる保証はどこにもない。


「そうだとしても、こんな場所に捨てるように死体を隠して、それをわざわざ僕たちに見せるなんて……悪趣味にも程がある」 


宇佐美リヒトは液晶端末を見つめ、ぶつぶつと何か考え込むように呟いた。

端末には“認証キーを挿入せよ”とだけ表示されているが、キーが何なのかもわからない。

地図らしき紙にはSUPPLIES ROOMや複数の部屋が描かれているが、肝心のルートが黒く塗り潰されている。


「もし認証キーが死体の身元から出てくるなら……と思って調べたけど、何も見つからなかった」 


リヒトの言葉に、北条光希が苦い顔で手元の血染めタオルを見つめる。

今はそれどころではない。圭の出血を最小限に止めなければ、時間の問題で命が危ないかもしれない。


「……私の服はどうせピンク色になっちゃうし、使える部分を裂いて圭さんの止血に当てるわ」 


光希が申し訳なさそうに言うと、宝生ルカがわずかに目を潤ませて助けてくれる。

二人は自分の服を破り、なんとか簡易的な包帯を作り出した。

血を吸った布は、ピンクと赤が混ざって嫌な色合いを映し出している。


 そして、肩を切られた伏見圭は、か細い声で呟く。


「誰も……死なない、ままで、いたいのに……」 


苦しげな吐息と共に口を噤む彼を、海人は横目で見たまま唇を噛んだ。やがて意を決したように低い声を上げる。


「……悪かった。本当に……俺は、もうどうかしてたんだ。眠れないイライラが限界に来て……」 


だが彼の謝罪を、北条光希が勢いで遮る。


「今は謝られても困る。もちろん、あなたも追い詰められていたんだろうけど……次に暴走されたら、今度こそ取り返しのつかないことになるわ」

「わ、わかってる。もう二度としない。……だから、頼むから俺を抑えてくれ。もし同じことを繰り返しそうになったら、遠慮なく止めてくれ。……俺は自分を信用できない」 


そう言いながら海人の瞳には、狂気よりもむしろ恐怖と自責の念が入り混じっていた。

まるで自分自身を制御できない化物扱いするように、彼は必死に頭を下げる。


 すると、スピーカーから低くノイズが走った。

耳障りな電子音が続いたあと、例のアナウンスが響く。


「皆さん、まだ誰も死んでいないようですね。時間をかけるのは自由ですが、以前も申し上げたとおり、全員が生き残る道はございません。早く誰かを“脱落”させて、出口の鍵を手に入れることをお勧めしますよ。ふふ……」 

嫌味な笑い声ともとれる機械的な笑いが消え、再び部屋は静寂に包まれる。

出口の鍵。

それが何を指すのかはわからないが、つまりは殺し合いの報酬として“脱落”を認めさせれば施設を出られる……そう匂わせているようにも聞こえた。


「そんなもの……嘘かもしれないのに」 


高麗杏奈が泣きそうな顔で呟く。彼女は腕時計を何度も見やっていて、今はまだ“歌が発動する時間”ではないのだろうが、いつ無意味な大声をあげてしまうか、内心は気が気ではないはずだ。


