遭遇 2
遡ること一刻ほど。
「まったく、厄介払いに事欠いて鬼退治とはね。……ふふっ」
恨み言のつもりが、どうしても苦笑してしまう。下草が踏み潰されて、辛うじてそれとわかる細い道。気を抜くと深い藪に覆われた崖下へ転がり落ちそうだ。初めて訪れる西国の山中は、頗る歩きにくかった。
「鬼、出てくるかなあ」
すぐ前を行く弟が、木漏れ日がちらちらと踊る梢を楽しげに見上げた。
「こんな山道で出てこられたら困るよ」
「おや兄上、まさか、本当に鬼がいるとでも?」
「……どうだろうね」
「まったく、兄上は王の位など望んでいないと再三申し上げているのに、西国の悪鬼などと迷信めいたものをでっちあげてまで都から遠ざけようとなさるとは」
「我らが甥御殿は余程用心深い質なのだろうよ」
この兄弟、兄は名を五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、弟は稚武彦命(わかたけひこのみこと)といった。
即位して間もない大王(おおきみ)は、この年、王族の有力男子を次々と周辺国の平定に派遣した。叔父を北の陸道(くぬがのみち)へ、従兄弟を東の海道(うみつみち)へ、甥をすぐ隣の丹波へ、先々帝の兄弟である五十狭芹彦とその弟の稚武彦を西国へ、といった具合。
「悪鬼すなわち、朝廷にまつろわぬこの地の土豪どものこと。西国道を通る朝貢品がたびたび盗賊に遭っているのは事実だからね。これらの不届き者を成敗し土豪どもを取り込んで、拡大した領土を大王の血族に治めさせる……治めさせてやるから、ゆめゆめ王位を簒奪しようなどと考えるなよ……とまあ、理には適っている」
ありもしない叛意を恐れる者共の心にこそ、鬼が巣くっているだろうに――と五十狭芹彦は言いかけて、さすがにやめた。
「あらあら。兄上も言いますねぇ」
稚武彦が兄を振り返り、にやりと笑う。
「まあ、大王にしてみれば厄介でしょうね。書も剣も弓も、なんならお顔も、兄上の右に出る者はいませんから」
「世辞を言っても何も出ないよ。第一、剣は稚武、おまえのほうが巧いでしょう……ああ」
五十狭芹彦は溜息をついた。
「どうしました?」
「いや、なんでもないよ。ちょっと考え事をね」
単調な道行きでは、会話の内容と全く違うことを考えていることが、たまにある。表に出すつもりなどなかったのに、つい声が漏れてしまった。都から遠ざかるにつれ、物思いにふけることが多くなったように思う。原因は自分でもわかっていた。都に残してきた心配事が、都から離れれば離れるほど大きくなるのだ。だがそれを口にしたとて何になろうか。言われたほうとて、どうすることもできないというのに。
「わかった。姉上のことでしょう?」
稚武彦が兄の顔を覗き込んだ。
「おまえ、いつから心が読めるようになったの?」
五十狭芹彦は苦笑した。弟は昔からこういう機微に敏い。
「このところ暖かくなってきたし、薄物を何枚か贈っておくべきだったな、とね」
正直薄物などどうでもよかった。たとえ大王に疎まれても、今回の西国行きを固辞すればよかった、と、いまだに思ってしまう。それほど五十狭芹彦は姉のそばを離れたくなかった。しかしこんなことを赤裸々に弟に言うわけにもいかない。今更繰り言を並べてもどうしようもないことなど、自分が一番わかっているのだ。
「姉上がご心配なんですね。確かに、最近の大王は姉上を働かせすぎですしねえ。雨が降っても災厄、日が照っても災厄じゃあ、祈る方もたまったものじゃないですよ」
二人の姉は、国一番の霊力を持つとされる巫女だった。大王は即位してから立て続けに起きている天災や疫病を問題視していた。五十狭芹彦らを周辺国に送ったのも、王朝の権力を見せつけて人心の離れるのを防ごうという思惑だ。
「結局のところ、権力を誇示するのに利用されているだけなのだよ。ああもう、いっそ全部放りだして帰りたい……」
心の声が、つい口に出た。
「ご心配なさらずとも、兄上ならすぐに戦に勝って都へ帰れますよ」
「まだ戦と決まったわけではないよ。まずこのあたりの土豪らと話し合いの場を持ってだね……」
「おや、やっぱり兄上だって鬼なんて信じていないじゃないですか。鬼は人。我々の相手は結局のところ西国の土豪たち……人間の」
「――いや――、」
ふと、風がやんだ。山の匂いに混じる、なにか異質なものの臭い。気配。
「いる。もうそこに」
兄が言い終わる前に、稚武彦は察知して剣の柄に手をかけていた。
兄弟の前方に数十名、後方にも同じだけ護衛がいる。いずれも都から連れてきた手練れの武者だ。場所は山の一本道。前からの攻撃にも後ろからの攻撃にも、対応できる――はずだった。が、山の斜面を突っ切って来られれば護衛の意味はない。襲撃に備え、兄弟は背中合わせに剣を構えた。
