第2話

「おにいさん、なんていうの?」


 そう聞かれたのは、森の中へと足を踏みいれてすぐのこと。


 森の中は影に覆われていて暗かった。肌寒さはより強くなって、どこからか悲鳴のような鳥の鳴き声がする。木々は不規則に揺れ、ダンスでもしているみたいだ。


 だから、愛美あいみちゃんからの質問はありがたかった。……まわりのことを意識せずにすみそうだ。


香焼こうやぎミツル」


 私は胸ポケットから名刺を取り出して、愛美ちゃんに渡す。


「探偵さんなの?」


「有名ってわけじゃないけどね」


 いや、有名ではあるのかもしれないけど、どっちかというと悪評だ。


「でもでも、明智小五郎とか金田一耕助とか帆村荘六と同じだよっ。それってすごくかっこいい」


「よく知ってるね」


 愛美ちゃんが言ったのは全部探偵の名前だ。フィクションの、という言葉がつくけれど。


「おかあさんが推理小説好きなんだっ」


 それにしたって、情操じょうそう教育には悪そうなものばかりだ。「少年探偵団シリーズ」ってわけでもなさそうだし。


 さっき見た、真っ赤な空は血と肉でできてるみたいだと思ったけれど、その通りだったりして――。


「どうしたの?」


「……なんでも。というか愛美ちゃんは何年生?」


「今年で小学三年生っ」


 エッヘンと胸をそらす愛美ちゃん。

 

