遭遇 3

 さっきから山が騒がしい。

 久しぶりに狩りに出て、山鳥を六羽、鹿を二頭仕留めたところで矢が尽きた。

 春の獣はどこか浮足立っている。冬の寒さにじっと耐えていた動物たちが、暖かい日差しを求めて動き出す季節。山中を跳ねる動きも、なんとなく楽しげに見える。

 仕留めた鹿を川に晒していると、山の上から一陣の風が吹き下ろしてきて長い金色の髪を巻き上げていった。風の中に混じる、仕留めた鹿のそれとは明らかに異なる鉄錆の匂い。

「……一人や二人じゃねえな、こりゃあ」

 見上げれば、ざわざわと山の木々が騒いでいる。楽しげな空気は一変し、梢から鳥たちが群れで飛び立っていく。

 鹿を川の中に残し、流れに沿って上流へと登る。

 その金の髪の鬼は、冠者と呼ばれていた。額に戴いた金の冠がその由来である。

 いくらも行かないうちに、冠者は足を止めた。

 川岸に見事な桃が咲いていた。一本や二本ではない。一帯を薄紅色に染め、満開の桃が咲き誇っている。

「これは……なんと」

 幻想的な光景に目を奪われる。この地に棲み着いて十年余りになるが、この季節にこの山に入ったのは初めてだった。

 薄紅色を映した流れの岸に、人がしがみついていた。その傍らには狼が二匹。

 冠者が近づくと、狼はグルル……と唸って牙を剥き、まるでそこに倒れている人物を守るかのように前に出た。

「そいつはお前たちの主人か?手を貸してやるから、通してくれよ」

 冠者が狼と目を合わせて言うと、狼はすいっと道を開けた。

「いい子だ」

 そこは流れがいくぶん緩やかではあったが、それなりに深さがあるようだった。

 左腕で岸にしがみついた男は、右腕にもう一人抱えていた。

「掴まれ」

 冠者は二人を陸地に引っ張り上げた。男の方はかろうじて意識があったが、もう一人は死体のようにぐったりと地面に横たわっている。

〈助けて……くれ……そいつ、儂をかばって〉

 肩で息をしながら男が言った。まだ若い声だ、と冠者は思った。恐らく十六、七か、そのくらいだろう。獣の皮を着ているところを見れば、おそらく山に暮らす者か。里の者ならこの季節は麻や楮を着る。赤茶けた髪は伸ばしっぱなしなのだろう、濡れていることを差し引いても、手がつけられないほど絡まり合っている。

「わかった。無理に喋るな」

 冠者は意識のない方の若者の息を確認した。顔にかかった髪を払うと、端正な顔立ちが現れた。血管が透き通るほど白い頬に、長い睫毛が落ちている。

(まるで女のようだ)

と思ったのは、女ではないと直感したからだ。胸に耳を押し当て、心臓の音を聞く。青く血の気の失せた唇に自らの唇を重ねて何度か息を吹き込むと、

「がふっ!」

と咳き込んで、若者は水を吐き出した。

「おお、良かった。怪我はないか?」

 冠者は尋ねたが、若者はそのまま昏倒した。

 見たところ大きな出血はない。沢の深いところを流れてきたのか、長い髪も衣もぐっしょりと濡れていた。春とはいえ、山の水はまだ冷たい。若者の身体は冷え切っていた。

「良かったな、とりあえず息は吹返したようだ。こいつは知り合いか?」

 冠者が問うと、男は首を横に振った。確かに、よく見ると二人は身なりが全く違っていた。眠っている若者の衣は上質な絹や麻が贅沢に使われ、仕立てもいい。長い黒髪は手入れが行き届き、水鳥の羽根のように滑べらかだ。

 先程の狼が、力尽きて座り込んだ男の傍らにすり寄っていく。

「ほう。お前はこの山の狼遣いか」

 冠者の問いに男は「ああ」と頷くと、狼の首を撫でた。

「賢い狼だな。名はあるのか?」

「……こっちが、ミツメ……そいつがホムラ」

「ああ、なるほどね」

 見れば、ミツメという狼の額の中央には黒い斑点があった。ホムラの方は背にふさふさとした一条の赤毛が生えている。

「とにかく、こいつを温めてやらんとな。お前も来るか?」

 冠者は若者を背負い上げた。

(やはり女ではないな)

 女にしては背が高い。女性特有の、全身をふっくらと覆う柔らかい脂肪がなく、代わりに靭やかな筋肉を感じる。だがこのときの冠者にしてみれば、正直なところこの若者が男でも女でもどっちでも良かった。ともかくも命が助かって、そして。

(瞳を、見てみたいものだな)

 男でも女でも、どっちでもいいが、この長い睫毛に縁取られた瞳を見てみたい。それはどこか、胸の疼くような欲求だった。

 川沿いを下りていくと、一人の老婆が川で衣を洗っていた。冠者をみとめて屈んでいた体を起こし、腰に手を当てて伸ばす。それまで無言で着いてきていた狼遣いが、ふいっと姿を隠した。

「おお、冠者。久しいの」

おうな、すまんがこいつを休ませてくれないか」

「ほっほ、これはこれは、可愛らしい若子わこじゃ」

 歯のない口で媼は笑い、すぐ近くの家へと促した。

「沢で拾った。桃の林のあるあたりだ。すまんが着替えを頼む」

「桃の林、とな。ほうほう……」

 媼は何事か呟きながら、着替えを取りに奥へ向かった。

おきな

 冠者が呼ぶと、奥の暗がりから老爺の声が応えた。

「ほうい」

「狩った鹿を血抜きしている。あとで持って来るから」

「おうい」

 翁は炉に焚付をくべて火を大きくした。媼はこちらに背を向けて若者を着替えさせている。翁と媼、二人きりの家は、炉を中心とした一室で完結している。一体いつからここに住んでいるのか、いつ来ても時間が止まったような家だった。土間の上には粗末ながらも板が敷かれ、これならば若者の長い髪もよく乾くだろう。

「桃の林を、見たのかえ、冠者よ」

 背を向けたまま、思いついたように媼が言った。

「ああ、花の盛りだったぞ」


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