「でも、嘘でも私たちはその可能性にすがるしかないのよね……? 誰かを殺したら本当に出口が開くのか、確かめるしか……」 


杏奈が言い終える前に、青木幸子が「そんなの、ありえない」と首を振った。


「嘘であろうとなかろうと、私は誰かを犠牲にするなんてできない。ましてや……この怪我を負った圭さんを見殺しにするなんて……」 


彼女の声は悲鳴のように震えていた。

すると、南條エリカが表情を曇らせながら青木の肩に手を置く。


「……私だって嫌よ。でも、ゲームが進まなければ、全員がやられる可能性がある……。どうすれば……」 


絶望の二文字が、全員の視線に宿る。

弱音や正論を語ったところで、ルールは変わらない。

誰も死なないなら全員が死ぬ。それが無慈悲な現実なのだ。


 しかし次の瞬間、まるで状況を見透かしたように、ドアのロックがガコンと解かれた音がした。

柊馬が身構えつつドアに近づき、ゆっくりと開ける。

先ほど彼らが通ってきたはずの廊下が戻ってくるが、その先には一切人の気配がない。

暗い天井にカメラのレンズが見え、相変わらず監視の視線が注がれているようだった。


「閉じ込められたと思ったら、急に解放か。……やっぱり生かさず殺さずの駆け引きを楽しんでいるんだろうな」 


柊馬はそう呟くと、伏見圭を支えられる者を募った。

北条光希と宝生ルカ、そして青木幸子が一緒に腕を回し、なるべく圭の身体に負担をかけないよう慎重に立ち上がらせる。 

海人はすでに萎縮し、二度と暴発はしまいとばかりに後方で距離を保っていた。

何とも言えない沈鬱な雰囲気が続き、全員が廊下へと歩みを進める。


「まずは、圭さんの傷をちゃんと処置できる場所を探さないと……。部屋がいくつかあるようだけど、SUPPLIES ROOMはカードキーがないと入れないし」 


宝生ルカがスケッチのような地図を見ながらそう呟く。

だが、先に見つけた倉庫や保管庫には救急セットらしきものはなかった。

限られた水と布で凌ぐしかないこの状況は、圭だけでなく全員をさらに追い詰めていく。


 ここで宇佐美リヒトが急に立ち止まる。

彼は目を細めながら、熱心に地図を見比べている。


「この通路……ここを曲がれば、大きな部屋に繋がりそうだけど。図の形が合わないんだ。何か書き換えられてるのか、あるいは途中で行き止まりになっているのか……」 


その言葉に、青木幸子が頼りなさげな視線を投げる。

リヒトは歴史的事件の知識ばかり増える能力者だが、論理的思考には定評がある。

それだけに、彼の言うことは無視できない。


「とにかく進んでみるしかない。別の扉があったら、そこをあたろう。……時間だけが無情に過ぎていくからな」 


柊馬の低い声に、誰もが曖昧に頷いた。

刻々と迫るタイムリミット——そのときまでに誰も死ななければ全滅という脅威が、まるで錘のように足元を縛っている。


 歩みを進めながら、ふと高坂宏太は自分の影を見つめた。

先ほど海人が暴れた瞬間、咄嗟に影を“動かした”ような気がする。

ほんの一秒、ほんの少しだけ。


「俺の影が……海人の腕に触れたのか。いや、あれがなかったら圭はもっとひどい傷を負っていたのかもしれない……」 


考えてもはっきりとわからないが、まったく役に立たないと思っていた能力が、一瞬だけ誰かの命を救ったかもしれない。

そんな希望が胸をかすめた。

だが、それも命を救いきれるほどの力ではない。

その現実に苦い思いを抱えつつ、宏太は後ろを振り返る。

すると、海人がかすかな視線をこっちに投げていた。

何かを言おうとしている気配があるが、言葉はない。

ただ、怯えた顔と自責の念に潰されそうな暗い瞳が戻ってくるだけ。


 ドアが開き、十人は再び薄暗い廊下へ出た。陰湿な静寂が満ちる構内で、彼らの呼吸だけが騒がしく響く。

次に何が起こるかわからない。

だが、誰かが死ななければいけない。

否、それでも誰も殺さずに終わりたい。 

まるで二つの相反する思いが引き裂き合うように、彼らの足音は重く鈍い。

圭の傷が悪化する前に救護できる場所を見つけるか、あるいはタイムリミットが来る前に残酷な結末が訪れるか。

いずれにしろ、ここから先は“裏切り”と“策略”が色濃く形を成していくのだろう——。


 廊下の先には、新たな鉄扉が待ち構えている。

そこに貼られた文字は“STAFF ONLY”。

しかしどこか不自然に、文字の下には何重にもセキュリティ装置のようなものが取り付けられている。

それを見たとき、十人の間に微かな緊張が走った。

もしここに突破口が隠されているのなら——その鍵は、やはり“誰かを脱落させる”という道しかないのか。 

暗い予感が嫌な重みを持ち始める。

さらなる苦悶と選択の果てに、彼らはどんな未来を選び取るのか。

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