海賊 1

 結局、沢に落ちた翌日に五十狭芹彦は熱を出して丸一日寝込んでいた。鹿の解体は手伝えなかったが、晩には鹿汁が出た。

 二日目は家の周りを散策した。家は山の中の一軒家で、他に人家は見当たらなかった。家から見下ろせる場所に川が流れていて、自分が落ちた沢は恐らくこの川の上流なのだろう。少し川上へと歩いてみたが、桃の林とやらにはたどり着けなかった。

 あまり山へ踏み込んで戻れなくなったら困る。まだ日は高かったが翁の家へ戻りかけたときだった。

 いつからそこにいたのか、行く手に一匹の狼がいた。道を塞ぐように立ち、こちらを見据えている。

(しまった)

 迂闊だった。なぜ狼や鬼に出会う可能性を考えなかったのか。持っていた剣も弓矢も滑落の際に失ってしまっていた。緊張を保ったままそっと周囲を見回したが、武器になりそうなものは見つからない。そして不思議なことに、狼がこちらを攻撃する様子もなかった。と、狼のすぐそばの藪の中から、若い男が現れた。

「良かった。あんた、元気になったんじゃな」

「おまえは!」

 五十狭芹彦はその男に見覚えがあった。赤茶けた髪の、獣の皮を着た男。

 気づけばその男に駆け寄っていた。

「おまえこそ……よかった……!」

 両手で男の身体に触れ、無事を確認する。

「もしや、斬り殺してしまったかと」

 安堵感から脱力し、男の両の手首を握りしめたままその場にへたりと座り込む。それまで張り詰めていたいろいろなものが溢れ、頬を伝った。

「おかしなことを言う。あんたは何人もの鬼を斬ったじゃろうに」

 男は五十狭芹彦の前にしゃがみこんだ。

「おまえは鬼ではないから」

「あんた、ええ奴じゃのう」

 男は五十狭芹彦の頬を撫で、涙を拭った。

「そんなことはないよ。そうだ、おまえの名は?その狼は、おまえのなの?」

「儂は狼遣いのタケルじゃ。そいつはミツメ。悪く思うなよ、あのときゃあこいつ、血の匂いに興奮していたけん」

 五十狭芹彦は首を振った。

「いいや。わたしこそ悪かった。わたしの方こそ」

 鬼の血に、興奮して我を忘れた――。

 五十狭芹彦は青ざめた。そんなことがあっていいはずがない。己の中にそんな獣のような本性が潜んでいるなど、そんなことは許されないのだ。

「……気が立っていた。許せ、健」

「気にするな。お互い無事じゃったんやし」

 健はニッと口の端を上げて笑んだ。

「許せよ、ミツメ」

 ミツメにも声を掛けると、ミツメはグルル……と喉を鳴らし、湿った鼻先を五十狭芹彦に押し付けた。

「ああ、そうだ」

 健が思い立ったように立ち上がったので、つられて五十狭芹彦も立ち上がる。健は背に差していた一振りの剣を差し出して言った。

「ほら、あんたの剣じゃろう。あの後拾っておいたけん」

「……いや。これは鬼の剣だ」

 それは二日前にミツメと健を斬りかけて放り投げた、あの剣だった。


   ***


 翁と媼の家に身を寄せて三日。五十狭芹彦はようやく山を下り、里に出る機会を得た。翁が「里へ鹿を売りに行く」というので、荷物持ちで同行させてもらうことにしたのだ。もし稚武らが無事に里へ下りていれば合流できる。

 里に着いたのはひる頃だった。

 そこは大層明るい里だった。よく晴れているせいもあるが、南に開けた地形は北部の山々の色を一層明るく照らし、南の海を輝かせていた。何より、人々の顔に、声に、活気がある。行き交う人の数も、都とまではいかずとも、道中見てきたどの里よりも多いように思えた。往来には運搬や商売をする者はもちろんのこと、特に用がある様子もなくただ楽しげに会話している者も多い。

