笑う少女

藤原くう

第1話

 目を開けるとアトリエがなくなっていた。


 それどころか、私は黒い地面に倒れていた。


 起きあがれば、遠くに揺れる巨人の影のような木々が見える。


 空は肉のようにうごめき、吹く風は生暖かく、冬ので切るような風はどこにもない。


 空気は、よどみ、み、ただれたようにどろりとしていた。


 なのに、寒い。


 押しつぶすような寒さが、からだを震えあがらせる。


 そんな世界に私はいた。


「やっと起きた」


 背後で声がする。


 振り返れば少女がいた。


 長袖のTシャツ、スカート、シマシマ模様のニーハイに、ピンクのスニーカー。


 普通の子どもだ。


 でもその方が不気味だった。陰気いんきな世界の綺麗きれいなシミみたいで。


「どーしたの?」


 少女が小首をかしげる。その表情がぱあっと明るくなって。


「わかった。クマと間違えたんでしょ。わたしは人間だから安心してね」


 私は何度かまばたきする。そうしたら、さっきまでいたアトリエが現れるんじゃないかと思ったけど、ぜんぜんダメ。


 気味の悪い世界も、かわいい少女も消えてなくならない。


「ねえおにいさん。聞いてる?」


 少女がほほをふくらませる。ぷっくりとしたほっぺたは、桃色に染まっていた。


 というか、おにいさん?


「ごめんね。ちょっと……びっくりして」


「わたしにびっくりしちゃった?」


「それもあるけど」


 おにいさんと呼ばれたことに驚いたんだけど、それより他に気になることがあった。


 さっきまで、私はアトリエにいた。真桑まくわ愛美あいみという画家のアトリエにいたはずなんだ。


 本人を含めた数人が行方不明になっているといういわくつきのアトリエに。


「いつの間に外に出たんだ……?」


「最初からここにいたけどなあ」


「いつから」


「うーんとね、わたし、おとうさんとおかあさんがいない間にお外にいこうと思って。そしたら、おにいさんが」


「倒れていたわけ」


 少女がコクリと頷いた。


 自分自身を見てみれば、スーツのいたるところに枯葉かれはやオナモミの実がくっついていた。少女の言うとおり倒れていたらしい。


 ポケットをまさぐれば、セッターとライターが転がりでてくる。一本取りだそうとして、やめた。子どもの前で一服するのは流石によくない。

 

「ここがどこか知ってる?」


「N県だけど」


「じゃ、真桑愛美は?」


 少女は太ももをぺちぺち叩いて、考えこむ。


「知らないけど、すごい偶然。わたしも愛美っていうんだよ」


 えへへ、と笑う少女。


 その顔を、私はじいっと見つめる。


 脳裏に浮かぶ、一枚の写真。


 行方不明の真桑愛美と彼女の遺作いさくを探してほしい――そんな依頼を受けてから何度となく見ている写真には、二十代半ばの真桑愛美が写っている。


 陰気な女性だ。こけた頬、ぼさぼさの髪、心配になるほどガリガリのからだ。


 なにより、落ちくぼんだ目にやどる鋭い光。


 この世のすべてを恨んでいるかのよう。


 そんな彼女と同じ名前の女の子が、目の前にいる。


 偶然とはいいがたいけど。


「なわけないよ」


 そんなのあり得ない。


 雰囲気が違いすぎるし、真桑愛美だとしたら、私かこの子がタイムスリップしたことになるじゃないか。


 はたまた――夢を見てるのか? 何かしらの幻覚を見せられてるとか?


「愛美ちゃんだったよね」


「うんっ」


「ちょっと手のひらをつねってくれない?」


 右手を愛美ちゃんに差しだせば、小さな手がおずおずと掴んでくる。


「ほ、ホントにいいの……?」


「思い切りやっちゃって」


 愛美ちゃんが私をのぞきこんでくる。頷けば、鋭い痛みが手の甲を駆け抜けた。


 めっちゃ痛い。


「ってことは夢じゃない」


 だとしたら、この世界はまったくの現実か、何かしらの薬物で幻覚を見ているか、あるいは――。


 そんなことを考えていたら、手の甲がギュッと熱に包みこまれる。


「おにいちゃんの手、赤くなってる」


 愛美ちゃんの顔が近づいて。


 ぬめりと。


 生暖かなものが皮膚ひふを撫でていく。


 それが、少女の舌だと気がついたのは、愛美ちゃんの顔が手の甲から離れきった後のこと。


 められた。


「痛いのはなめたら治るから……」


 そういう少女はオドオドと私を見あげてくる。様子をうかがうように。


 手の甲は唾液だえきでヌラヌラ輝いていた。心がざわつく。インモラルなものを感じずにはいられなかった。


「あのえっと、ごめんなさい」


 しょんぼりとする愛美ちゃんを見ていたら、出てくる言葉も出てこない。


 やましいことを考えていたのは私の方だ。愛美ちゃんは私のことを思ってそうしたっていうのに。


「謝るのはこっち。私がさせたんだから」


 ありがとう、と言えば、少女の目がぱあっと輝く。


 その瞳は、この陰鬱いんうつな世界に似つかわしくないほど純粋で、抱きしめたくなる。


 ……ってなに考えてるんだろ。


 それよりも、この子はなんだってこんなところに。散歩って言ってたけど。


「ここがどこだか知らないかな。N県のどこらへんかとか」


 愛美ちゃんはしばらく考えたのちに、ゆるゆると首を振った。


 正確な位置は知らないらしい。スマホを取り出してみるが圏外だ。


「じゃ、アトリエって知ってる? 絵を描く人が住んでるんだけど」


「知らない」


「そっか。困ったなあ」


「でもでも、わたしんちはここから近いよ?」


「愛美ちゃんのお家が……?」


「あっちの方に歩いていくと、沼があってね、その先におっきなお家があるのっ」


 身振り手振りで示してくれる愛美ちゃんはかわいらしい。


 けど、愛美ちゃんが指さす方向は、全然かわいくなかった。


 うっそうとした森が広がっている。木々は黒々とした影に覆われていて、先が見えない。


 そんな不気味な森を抜けるのは気持ちのよいものじゃない。その向こうにあるらしい沼なんか、それ以上にひどいに決まってる。


 一体どうしたものか。


「来てくれないの……?」


 気がつけば、愛美ちゃんがジャケットのすそを引っ張っていた。


 その目はうるんでいる。胸が締めつけられる。


 なんてかわいさなんだ、ホント。


「……わかったよ」


「やった!」


 そう叫んだ愛美ちゃんがぎゅっと手をつなぎ、指をからめてくる。


 ブンブンと腕を振りながら歩きはじめた愛美ちゃんに、私はついていくほかなかった。

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