月下 2
息をひそめて耳を澄ます。木々のざわめきの合間に、確かに聞こえる息遣い。人のものではない、と直感する。鬼か、と咄嗟に身構えたが、茂みの向こうに光る眼を見つけた。
「ああもう、また狼か」
危険が去ったわけではないが、正体が分かると少し安堵するものだ。まして狼相手なら、それほど恐れることはない。前回と異なり、今は鬼の剣も持っている。だが、問題はその数だ。目の数を数えると十頭は軽く超えている。更にその奥にもちらちらと増えている。かなりの群れだ。
「鬼火(こ)の国じゃあ、鬼より狼のほうが話は通じないんだろうな……」
五十狭芹彦が剣を抜いたのと、狼が闇の中から飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。闇の中に狼の白い牙が閃いて、五十狭芹彦は剣を振った。
ぴゅううっ――と、口笛が鳴り、五十狭芹彦の剣が空を斬った。飛びかかってきた狼は、五十狭芹彦を掠めて背後の藪に消えた。他の狼たちも攻撃をやめ、一様に口笛のした方向を見上げている。
その視線の先。樹上から、聞き覚えのある声がした。
〈お前たち、巣へ戻れ〉
その声に従うように、狼たちはあっさりと山の闇の中へ消えていった。
木の上から飛び降りてきたのは、果たしてあの狼使いだった。
「健!なぜここに?」
「あんたなあ、こんな夜に一人で山に入るなんて、無茶じゃあ」
狼使いの健が言った。去っていく狼の群れを、ミツメとホムラが見送っている。
「ああ驚いた。おまえは狼と話が通じるのだねえ」
五十狭芹彦が言うと、健ははっとして、それからふいと顔を背けた。
「……あれは、鬼の言葉じゃ」
「へえ?鬼の言葉は、狼の言葉と同じなのか?」
「そうじゃねえ。あの狼らぁは鬼らに躾けられたんじゃ。狼の群れにしちゃあ数が多かったじゃろう?あれは、鬼ノ城を守る兵隊じゃ。兵隊の狼を躾けるには、短い言葉を覚えさせる。狼は短い言葉なら覚えることができるけえ、犬もそうじゃろう?お座りと言えば座るし、名を呼べば寄ってくる。同じじゃ。犬じゃなく狼、人語じゃなく鬼語というだけ」
「同じ……」
「あれらは鬼らにしつけられたから、鬼の命令する言葉を覚えとるのよ。儂はそれを話しただけじゃ」
「じゃあ、健は鬼の言葉がわかるの?」
「……儂は、鬼の子じゃけ」
「えっ」
五十狭芹彦は驚いて、健の顔をまじまじと見た。
「だがおまえは、鬼には見えない」
健は更に顔を背けて、小さな声で言った。
「お母(かあ)がのう、鬼の生贄じゃったのよ」
その告白は、五十狭芹彦に衝撃を与えた。
生贄、という言葉が、陰惨な情景を次々と連れて来る。
「昔は、暴れる鬼を鎮めるために、毎年生贄を捧げていたんじゃ。生贄には若い乙女が選ばれた――」
女が圧倒的に少なかった鬼たちは、生贄に子を産ませた。健の母は七人の子を産んだらしいが、どうしたわけか、健だけ角が生えなかった。健の下にも乳飲み子の鬼がいたから、幼い健だけが一人、人里に返された。だが、里人にとっては憎い鬼の子だ。健を守る母もいない。母の両親も、孫であると同時に娘を奪った鬼の子でもある健の扱いに迷い、遠ざけた。里人は自分の子らに健と遊ぶのを禁じた。鬼を嫌っていたのもあるが、何よりも、鬼の血を引く健がおそろしかったのだろう。遠巻きに向けられる里人や親族のそうした視線は、幼少期の健の心を傷つけ蝕んだ。成長するにつれ、健は徐々に山に籠もるようになり、やがて里に戻ることはすっかりなくなった。山犬や狼とは、山で暮らすうち自然に親しくなった。
……概ねそんなようなことを、健はぽつぽつと語った。
「狼らあは、よそもんには牙を剥くがの、一緒に暮らしているとなんにも怖いもんじゃねえのよ。……ひょっとすると、鬼の子にも人の子にもなれんかったけん、儂は実は犬の子だったのかもしれんがの」
健が冗談めかして笑ったので五十狭芹彦もつられかけたが、あまりうまく笑えなかった。
「お母は六人も鬼を産んだから、鬼たちには大事にされとるらしい。死んだとは聞かんから、まだこの上にいるんじゃろうな」
健は山頂に続く道に目を遣った。道の先は夜の闇の中へ消えている。
じっとりと冷たい汗が、五十狭芹彦の背中を濡らしていた。おそろしい、と思ったのは、鬼の所業に対してなのか、それとも里人の仕打ちに対してなのか。健を哀れむことは、壮絶な生を乗り越えてきた健に対する侮辱ではないのか。
「……なんじゃ、儂はあんたを泣かせてばかりじゃな」
振り向いた健は、五十狭芹彦の顔を見て苦笑した。健に言われてはじめて、五十狭芹彦は涙を流していることに気づいた。
「だって、鬼との子として生まれたのも、角が生えずに捨てられたのも、おまえのせいじゃあないのに」
まだ若い健の顔つきに宿る、子供の顔の面影がいたいけで愛おしい。そこには、愛されなかった幼い健がいまだに取り残されているようだ。
「……それで、おまえは母に会いに来たのか?」
健は首を横に振った。
「いいや。捨てた子が顔を出しても、お母も迷惑じゃろう」
健は笑った。その笑顔がどうしようもなく淋しくて、五十狭芹彦は思わず健の頭に腕を回して自分の肩に抱き寄せた。
「この世に生まれてきたのは、おまえのせいじゃあないのにねぇ……」
どこか己に言い聞かせるように、五十狭芹彦は繰り返した。
「おまえは鬼になど見えない。犬の子でもない。ちゃんと人の子だよ」
五十狭芹彦は、健の絡みあった髪の毛を梳くように、彼の頭を撫でた。
「お母に会いに来たんじゃねえ。儂はあんたが心配で着いてきたんじゃ。儂は……あんたが気になって仕方ねえ」
健は五十狭芹彦から身を離して向き合った。
「あんたはええ人じゃ。儂を鬼じゃねえと言ってくれた。儂はあんたを守りたい。あんたのためならどこへでも行く。あんたがこん鬼火の国にいる間だけでもいい、そばにいたいんじゃ。いけんか?」
健はそこまで早口で一気に言って、ちらりと五十狭芹彦を見上げた。
「いけんか?」
健がもう一度言った。
「いいよ。わたしは五十狭芹彦だ」
五十狭芹彦は微笑って言った。暗闇の中に花が咲いたような微笑みだった。
「イ……サ……セリ?」
「五十狭芹彦。よろしくな、健」
しかし、二人が翁と媼の家へと向かう途中に、更に思いがけない邂逅があった。
「誰か来よる」
健が身構える。と、木立の向こうに二つの影が現れた。
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