 里の中心部らしい大路には、市が立っていた。翁は肉を売り歩くのではなく、市の片隅にむしろを引いて露店を出した。見れば、大路沿いに様々な露店が並んでいる。

「好きに見てきていいぞう、桃の若子」

 翁がそう言うので、五十狭芹彦はぶらぶらと通りを眺めて歩いた。

 よそ者が珍しいのか、ちらちらと視線を投げられる。里の市といっても、顔なじみばかりなのだろう。居心地の悪さをつとめて気にしないように、露店の商品を見て回った。穀物や野菜、魚などの食物が多いが、異国(とつくに)の珍しい工芸品や、盾・弓の類もあった。特に大型の弩(いしゆみ)は、五十狭芹彦も存在を知ってはいたが初めて目にする代物だった。

「これは、随分と立派な」

 ある店で、五十狭芹彦は感嘆の声を上げた。並んでいたのは鉄(くろがね)の道具類。農具から鏃、剣まで幅広く揃っている。そのどれもが、歪みのない美しい形をしていた。

「おや、きれいな兄さん、お目が高いね!旅の人かい?」

「ああ。まあそんなところだよ」

 店の者に声をかけられ、五十狭芹彦は曖昧に答えた。

「こりゃあ鬼ノ城の一級品じゃ、ちいと値は張るがモノは保証するよ!」

「いい剣だな……」

 五十狭芹彦は一振りの剣を手に取った。

(間違いない、鬼の剣と同じだ)

 覗き込んだ自分を映す、美しい刀身。

「ここは鬼火の里じゃけんな」

 店の男が言った。

「鬼火の里?このあたりの地名か?」

「ああ。このあたりじゃあ昔っから鬼が棲むけえね。誰が呼んだか、鬼火の国。この里は鬼火の国の玄関口じゃけえ、鬼火の里さぁ」

「鬼は……人を取って食うんじゃないのか。夜な夜な女子供を攫って、手足を引きちぎり」

 五十狭芹彦が言い終わる前に、どっと笑い声が起きる。通りすがりに話を聞いていた人々が口々に言った。

「怨羅の鬼はそんなことはせんよ」

「それどころか、家を建てるときは必ず怨羅の鬼に手伝いを頼むしねえ」

「旅の兄さん。鬼ノ城の鬼たちが、この鉄を作っとる。この鉄を作る鬼の火こそが、この地の宝じゃ。ここは鬼火の里じゃ!」

 店の男も自慢げに言う。

「うちの鍬も鎌も、鬼ノ城のじゃ」

「うちもじゃ。おかげで野良仕事がだいぶ楽になったけん、鬼さまさまじゃあ」

 五十狭芹彦は呆気にとられた。

(この里の者たちは、鬼を恐れていないのか)

 はて、自分は鬼退治に来たのではなかったか。西国の人々を苦しめる悪鬼を成敗に。

(はるばるみやこを離れて旅して来て、稚武おとうととはぐれ、弓も失い、成敗すべき鬼は里の民と仲良し……)

 くらりと目眩がした。

「本当にもう、都に帰ろうかな……」

 民に慕われている鬼なら殊更に構わなくていいではないか。先日の賊だとて、単に旅の一行を襲った追い剥ぎの類かもしれない。そんな輩は人間にもいるし、どこの山にもいる。うんざりとそんなことを考えていると、五十狭芹彦の耳に聞き覚えのある名が飛び込んできた。

「どれもこれも、冠者のおかげじゃのう!」

 冠者。あの山の中の桃の林とやらで、自分を助けたという鬼。

「その冠者はどこにいる?」

 思わず語気が強くなる。

「さっき向こうで見たぞ」

 その男の指さした先を見ると、まさに道の先からこちらへ向かって歩いてくる一人に目が引き付けられた。

 ひと目でわかった。

 彼が「冠者」だ、と。

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