第3章:疑心暗鬼の幕開け

先ほどまでの演習ルームを後にして、十人は薄暗い廊下をゆっくりと進んでいた。

どの扉も似たような鉄製の重厚な造りで、簡単にこじ開けられる気配はない。

立ち止まるたびに、天井の監視カメラらしき黒い球体が視線を送り続けていることに気づき、彼らの胸にはじわりと嫌な汗が滲んでいた。


 それでも動かないわけにはいかなかった。

もし自分たちが何もせずにいれば、遠からずゲームの“本当の開始”を強要される。

そのときには、誰かを殺すか殺されるかの二択になるのではないか。

そう考えると、探索こそが逃れられない運命へのほんの少しの抵抗のようにも思えた。


 久遠柊馬が先頭を歩き、慎重に扉を一つずつ確かめる。

彼の後ろには高坂宏太と宝生ルカが続き、その後ろを北条光希や伏見圭、森下海人が固まって進んでいる。

さらに少し離れて宇佐美リヒト、南條エリカ、青木幸子、高麗杏奈がついてくる形だった。これといった作戦を決めたわけではない。

自然に、なるべく全員がバラけずにまとまろうとしただけの配置だった。


 光希は歩きながら、自分の服の裾を気にしている。

少しだけ緊張をほぐそうという意図があるのか、わざと明るい調子で呟いた。


「こういうときって、だいたいホラー映画なら電気が消えたり、誰かが後ろから襲ってきたりするんだろうけど……ま、私たちには殺傷能力がほとんどないからね」 


彼女はぎこちなく笑う。

だが、周囲の表情は冗談を受けとれるほど柔らかくはない。

殺し合いを“命じられて”いる現実が、そんな軽口を許さない空気を作っていた。


 一方で伏見圭は、何度か小走りになりながら確認するように「くそ、やっぱり」と低く呟いている。


「少しでも急ぎ足になってみたけど、どうせ結果は同じ。何かの拍子に別行動になったら……俺が定刻より十分快く到着できなくて、取り残される可能性が高い」 


遅刻が確定する能力。

これまでは仕事や約束で散々不遇を味わってきたが、まさか命懸けの場面でも自分を苦しめるとは思わなかったのだろう。 

その様子を見ていた宏太は、わずかに同情を覚えながら、いや自分だって無価値な影操作なんか持っていてどうするんだ、とすぐに視線を落とす。

もしいざ争いになったとき、身体ひとつで戦わないといけない。

そのとき、たった一秒だけちょっと影をずらせることになんの意味があるのか。


 そのとき、先頭を歩いていた柊馬が足を止め、錆びついた扉をゆっくりと開けた。中には細長い部屋があり、むき出しのパイプが何本も走っている。

どうやら保管庫か倉庫のようにも見えるが、何も置かれていない空っぽの棚が並んでいるだけだ。しかし、部屋の奥の方には簡素な冷蔵庫のような装置があった。 

全員がざわめき、互いの顔を見合わせる。

柊馬がドアを押さえたまま言う。


「何かの保管用かな。食料とか水が入っていればいいんだが……」 


期待半分、不安半分という空気が一挙に広がった。

もう一度、残りの全員も入ってみると、そこには冷蔵庫のほかに大きめのロッカーが三つ並んでいる。


 高麗杏奈が息を詰めながら冷蔵庫のドアを開けるが、中には白い発泡スチロールの箱があるだけ。

彼女が箱の蓋を開けると、小さなペットボトルの水と、保存食のようなパックが十個ほど入っていた。

杏奈が顔を上げると、そこで初めて少し安堵の表情が浮かぶ。


「よかった。飲み水と食べ物……それにしても、数はあまり多くないわね」


 一緒に覗き込んだ青木幸子が、申し訳なさそうに言う。


「これだと、十人全員が三食分をしっかり確保できるわけじゃなさそう……。数日に一度の配給という感じかもしれないわ」

「配給……ここまで用意されてるってことは、やっぱり観客とか主催者が監視しているのかしら」 


南條エリカが呆れ半分で呟き、冷蔵庫の奥に何か隠れていないか慎重に手を伸ばす。だが、特に仕掛けはないようだ。


 一方、ロッカーを開いたのは宝生ルカと北条光希、そして伏見圭だった。

最初のロッカーは空っぽ。

同じく二つめも空。

最後のロッカーを開けたとき、三人の顔つきが緊張から驚愕へ変わる。

そこには小さな布袋があり、中からは数本のナイフと手斧が姿を現した。


「これ……私たちに使えってこと?」 


光希の声が震え、ルカは思わず首を横に振る。


