第4章:最初の小競り合い
冷えきった空気が廊下の隅々にまで染み渡っていた。
息苦しいほどの沈黙の中、十人はそこに立ち尽くしている。
先刻、追加ルールが告げられた。
誰も死ななければ全員が死ぬ——あまりに非情な宣告だが、ここではそれが絶対なのだと理解し始めていた。
森下海人は苛立ちを抑えきれない様子で、壁に拳を打ちつける。
「ふざけんなよ……このまま、誰かが“やられる”まで待てってのか? 意味わかんねぇよ……」
彼の目は血走っていて、見る人間を威圧するような気迫がある。
常に眠れない身体を持つせいか、精神的な疲労は限界を超えているのだろう。
その海人をなだめようと、北条光希が声をかける。
「落ち着いて。きっと何か方法があるはずだし……」
「どこにそんな方法があるんだよ。考えたところでどうなる! 時間切れになれば全員殺される。それが事実だろ?」
突き放すような調子に、光希は言葉を失い、代わりに宝生ルカが小さく息を吐く。
「でも……本当に、私たちの中から殺し合いが始まったら、それこそ“向こうの思うつぼ”じゃないかな。だったら、私たちはなるべく協力して……」
言い終わらないうちに、どこか遠くから金属を引きずるような嫌な音が響いた。警報のようにも聞こえるその不気味な音に、十人の顔色が変わる。
半分壊れかけたドアの向こうから、ガチャリと錠が外れる気配がした。
皆でそちらへ視線をやると、重そうな扉がゆっくりと開いていく。
奥は暗闇に沈んでいて何も見えない。
嫌な汗が背中を伝う。
「行くしかないのか……」
伏見圭が低く呟く。
いつまでもここで足踏みしていても、何が起こるかはわからない。柊馬が慎重に歩み寄り、少しだけドアの隙間を覗いた。
「こっちにはカメラがなさそうだ。……罠の可能性は高いが、調べずに引き返すわけにもいかない」
柊馬が振り返ってそう言うと、南條エリカや青木幸子たちもまた覚悟を決めたように頷く。
高麗杏奈も、唇をきつく結んで目をそらさなかった。
すでに武器代わりのナイフや手斧は布袋に入ったままだが、いつでも取り出せるように皆それぞれが警戒態勢を崩さない。
そこから広がるのは狭い通路で、壁に打ち付けられた非常灯が淡く赤い光を放っている。
通路の先には小さな部屋がひとつ。
扉もなく、むき出しの空間に錆びたパイプ椅子が数脚置かれているだけだった。
椅子の上には何か白い紙が散らばり、その中央に小さな液晶端末が鎮座している。
紙のほとんどは英語のような文字列が印刷されているが、解読が難しい。
柊馬が一枚手に取ると、それはどうやら施設のどこかの設計図の一部を示しているようだった。
「……なんだこれは。見覚えのない部屋の配置だな」
「ここに載ってる“SUPPLIES ROOM”は、さっきのカードキーが必要な部屋かもしれないわ」
宝生ルカが声を上げ、青木幸子もその紙をのぞき込む。
だが、書かれているのは断片的な情報ばかりだ。
しかも地図の一部は黒く塗り潰され、通路がどこへ続くのか分からない箇所が多かった。
液晶端末を手に取ったのは宇佐美リヒトだった。
彼が電源らしきボタンを押すと、ちらつく画面に文字が映し出される。
「‘アクセス認証が必要です。認証キーを挿入してください。’……キーなんて、持ってないぞ」
戸惑うリヒトに、高麗杏奈が顔をしかめながら言う。
「カードキーのことかしら。それとも、また別のキーなのか……」
「いずれにしろ、これを使えば新しい情報が得られるのかもしれない。そのために、“誰か”が手段を選ばずカードを奪うように仕向ける……そういうシナリオも考えられる」
柊馬が低い声でそう言い、全員が暗い顔をする。
ほんの些細な情報ですら“命の駆け引き”になる。誰もがそう感じていた。
そのとき、森下海人が奥の壁に目を留めた。