「上だ」
五十狭芹彦が短く言った。
稚武彦がはっと見上げたのと、樹上に潜んでいた賊が飛び降りてきたのがほぼ同時。
落下の勢いごと振り下ろされた剣を、稚武彦が受け止める。ぎぃん――と鈍い音が森に響いた。
「くっ!」
手の痺れに耐えて、稚武彦は一撃目を撥ね返した。間髪入れずに五十狭芹彦が、敵の背中から切り下ろす。
「ギャアアア!」
耳が破れるような断末魔が木々の間にこだました。
瞬く間に敵味方入り乱れた乱戦となる。道はとっくに逸れ、もう降りているのか登っているのかもわからない。
供の者らは無事だろうかと振り返ると、すぐ鼻先に黒光りした顔があった。円く剥いた眼(まなこ)が、ぎんとこちらを見据えている。額の左右は隆起していびつに天へと伸び、まさに角。五十狭芹彦はさすがに息を呑んだが、相手が手にした斧を振りあげるのを待つつもりはなかった。筋肉の盛り上がった頸を剣で真横に薙ぎ払う。ぴったりと背後についていた稚武彦が、
「鬼、いましたねぇ」
と、血飛沫を噴き上げて倒れた異形を嬉しそうに指差す。
「何を呑気な」
五十狭芹彦は呆れたが、同時に安堵もした。稚武彦は都でも有数の使い手なのだ。見た目は背ばかり伸びて厚みを感じない体つきだが、薄藍の衣の下はしっかりと筋肉がついていることを五十狭芹彦は知っている。この余裕なら、これしきの敵は問題ないだろう。
しかし異形の者どもは執拗に襲ってきた。幾人もの――いや、何匹ものというべきか、複数の気配が藪を掻き分け、頭上の枝を揺らす。
「山中ではいささか不利だな」
五十狭芹彦はぼそりと呟いた。
「きりがない。稚武、散るよ。麓の村で合流する」
頷いた稚武彦は、ぴぃーっと呼子を吹いた。散開の合図だが、既に護衛の数は見たところ半減していた。
五十狭芹彦は単身山道を駆けながら、追ってきた鬼を弓で一匹、また一匹と射落としていったが、あと二匹というところで矢が尽きた。剣を抜き、一匹を仕留め、最後の鬼の腹を刺し貫いたところで手足に力が全く入らなくなった。剣の腕には自信があったが、鬼を相手にしたのは初めてだった。鬼の繰り出す一撃一撃が重く、頑丈な身体を斬るのは思いのほか力が要った。木に寄り掛かるように座り込み、傍らに倒れ伏し絶命した鬼を見遣る。鬼の形相、とはよく言ったもので、その死に顔は壮絶そのものだった。漆黒の顔は醜悪に歪み、血走った目玉は今にも飛び出しそうなほど見開いて、上下の牙が乱杭に生えた口からは血泡が溢れている。身に纏った獣の皮は腹の傷口からはみ出した血と臓物で汚れ、嗅覚がおかしくなりそうなほどの臭気を放っている。
「ああもう……都に帰りたい……」
嫌悪に顔を歪めながら、疲労で重だるい腕を伸ばして鬼の手に握られていた剣を拾い上げた。
「いい剣だな」
何匹もの鬼を斬った五十狭芹彦の剣は激しく傷んでいた。それに比べて鬼の剣は刃こぼれ一つなく、刀身に顔が映るほど澄んでいた。
しばらく鬼の剣を眺めていたが、ふと我に返ると日が傾きかけていた。山の夜は早い。とりあえず道へ出ようと、座り込みたい気持ちを叱咤して斜面を登った。
いくらも行かないうちに、がさっ、と、遠くの茂みが動いた。鬼の残党か、と反射的に身構えたが、次いでグルルルル……と唸り声がした。
「狼!」
ちらりと背後を窺うと、斜面のはるか下に先程の鬼の亡骸が見えた。鬼の剣を奪わなかったことが悔やまれた。
(あそこまで駆け下りるか、それともこのなまくらで追い払えるか)
逡巡しているひまはなかった。狼に背を向け、斜面をなかば滑るように駆け下りる。背後を獣が追ってくる気配が、徐々に近付いてくる。
落ちていた剣を拾い上げ、振り向きざまに剣を振った。
「……えっ?」
背後から今まさに飛びかかってきた狼に、更に横から何者かが飛びかかった。
人間だ、と五十狭芹彦の脳が認識した時、既に剣は遠心力を伴って、その軌跡の先で相手の首を両断しようとしていた。
「ああアッ!」
五十狭芹彦は咄嗟に剣を手放した。剣がそのまま前方へ飛んでいくのを確認し、反動で一歩下がったその右足が、藪に隠れた空(くう)を踏んだ。
しまった、と思った時には、藪の中を転がり落ちていた。いくらも落ちないうちにぽんっと空中に投げ出され、頭部をかばって身体を丸める。崖だったら死ぬ――と覚悟した時、背中からざぶんと水に落ちた。
そういえばさっきから、沢のせせらぎが聞こえていた。
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