「……こんなもの、どうしろっていうの。ふざけてる」 


戦闘能力がまるでない人間たちに武器を与える。その意味するところはあまりに露骨だった。

つまり、いよいよデスゲームを“実行”するための道具に他ならない。

伏見圭が苛立ちをこめて唸る。


「投げても当たる気がしないし、振り回しても誰かを殺せるとも思えない。……いや、それより、この主催者は“お膳立て”してるんだ。俺たちに死闘をさせるために」 


圭の言葉に、妙な寒気が部屋を包む。

もしかすると、あえて“非力な能力”しか持たない者同士で、こうした武器を使わせる展開を楽しんでいるのかもしれない――そう考え始めると気分が悪くなった。


 そのとき、森下海人が苛立ったように袋からナイフを取り上げ、手に持つ。


「くだらない。こんなので人を殺すなんて、まっぴらごめんだ。それでも連中が殺し合いを強要してくるなら……いっそ投げ捨ててしまいたい」 


だが、それを聞いた柊馬が冷淡な声で海人を制止した。


「やめろ。捨ててしまって困るのは、いざ武器が必要なときだ。嫌な話だが、どこかに仕掛けられている“罠”に対抗する術がないまま突き進むのは危険すぎる。これをどう使うかはわからないが、持っておくに越したことはない」

「……ちっ、わかったよ」 


海人は不満そうに吐き捨てながらも、ナイフを改めて布袋に戻す。

その腕は小刻みに震えていた。怒りなのか恐怖なのか、本人ですら分からないのかもしれない。


 道具も確保し、十人は部屋を後にして再び廊下へ戻る。

ここまでの状況を考えると、施設内にはこうした武器や最小限の食料が配置されているらしい。

裏返せば、それは“ある程度は長期戦になる”ことを示唆しているようにも思えた。 不気味な静寂を破るように、アナウンスがまたしても天井から響き渡る。


「皆さん、少しは施設に慣れてきましたか? ここで、ゲームを円滑に進めるための“追加ルール”をお知らせします。次のタイムリミットを2時間後に設定します。次のタイムリミットまでに、参加者が一名も脱落しなかった場合、あなた方全員を脱落とみなします。どうぞご注意ください」 


無機質な声はそれだけを告げ、あっさりと消えた。

まるで、教師が宿題の期限を言い渡すかのような淡々とした口調だった。


 重苦しい沈黙が場を支配する。誰もがその意味を正しく理解しているはずだ。

つまり、放っておいても恐ろしい罰が下されるのだ。

無理やりにでも“誰か”が死ななければ、全員が死ぬ。 

膝をついたのは、高麗杏奈だった。

彼女はさっきまではなるべく強がっていたのに、今は両肩を震わせている。


「こんなの……みんなで助かる方法なんて、ないじゃない。ひどい……ひどすぎるわ」 


近くにいた青木幸子が膝を下ろし、杏奈の背中をさすってやる。

そんな二人を見ていた南條エリカは、泣きそうな顔を堪えている。


「何か、ほかに道はないの? 誰かが脱落する前に……ここを破壊して逃げるとか、そういうのは……」 


弱々しいエリカの問いかけに、宇佐美リヒトが静かに首を振る。


「そう簡単にはいかないだろう。カメラに見張られ、罠がどこにあるかもわからない状態で、ドアや壁を壊せるほどの装備もない。……となると、あの声が言うように“誰かが脱落する”ことをシステムが確認しない限り、先に進めないのかもしれない」


露骨すぎる。

そして絶望的すぎる。

だが、現状では彼の言っていることが最も冷静な判断だった。 

宝生ルカが唇を震わせながら「嫌だ……」と呟き、伏見圭は思わず目を閉じた。


「こんな茶番めいたことに……そうだとしても、どうしようもないのか? だって、俺たちにはろくな能力がないじゃないか。殺し合いなどしたくなくても、時間が迫れば“やるしかない”状況に追い詰められるかもしれない」 


まるで誰にともなく嘆くような声だった。

周囲は言葉を失い、ただ暗い廊下に立ち尽くす。

立ち込める空気は、一段と重みを増している。


 そんな中、久遠柊馬だけはわずかに目を伏せ、息を整えるようにしてから低い声を発した。


「……今、この状況で混乱を長引かせると、まっさきに“裏切り”に走る者が出るかもしれない。誰かが勝手に他人を襲えば、そのときは本当に地獄になる。それだけは避けないといけない」 