かすかに扉のような継ぎ目がある。
彼はそっと近づき、その隙間に指をかけてみる。
すると、意外にも軽い手応えで開いてしまった。
仕切りの向こうには狭い空間があり、まるでクローゼットのようだ。
「なっ……」
海人が絶句した。中にはずぶ濡れの布切れが転がっていて、その下から伸びている白い手首が見えた。
全員が息を呑み、すぐにそれが人間の腕であると理解したとき、一瞬にして凍りつく。
「誰か、死んでる……?」
青木幸子が震える声でそう問いかける。
海人はそっと布をめくり、目を見開いたまま絶句する。
そこには血の気のない男の顔があった。
服装は彼らと同じくどこか見覚えのない囚人服のようでもあり、しかしまったく知らない人物だ。
体はもう硬直しているようで、胸には深い刺し傷が二つほど。
見るに耐えない光景に、南條エリカは思わず嘔吐感をこらえて顔をそむけた。
全員が混乱しながらも、北条光希が疑問を口にする。
「私たち以外にも、ここに閉じ込められた人がいた……ってこと?」
「もしかしたら、脱落した参加者、あるいは前のゲームの犠牲者かもしれないな」
柊馬が苦い顔で断言し、液晶端末を手にしていたリヒトは失意に肩を落とす。
まさかこんな形で“前任者”の痕跡を見つけるとは思わなかった。
「……こんなの、悪趣味にもほどがある。わざわざここに死体を隠し、俺たちに見せるために仕組んだのかもしれない」
ぞっとする予感が、ルカやエリカを襲う。
高麗杏奈は堪えきれないように顔を覆っている。
そのとき、突如として柊馬が天井のほうに視線を投げた。
何かを感じ取ったのか、すぐに周囲を見渡す。
「静かだ。……まずい。俺たちの動きを伺っているやつがいるのか」
彼がそう言い終わらないうちに、部屋の入口から大きな音がしてドアが閉まった。
ロックのかかる甲高い音が響き、狭い通路が完全に封鎖される。
部屋の中央に立っていた伏見圭が慌てて走り寄ろうとするが、あの能力のせいか一瞬足がもつれたように遅れ、ドアをこじ開けることはできない。
「くそっ、開かない……!」
焦る圭の背後で、海人の目が鋭く光る。押し殺した声で、咄嗟に柊馬へ問いかけた。
「おい、これはまずいんじゃねえか? このまま閉じ込められたら……」
「落ち着け。いずれアナウンスがあるかもしれない。ここでパニックを起こすのが、一番相手の思うつぼだ」
柊馬が冷静を保とうとするが、すでに皆の表情には恐怖が混ざっている。
まるでネズミを捕らえた鳥籠のような閉鎖感が、じわりと広がる。
間を置かず、天井からのスピーカーがほどけるように声を落とす。
「死体は見つかりましたか? これは“裏切った者”の末路です。皆さんもお気をつけくださいませ。……さて、そろそろ時間が来ます。誰も死なないままでは困りますね。どうせなら、この部屋で決着をつけていただいても構いませんよ」
無機質な響きに、怒りと戦慄が入り混じる。十人の視線が交錯する。その中で、一番険しい顔をしていたのは海人だった。
彼の呼吸が荒く、まるで限界に近い。
「もういい……こんなところに閉じ込められて、誰かが死ぬのを待つしかないのか? ふざけんな!」
彼の声は全員の鼓膜を揺らし、次の瞬間、海人は自分の懐からナイフを取り出した。布袋の中にしまい込んでいたはずのそれが、今は彼の手にしっかり握られている。
「おい、やめろ!」
柊馬が警戒し、一歩引く。だが、海人は苦悶の表情を浮かべたまま、牙をむくように叫んだ。
「眠れないんだ……ずっとだぞ! ここに来てからさらに気が狂いそうなんだよ! ……誰かがやられるってんなら、いっそ俺が最初に……!」
殺気とは程遠い能力を持つ者たちが、恐怖に震える。
もし海人が暴発すれば、取り返しがつかない惨劇が起こりかねない。高坂宏太が咄嗟に声を上げた。
「やめろ! そんなことしたって……!」
