繰り上げ死亡
荏波原 圭
繰り上げ死亡
「あー、早く死にたい」
俺は、鞄を乱暴にベンチに置くと、小さくつぶやいた。
「できますよ」
真うしろで声がした。
振り返ると、高級そうな黒いスーツをきっちりと着込んみ、黒ネクタイの男が立っている。太り気味の男は、額の汗を真っ白なハンカチで拭っている。
「お暑うございますねえ。あなたの希望を何でも叶える死神でございます」
「死神?」
自分の声が裏返っている。
「はい、そうです。信じていないでしょう? 当然ですよ」
海岸沿いの公園の桜の木の下にある古びたベンチに座って何気なくつぶやいた途端の出来事だった。
「皆さん、そのような顔をなさいます。死神イコールガリガリに痩せ細っているというイメージでしょうが、それは間違いですよ」
丸顔の男がにっこりと微笑む。
信じない理由はそこではないと思うが。
「こちらの木の下が、受付になっております」
男は、愛想笑いを浮かべる。
「受付?」
「あれ? 誰かのご紹介ではないのですか? ここでその合い言葉を仰るのが、受付を呼び出す合図になっておりますが」
いつの間にか白い霧に覆われ、目の前に小さな机が置かれていて、その向こうに男が座っている。公園から見知らぬ所へ移動している。
「ここ、どこ?」
「地獄の受付になりますが」
「地獄?」
「はい、地獄の中でも、繰り上げ死亡をご希望のお客様の専用受付です」
言い慣れていないのか、お客様という言葉だけ、ぎこちない。
「繰り上げって、どうゆうこと?」
おれは、繰り上げという言葉が、妙に気になった。
「はい、システムを説明させていただきます。まだ、寿命が残っている皆様が、その寿命を待たずに死にたいという方のために設けられたシステムでして、残った寿命を特定の方に無条件で贈与でき、さらにもれなく天国へ行けるという特典がございます」
死神が早口で説明する。
おれは、理解するのに少し時間がかかった。
「誰にでも、贈れるの?」
間抜けな質問だ。
「はい、制限はございませんし、贈られた相手も気づきません」
丸顔の死神は、額から汗をしたたらせて、微笑んでいる。
おれは、どうしたらいい?
「痛くない?」
またまたまぬけな質問だ。死神が額の汗を拭う。
「とても楽です」
おれは、全てから逃げられると思った。
「ところで、俺の寿命は?」
「はい、このシステムをご利用いただけるのは、残り寿命一年以内の方だけでして」
「おれ、あと一年で死ぬのか?」
大声になっていた。
「はい、ご存じなかったですか? そうですよね、このシステム知らなかったのですからね。ああ、しまった、言ってはいけないことを言ってしまった」
死神の顔が、青ざめる。死神らしい顔つきになったが、慌て方が尋常ではない。
「ここでの事は無かったことにできますが、どうします?」
死神の声が震え、恐る恐る尋ねる。
なぜかは知らないが、俺の寿命は長くてもあと一年らしい。
「間違いないのか?」
「もちろんです。死神の名誉にかけて、間違いありません」
死神は、顔を引き締め、机の上に置かれた分厚い本に目を落とす。
「それは?」
おれは、その本を指さして尋ねる。
「全ての人間の寿命が書かれて台帳です。閻魔大王直々に監修されている地獄の台帳です。一切の間違いはありません」
医者からの余命宣告より、正確なのだろう。
ここで、腹をくくってもいいのかもしれない。
「あとどれくらい生きられるんだ?」
死神は、一瞬言いにくそうな顔を見せた。
「九十三日です」
あまりの短さに俺は目を見張る。
「おれは、事故にでも遭うのか?」
「それは申し上げられません」
死神が恐縮するように目を伏せる。
身辺整理する時間さえ、なさそうだ。
「病気か?」
考えても、気になる症状はない。
しかし、三ヶ月で死ぬとなると、いったい何ができるのか?
「あのう」
おれの決断を促すように、死神が声を発する。
「この申込みは、選ばれた人が一生に一度だけでして、あなたが今回、私と出会えたのは、本当に偶然でして、というか事故のようなものでして、次の機会はありませんので、そこは承知しておいてくださいね」
死神がじっとおれを見つめている。
これで、全てから逃れられるのだ。
あの親のための、毎月の多額の支払いも。
「ここで会ったのが、何かの縁かもな、じゃあ、繰り上げようか」
「はい、そのお言葉で正式に受付させていただきます。残った寿命はどうしますか?」
「私の親にあげてください」
と言った途端、おれは、地面を見下ろすように、宙に浮かび上がっていた。ベンチ脇には、おれの体が倒れている。
親は、病院で何本ものチューブをつながれて、寝たきりだ。
まだまだ、苦しめとおれは思いながら、天に昇っていった。
(終わり)
二〇二五年一月八日
繰り上げ死亡 荏波原 圭 @azumac
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