彼の目は冷ややかだが、その奥には自分自身の焦りを必死に押し殺す意志が見える。だが、海人が半ば投げやりにその言葉を遮る。


「避けたいね。だけど、誰が保証してくれるんだ? 俺は眠れなくても大丈夫な身体だからまだしも、寝てる間に襲われるのが怖いって思ってる人間だっているだろう。そうなりゃ自衛したくなる。つまり先手を打つしかない――って考えるのが普通だ」「海人さん、そんなこと言わないで……」 


青木幸子が涙声になるが、彼は目を伏せ、肩をすくめるだけだ。


 殺し合いが本格化すれば、自分がどこに立つのか。

誰と手を組み、誰を切り捨てるのか。

そんなものは考えたくないし、実行したくもない。

それでも、主催者の追加ルールは、いずれ彼らを――全員を――その究極の選択へ追い込むだろう。 

耐え難い緊張の中、突然、廊下の奥から電子音が響いた。

誰かが罠を踏んだのか、あるいは新たな通路が開いた合図か。

十人は互いを警戒しつつ、自然と足を揃えて音のほうに向かう。 


廊下の突き当たりには、今まで見落としていた小さな扉があった。

そこに「SUPPLIES ROOM」と書かれたプレートがあり、今は赤いランプが点灯している。

どうやら正面の装置にカードキーをかざさないと入れない仕掛けのようだが、カードキーなど見当たらない。


「……これ、どうすれば開くんだ? さっきの部屋には鍵なんてなかったぞ」 


伏見圭が鋭い視線で装置を調べる。だが方法がわからない。

まるで“誰か”が鍵を隠し持っているか、あるいはもっと進まないと入手できないようにされているのかもしれない。 

少なくとも、「ここには有用な物資がありますよ」という罠めいた誘導のようにも思えた。

もっと言えば、「ここを目指す過程で血を流せ」と言わんばかりの演出か――そんな疑念が湧いてくる。


 いずれにしろ、一歩ずつ探るしか道はない。

“タイムリミット”は刻々と迫りつつある。

結局、全員が疑心暗鬼のまま、薄暗い廊下を戻るしかなかった。 

その途中で、宝生ルカが思わずジャンプし、着地の瞬間にジャズピアノの陽気なフレーズが鳴る。

あまりに不釣り合いな音が響き、悲壮感に満ちた廊下に滑稽な余韻を残した。

誰も笑えない。

ルカ自身、申し訳なさそうに項垂れながら、急いで歩みを進めるしかなかった。 

そして高坂宏太は、短く息を吐く。

こんな音を立ててしまえば、もし誰かが本気で人を襲うとき、

ルカは隠れられないだろう。

彼女が逃げるときの足かせになりかねない。

その考えを振り払うように、宏太は自分の拳をぎゅっと握りしめる。


「逃げ場所なんてない……どうすりゃいいんだよ」 


情けないほど低い声が喉の奥から漏れる。

彼の影はコンクリートの壁に投げかけられ、一瞬だけわずかにゆらめいては、すぐに元に戻った。

あらためて、その一瞬の揺らぎがまるで自分の無力さの象徴のように感じられて、宏太は無性にやりきれなくなる。


 誰かが誰かを疑い始めれば、一気に均衡は崩れるだろう。

すでに全員に支給されたナイフや手斧はある。

目を瞑っていた争いの気配は、じわじわと現実味を帯びてきた。 

絶望に染まるような空気の中、彼らはわずかな希望さえ見つけられないまま、暗い廊下に足音を残して歩いていく。

次の瞬間、どこかで引き金が引かれるかもしれない――その恐怖を抱えながら。


誰かが死ぬ。

その死が、ほかの全員を生かす一歩となるのだろうか。

あるいは、それが血の連鎖を招く導火線になるのか。

少なくとも、そう遠くない未来に“どちらか”が現実となるはずだ。 

警報のような機械音が微かに聞こえつつ、暗い闇の奥へと吸い込まれていった。

彼らの心を喰うかのように、廊下の先から吹く冷たい風が一層強まる気がする。

いずれ訪れる“初めての犠牲”に備えるように、監視カメラのレンズが鈍く輝いていた。

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