一章 鬼退治
遭遇 1
吉備津彦命大明神は第七代孝霊天皇第三皇子にして
秋津洲に並び無き明神也
異国君主数千の兵もって起ち日国へ向ふ
君主鬼神に語りていはく、同国賀陽郡の高山に登り
石畳を集め城郭築きて西国を治めよと
衆人悩みて王位傾く
智略を廻らし官軍を遣はすも、軍兵多く死す
公卿大臣奏聞す、一宮吉備津彦命へ怨敵誅戮すべく宣旨給へと
―――金山寺古文書
備中吉備津宮勧進帳
***
その獲物は、見た目に反して手強かったのだ。
(こいつはおれの手柄だ)
そう思い定め、鬼は若武者を追った。
この山のことなら、自分には庭のようなものだ。案の定、都からやってきた旅の一行は、見るからに山道に慣れていなかった。これなら早々に獲物を捕らえられるだろう。今回の「仕事」は楽勝だ――と、高をくくっていた。
一行が山の中腹を過ぎるのを待って、仲間の鬼たちと共に急襲した。細い山道に沿って長く伸びた列は、見る間に散り散りになった。
列の中程にいた若武者が、今回の獲物だとすぐに分かった。前後を固めた武者共は恐らく護衛だろう。彼らは仲間の鬼に任せよう、見るからに厳めしい風体の武者を相手にするのは利口ではない……と、件の鬼は考えた。獲物と見定めた若武者は、護衛に比べて明らかに華奢で、軽装だった。女の髪のように手入れされた長い髪に、陽に焼けていない白い肌。目の覚めるような若草色に染められた衣には、手の込んだ刺繍が施されている。到底腕っぷしが強いようには見えない。
乱戦の合間を縫って近付いてみると、似たような若武者が二人いることがわかった。
(そうか、兄弟だと言っていたな)
鬼は事前に言い含められていた情報を思い出した。その兄弟を捕らえれば、手柄だ。鬼は木々の間から様子を伺った。兄弟は見た目の印象以上に腕が立つようだ。二人ぴったりとくっついて、襲いかかる鬼たちを次々と斬りつけては、崖下へ転げ落としていく。だがそれも時間の問題だった。数で勝る鬼の軍勢に、とうとう兄弟が離れた。
兄弟は二手に分かれ、それぞれ手薄な方角へと駆け下りていく。
(阿呆が。勝手を知らぬ山で、あまつさえ道を逸れて下るとは)
鬼は心中で嘲笑し、小柄な方を追った。仲間の鬼も何人か、同じ獲物を追っている。だが獲物は弓の名手らしく、追い立てる鬼を振り向きざまに次々と射落としていく。
(強い)
鬼は慎重に待った。とうとう矢が尽き、獲物は剣を抜いた。まだ追っている鬼は自分を入れて二人。前を行く一人が斬られ、獲物は更に逃げる。さすがに疲れてきたのか、山道を駆ける足取りも徐々に鈍っているようだ。と、獲物の長い艷やかな髪が、木の枝に引っかかった。
「あっ」
がくん、と体勢を崩し、獲物は膝から地面に沈んだ。「今だ」と飛びかかる。なんとなく、女のような声だな、と鬼は思った。
「……っく!」
地面に倒れながらも、獲物は剣を振り回した。
〈おっと〉
鬼は剣先を避け、間合いを測った。
ちらりと周囲を窺うと、もう仲間の鬼は一人も残っていなかった。獲物の若武者の仲間もいない。長閑な鳥のさえずりや沢の水音が聞こえるほど、あたりは静かだった。
「鬼……貴様、どこから湧いてきた」
若武者が鬼に剣先を向けたまま言った。雪のように白い頬が、土と返り血で汚れている。
問いに答えるつもりなどなかった。だが、相手は重ねて訊いてきた。
「貴様……本当に鬼か?」
一体、何を言い出すのだ?と、鬼は思った。
鬼と呼ばれ、鬼として生きてきた。
それ以外の何者でもない。別の生き方など、考えたこともなかった。
「オレハ、オニ ダ。オレハ、」
そのとき、ふいに頭の中にひとつの疑問が浮かんだ。
鬼とはなんだ?
「そうか」
若武者が言った。女のような、しかし女にしては硬質な声だった。
その声を、もっと聞きたい、と思った。こちらがもっと何か喋れば答えるだろうか。はて、では何を喋ろうか――。
頭を巡らせている鬼の腹を、深々と剣が貫いた。
「許せよ。わたしはこの地に、鬼退治に来たのだ」
若武者の顔がすぐ目の前にあった。長い睫毛の一本さえも数えられるほど近い。漆黒の瞳に映る、円く歪んだ自分が見えた。その牙の間から、血が溢れた。
(許せよ、か)
その声で言われては、許すほかないではないか。と、永遠の暗黒に引きずり込まれながら鬼は思った。
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