 愛美ちゃんのおかあさんは、小三の女の子に「魔術師」とか「八つ墓村」とか「振動魔」とかを読ませたんだろうか……。


 グロテスクな小説を読んだにしては、愛美ちゃんは純粋無垢の権化ごんげのよう。ニコニコ笑顔は、どんなケンカもただちに止めてしまえそうなほどまぶしい。


「学校までたいへんなんだけど、山にいないとなんだって」


「ふうん」


 山にいなければいけない理由か。先祖代々受けつがれてきた土地を守るためなのかもしれない。あるいは別の理由があるとか――。


 ってなにを考えてるんだ。そんな場合じゃない。


 木々は細くて頼りない。見た感じシラカバに似ているけれど、この暗がりではよくわからなかった。


「歩きだしたら楽しそうだよねっ」


 私は、木々がひとりでに立ち上がり、月夜をバックにマイムマイムを踊っている姿を想像してしまった。


 愛美ちゃんはキャッキャと喜んでるけれど、私からすれば悪夢だ。


「まだ続くの……」


「あとちょっとだよ」


 愛美ちゃんの言うとおり、視界が開けてくる。


 そこは広場みたいな場所だった。


 見上げれば、のっぺりとした黒い空に、不気味なほど大きな月がぽかんと浮かんでいる。星々は恐れをなしたみたいに見えない。


 夜だ。


「急がないとおとうさんに怒られちゃう……」


 愛美ちゃんがあわてたように駆けだした。引っ張られるようにして、私も走りだすことになる。


 その小さな肩は、震えているように見えた。


 夜の闇に、ではない。それよりもずっと強大な、父親という存在におびえているように。


 走っていると、空気が変わる。


 ねっとりとして、まとわりついてくるかのような空気。


 それに、ひどい臭いがした。


 肉が腐ったような悪臭が、前からやってくる。


 不意に、愛美ちゃんが立ち止まる。


「えっとね、沼なんだけど、落ちたらあぶないんだって」


「底なし沼ってこと?」


「たぶん? おかあさんは走らないでって言ってたよ」


 すぐに、月光に照らされた沼が見えた。吹く風によってさざ波ができるたび、水面に浮かんだ球体が揺れている。


 沼の中央には丸太でできた粗末そまつな橋があった。


「あれを渡るの」


「うんっ」


 思わず、ため息をついてしまった。


 橋はさざ波のせいでれていた。すべって痛いで済めばいいけど、最悪底なし沼へ落ちる。


 それに、私は水が好きじゃない。船旅はしないようにしてるし、海水浴なんてもってのほか、プールさえも行ったことない。


 どうしたものかと考えていたら、


 2つの目がウルウルと私を見上げていた。琥珀こはくのような瞳を見てると、水への恐怖が薄らいでいく。


「暗くなってきたし……わかったよ」


 やった、と愛美ちゃんが飛び跳ねる。笑顔を見られるんだったら、無理するのも悪くはない。


「おにいさん、手をつないだままでもだいじょうぶ……?」


「いいよ」


 つないだままの手が、ますます強く握りしめられる。


 愛美ちゃんはかすかに震えていた。まわりは闇におおわれている。いい年した私が怖いんだから、こどもにはもっと恐ろしいに違いない。


 握りかえしてあげると、弱々しいながらも笑みが返ってきた。


 愛美ちゃんのちいさな足が丸太に乗る。そのあとに私も続く。


 スーツには合わないスニーカーを履いてきてよかった。丸太はしっかり固定されていて動かないけど、苔むしていて油断するとツルリといってしまいそうだ。


 愛美ちゃんはゆっくりゆっくり進んでいく。


 私は丸太を睨みつけるように歩いていた。マジで水が嫌いなんだ。落ちるところなんか想像したくない。でも、勝手に脳みそが想像する。


 滑ったら――底なし沼に落ちたら、私も愛美ちゃんも死ぬ。


 踏み外さないように、慎重に。


「あっ――」


 小さく短い悲鳴。


 先を歩いていたちいさな背中が倒れてくる。


 その体を受け止めれば、愛美ちゃんは今にも泣きだしそうな目をしていた。


「おにいさんがいなかったら、わたし……っ」


 底なし沼に落ちて死んでいたかもしれない。


 私は愛美ちゃんの頭を撫でる。その恐怖は痛いほどわかったから。






「もう、だいじょうぶです」


 そう愛美あいみちゃんがかすれた声で言う。


 十分くらいは丸太の橋の上で頭をでつづけただろうか。私の腕からすり抜けた少女は、真っ赤になった顔でぎこちなく笑った。


「ホント? どこかケガとか」


「おにいさんが受けとめてくれたから……」


 甘い声が私の耳を打つ。愛美ちゃんの目は熱を帯びていた。見ているこっちが熱くなってしまいそうなほどに。


 ……困ったな。


 私は逃げるように視線をさまよわせる。


 と。


 見るまいとしていた水面を見てしまった。


 そこには無数の物体がプカプカ浮かんでいる。


 ゴルフボール大の球体の後ろには、金魚のヒレのようなものがくっついていて。


「は……?」


 思わず声が出た。


 


 たゆたうそれは枯葉でも果実でもなく、目玉。


 人の顔から引っこ抜いたみたいな綺麗な目は、視神経をよどんだ水に揺らめかせている。


「ね、ねえ」


「どうしたの?」


「どうしたもなにも――」


 そこまで言ってから、私はどう話したものか悩んだ。


 あんなグロテスクなものを見せてもいいんだろうか。


 愛美ちゃんは、キラキラと夢見る少女みたいに目を輝かせて、私を見ていた。


 浮かぶ眼球なんかそもそも存在していないみたいに。


「怖がらないで聞いてほしいんだけど」


「おにいさんのこと、怖がったりしないよ」


「そうじゃなくて。あそこにさ、ぷかぷか浮かんでるものがあるよね。それが何か教えてくれないかなあって」


 私はエメラルドグリーンの虹彩こうさいをした眼球を指さす。


 愛美ちゃんは不思議そうな顔をする。


「なにって目玉だよ?」


 さも当然のことのように、返事がやってきた。


 私は愛美ちゃんの顔をのぞきこむ。嘘をついているようには見えない。


「えと。おにいさん、顔近いよ……」


「あ、ごめん」


「ううん。……もっと近くてもいいよ」


 何がいいのかわからない。


 どうして、平然としてるんだ。


 ぷかぷか浮かんでるのはボールでもなくアヒルでもない。本物の眼球なのに。


 グロテスクな本を読んでるからでは片づけられない。


 私は手を離そうとした。


 でも、つないだ手は離れない。


 愛美ちゃんが離してくれなかった。


「怖いから手をつないでて」


 いたいけな少女が見せる頼りなさげな表情が、私の庇護ひご欲をくすぐる。


 イヤだと言おうとしていたのに、声が出ない。ただ、コイのように口をパクパクさせることしかできなかった。


「ね、おねがい」


 そう哀願あいがんされ、私の理性はぽっきり折れて、首を縦に振っていた。


「ありがと」


 愛美ちゃんはふたたび歩きはじめる。


 私は彼女のことがわからなくなってきた。純粋無垢な少女……という印象は変わらない。


 でも、そこここに浮かぶ眼球を気にしてないやつが純粋無垢といえるんだろうか。ベートーヴェンの「交響曲第9番」を口ずさんでるし。


 私は怖くなってきた。


 何度か愛美ちゃんの手を払おうとしたけれど、ダメ。意外にも力が強かった。


「あぶないよ」


 なんて優しくさとしてくる。私だって本気を出してるわけじゃない。


 愛美ちゃんが手を離したくないってのはわかった。


 怖いから?


 まわりに広がる異常な光景を受け入れてるのに、怖がったりするだろうか。


 考えてるうちに、橋を渡りきった。


「あのね、愛美ちゃん」


「ダメだよ、おにいさん。迷子になっちゃう」


 ――おにいさんがいなくなるのイヤ。


 その瞬間、私は動けなくなった。あどけなさを残した声が、耳から脳へとしみ込んで、思考をむしばんでいく。


 あっという間に手だけじゃなくて腕まで絡みとられた。


「あと少しでおうちにつくの。えっとね今日はカレーなんだっ。おにいさんもいっしょにどう?」


 返事さえできない。私が何も言わないのを肯定と受け取ったのか、愛美ちゃんは歩きはじめる。


 私は引っ張られながら、なんとか脚を動かす。


 沼を越えた先には、道が伸びていた。


 道の両側には背の高い木がすっくと並んでいる。まるで、王様を出迎える兵士たちのように。


 静かだ。不気味な鳥のさえずりも、かまのような風もない。


 死んだような空気の中を歩いていけば、大きな建物が見えてくる。


 それは、私がつい先ほど――ここで目覚める前――にいた建物。


 忘れもしない真桑まくわ愛美あいみのアトリエだった。

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笑う少女 藤原くう @erevestakiba

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