だが、その瞬間だった。海人がナイフを振り上げようとしたとき、ぱん、と乾いた音がして、彼の手首が弾かれるように揺れた。まるで何か看過できない力が働いたかのようだったが、
宏太が必死に腕を伸ばして影を動かしたのか……一瞬の出来事で、誰にもよくわからない。
ただ確かなのは、海人がナイフを握ったままバランスを崩し、隣にいた伏見圭に体当たりするようにぶつかったことだ。
「お、おい……!」
圭がとっさに身を捻ろうとするも、例の遅れが仇になった。
二人はもつれるように床へ倒れ込み、次の瞬間、短い悲鳴が上がる。
伏見圭が苦痛に顔を歪めていた。海人のナイフが倒れ際に圭の肩口をかすめ、深く切り裂いたのだ。
「圭っ……!」
すぐに北条光希が駆け寄って傷を押さえるが、血の染みがみるみる広がっていく。
周囲が叫び声に包まれ、宝生ルカや南條エリカは顔を蒼白にして震え出す。
青木幸子は泣きそうになりながらタオルの切れ端で傷口を押さえ続けた。
海人は完全に動揺していた。わなわなと震えながら後ずさり、ナイフが手から落ちる。
「違う……俺は、そんなつもりじゃ……!」
彼の言葉をかき消すように、伏見圭が咳き込みながら顔を上げる。
「大丈夫……いや、全然大丈夫じゃないが……死にゃあ、しない……」
強がるように言うが、その声は今にも消え入りそうだった。
誰もが血を目の当たりにし、冷たく残酷な“ゲーム”の現実を嫌というほど突きつけられる。
もしこのまま圭が命を落とせば、それは“最初の脱落”になるのかもしれない。
だが、海人の表情を見る限り、それだけは望まないと訴えているように見えた。
次の瞬間、ぱちんと音がして、部屋の灯りが一瞬だけ暗転した。
嫌な予感が走る。ドアが開くどころか、天井のスピーカーから機械音が鳴り出し、妙に楽しげな調子の声が響く。
「素晴らしい。少しだけ血が流れたようですね。ですが、まだ『脱落』には不十分。しっかり仕留めなくては意味がありませんよ。さあ、どうしますか? 助けてあげるもよし、殺して生き延びるもよし……あなた方の選択は自由です」
狂った宣告が、もう一度、彼らの心を深い闇へと突き落とした。
手当てをしなければ圭の命は危ういかもしれない。
しかし、助ける余地があれば、それはすなわち“まだ誰も死んでいない”ということになる。
タイムリミットが迫れば、また新たな悲劇が起こるだろう。 重苦しい沈黙が支配する中、柊馬が手斧を取り出し、わずかに身構える。
海人は涙目で震えながら「悪かった……」と何度も呟き、光希やルカは圭の血を必死に押さえ続ける。
青木幸子やエリカは震えながらそれを見守るしかない。
高麗杏奈は今にも泣きそうになりながらも、どこかで時間を気にしているように時計を睨んでいた。
もしこのまま決まった時間に大声で歌が始まってしまったら、と考えると恐怖が増すばかりだった。
高坂宏太は、全員が危ういバランスで繋がっているのを感じ取る。
圭の命を助けたい。
だが、助けることが生き延びる道を閉ざすなら、誰かが海人を攻撃する可能性もある。
もう一触即発だった。
「こんなはずじゃなかったのに……くそっ!」
心の中で何度も叫んでいた。
血の臭いが薄暗い部屋に漂い、凍てつく空気が締め付ける。
外からは鍵の開く気配がしない。殺し合いを強要するための舞台は、無機質な照明に照らされながら、まるで悪夢のように広がっていた。
こうして、十人のうちの一人が深手を負ったという事実は、近い将来さらなる惨劇を呼ぶ暗い予兆だった。
利害が衝突すれば、今度こそ本当に“最初の脱落”が決定的になるだろう。
救われる者はいるのか、それとも誰も救えないまま殺意が膨れあがるのか。
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