月下 1
「お前、あいつを女だと思ったのか」
その夜、冠者は瓢箪から直に酒をあおって大笑いした。安良媛が酌をしてやろうと言っても、面倒だ、そんな小さな椀でちびちび飲めるかと、いつも断られる。
冠者の棲み家は城の南東、鬼火の里と海を一望できる場所にあった。縁台代わりの大岩の上には酒肴が並び、大岩の左右に掲げた篝火が柔らかい早春の風に揺らめいている。
「うそ、男だったの?だってあの人、」
肌も髪も光るようで、顔立ちも、このあたりではちょっと見かけないほどの美形だった――と認めるのは癪に障り、安良媛は続く言葉を濁した。
「まあ、女にも見えるかもな……なんだ安良媛、妬いてるのか」
「冗談じゃないわよ」
安良媛は苛々と言い返した。妬いているというより、単純に悔しい。安良媛とて、決して粗末ななりをしてはいない。だが、たまに都から訪れる貴族や商人、西にある筑紫国の豊かな国造などと比較しても、あの旅人はかなりいい衣を着ていた。女の男装だと思ったのは、都ではそういう流行りがあるのかもしれないと思ったのだ。顔も衣も最新の流行も、どれもこれも負けている気がして、虚勢を張るには怒るしかなかった。だが、男なら話は別だ。安良媛は旅人の姿をあらためて思い返していた。確かに言われてみれば、敵を前にしたときの目つきの鋭さや、あの切れるような気迫は男のそれでしかないと思えてくる。どこか柔らかい都言葉を話すくせに、身のこなしには一切の媚びがなかった。剣を扱う様はまるで舞踊を見ているよう――むしろ、別の意味で気になってしまう。
「あの人、あたしに引っぱたかれたのに、玉爛に襲われてるあたしを助けてくれたんだわ」
「なんだ、今度は惚れたのか?女なら妬いて男なら惚れるとは、お前も忙しい奴だな」
冠者がにやにやとからかうので、安良媛はまた声を張り上げた。
「そんなわけないでしょっ!」
「はっはっは!可愛いやつだなぁ、安良媛」
冠者は明るく笑って、安良媛の腕を掴んで引き寄せ、口づけした。
「ちょっ、んん」
「安良媛、お前が他の男になびいたら、俺は妬くぞ」
冠者が安良媛の耳元で囁いたので、安良媛はようやく静かになった。
冠者は闇に包まれた山を見下ろした。玉爛は結局あの後、逃げおおせた。あのまま鬼火の国を出ていずこかへ消え去ったのか、あるいはまだ近くに潜んでいるのか、誰もわからなかった。
「玉爛もだが、あの旅人を山で襲った鬼がいる。俺はそっちのほうが気になるぜ。少なくとも俺の城の者じゃねえ」
***
五十狭芹彦は眠れぬ夜を過ごしていた。
海賊の襲撃から二日が経っていた。五十狭芹彦は鬼に襲われたあたりから麓にかけて道を辿ってみたが、稚武彦や護衛の武者らの行方を示すような手がかりは何も得られなかった。どころか、あの日に出た鬼の死体も、綺麗さっぱり消えていた。
獣に喰われたにしては、あまりに痕跡が残っていない。第一、あれだけの死体が食い尽くされるほど日も経っていない。
今回五十狭芹彦たちは、戦を仕掛ける前に対話の道を探りに来たのであって、西征軍の本体は都から鬼火に至る途中の針間まで兵を進め、そこに留まっていた。歩み寄りの余地がない場合、この軍を動かし一気に攻め寄せる手筈だった。
もし万一稚武彦が死にでもしていれば、五十狭芹彦がここに居続ける理由はない。稚武彦の死をもって成敗の口実とし、攻め取るまでである。だが生きているなら何故出会えないのか。誰かに囚われているのか、あるいは五十狭芹彦同様にどこぞへ身を寄せているのか。だとしたらどこにいるのか。鬼火の里にいるのなら、あの海賊騒ぎの折に見かけないわけはない。怪我でもして動けぬのか、あるいは――。
「土豪……このあたりの、有力な……?」
鬼火の里は完全に怨羅の勢力下のように見えた。もし怨羅に敵対する勢力があるとして、そこに身を寄せているとしたら、当然鬼火の里にはおいそれと現れないだろう。
もしくは誰かに囚われているならば、早急に見つけて助け出さねばならない。そして囚われているとしたら。
「――鬼ノ城か……」
五十狭芹彦は音もなく寝床から起き上がった。
――知らんな。疑うなら鬼ノ城まで来て、その眼で確かめるがいい――。
あの言葉を信じるのか?と自問する。
(鬼の言葉だぞ)
信じて裏切られれば滑稽極まりないし、信じずに正しければ信頼が失われる。
(……信頼?)
そんなものがあるのか?あの一言二言の会話だけで。
だが、冠者は確かに五十狭芹彦を信頼したのだ。大事な女を預けるほどには。それをこちらから裏切るのか。相手が鬼だから許されるのか。いや、むしろ鬼をこそ裏切ってしまっては、人としての品性が保てないのではないか。
五十狭芹彦は逡巡する。あの様子では鬼火の民は、いま五十狭芹彦と冠者が対立すれば、冠者につくだろう。その時、軽率な裏切りを口実にされたくはない。
考え込むうち、五十狭芹彦は外の空気が吸いたくなって家を出た。
見上げれば皓々と満月が輝いている。その月明かりを頼みに、五十狭芹彦はあてもなく山道を歩き出した。
「……ふふ。いたらいたで五月蝿いけれど、いないと心細いものだね。稚武、おまえはほんとに今頃どこでどうしているのやら」
つい独り言が口をついた。様々な事態を想定してはみたが、結局無事を願う気持ちが一番強い。
なんとなく里まで下りてみたものの、特に当てもない。折に触れて宴や神事が催され、警備の兵も見回っている都とは違い、夜は出歩く人影もなく真っ暗だ。ふと見上げると、黒黒と鬼ノ城がそびえていた。山の頂上近くにちろちろと明かりが見えるところを見ると、鬼たちはそのあたりにいるのだろう。
鬼ノ城の山すそをかすめるように帰路につきかけた、その時。
フーッ……
自分のものではない吐息を聞いた気がして、五十狭芹彦は歩みを止めた。
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