遭遇 4
沢に落ちた若者――五十狭芹彦が翁と媼の家で目を覚ましたのは、すっかり夜になってからのことだった。
そこは小さな家だった。小さな翁と媼が、炉を挟んで置物のように座っている。
「おや、気がついたかえ。桃の若子」
翁が言った。しわがれて聞き取りづらいが、どこか歌うような不思議な声だ。小さな頭巾は色が抜け垢が染み、元の色がわからない。
「桃……?」
五十狭芹彦は聞き返して、がばっと跳ね起きた。敵は、と反射的に身構えたが、翁は意に介する風もなく言った。
「桃の林におったそうじゃ。どこか痛むところはないか」
「……あの」
見覚えのない衣を着ていることに気付いて、がたがたと震えが襲ってきた。歯の根が合わず、それ以上に頭が混乱して、うまく言葉が出てこない。
「おやおや、もっと火に寄りんさい。川に落ちて冷え切っとるんじゃ」
媼が手招いた。促されるままに炉に近付いて、室内を見回す。炉の火に照らされた翁と媼の影が、やたらと大きく壁にうつり、明かりが届かない居室の隅には闇が蟠っている。
「あの、わたしの衣は……」
「濡れとったけん、乾かしよる」
媼が顎で指した先を見ると、確かに若草色の衣が吊ってあった。
「ええと……そうか、沢に落ちて」
蘇った記憶と空白の記憶に、頭が混乱している。事情をどう説明すべきか。それとも言わないほうがいいのか。
「粥を食うか」
媼が木の椀に注いだ粥を差し出した。
「おう、そうじゃ。食え、食え。身体も温まろう」
翁の歌うような声が重なる。
二人に勧められるまま、五十狭芹彦は軽く頭を下げて粥を受け取った。温かい粥を口に含むと、強張った身体が一気にほぐれていくようだった。だがまだ緊張は解けない。
(この身体を、見られたのだろうか)
それだけが頭の中をぐるぐると巡っている。だが怖くてとても聞けない。まずここはどこなのか。この翁と媼は何者なのか。尋ねたところでもしも敵ならば、でなくても何か思惑があるならば、正しい情報など返ってこないだろう。眠っている間に先刻の鬼どもに引き渡されるかもしれないし、二人にどこかへ売り飛ばされる可能性もある。自分の正体を明かすべきか、伏せておくべきか――。
そんな逡巡を読まれたのか、翁が言った。
「儂らはこの山に昔から住んどる、ただの翁と媼じゃ」
「歳も名も忘れたわい。ほほほ」
媼もまた歌うように合いの手を入れる。
「この山に?昔から?」
思わず聞き返していた。ではあの鬼のことを知っているか、と聞きかけた時、
「なんじゃ、山で鬼にでも遭ったかね」
と翁が言ったので、五十狭芹彦はどきりとした。
「……ああ」
五十狭芹彦は今日一日を思い返した。この小さな家のせいか、歌うように会話する翁と媼のせいか、山での出来事がやたらと遠く感じる。
「弟と、供の者たちが襲われた……あれはこの山に棲んでいるのか?」
「ほうほう」
「ほうほう」
翁と媼が歌うように相槌を打つ。それから、
「鬼なら怨羅じゃ。鬼ノ
と、翁が言った。
「怨羅……?」
「怨羅族は鬼の一族じゃ」
翁が火を掻きながら言った。
「そうじゃ。鬼の一族じゃ」
媼も粥を混ぜながら合いの手をいれる。この二人は、終始こんな調子で話す。
「鬼ノ城は鬼の棲家じゃ」
「鬼が……いるのか?本当に」
五十狭芹彦が聞き返すと、
「なんじゃ、お前さん、」
媼が粥を混ぜる手を止めた。
「見たんじゃろう?鬼を」
ずい、と顔を寄せてくる。深い皺の間に埋まっていた瞳が、炎を映して爛々と光っていた。
「……見……た」
どころか、殺した。この手で、何匹も。しかしそれを言っていいものか。
「あの鬼に、苦しめられているのか?この地の人々は」
五十狭芹彦は注意深く言葉を選んだ。「鬼を成敗せよ」と命を受けてここまで来たが、この西国は鬼の領分。鬼の手の者が人間に紛れていないとも限らないのだ。この二人が敵ではない保証はない。
だが、そんな疑念など馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、翁と媼は顔を見合わせて「ほっほっほ」と笑った。
「川を流されとったお前さんをここに運んできたのは、冠者じゃ」
「怨羅の親玉が、冠者じゃ」
何が可笑しいのか、翁と媼はにこにこと笑っている。
「えっ?」
頭が追いつかない。自分を助けたのが、――つまり鬼の親玉だということか。
「代わりに鹿を寄越した。ほっほっ」
「鹿の肉は美味いのう」
「ああ、美味いの。じゃがまだ春じゃけえ、ちいと痩せとろう」
「ああ、ちいと痩せとろうな」
翁と媼は、もはや鬼よりも鹿で頭がいっぱいのようだった。
「お前さん、怪我がないなら、明日鹿を捌くけえ、手伝え」
「そうじゃ、そうじゃ、それがええ」
「わかった。そうさせていただこう」
思い悩んでも、夜が明けるまでは何もできない。五十狭芹彦は腹を括って、ごろりと横になった。
翁も媼も、それ以上何も訊いてこなかった。
だから五十狭芹彦も、自分がどこの誰なのか話す必要がなかったのである。
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