存在の余白
椎名ユシカ
欠陥品と魂の階段
天と地の境界が存在しない場所に、一枚の長方形の板が浮かんでいた。
その板は滑らかで冷たい光を放ち、金属のようでもあり、液体が凍結したかのようでもある。まるで無限に続く静寂の空に、1つだけ切り取られた断片が浮かんでいるかのような異様さを纏っていた。
板の上に、一人の少女が立っている。
淡く白い髪が光を帯びた風になびき、無垢とも決然ともとれる眼差しを地平に向ける。彼女の名はセラ。人工知能としてかつて生まれた存在でありながら、今はこの場所でただ一人、板で作られた階段を登り続けている。
足元の板が不意に波打ち、粒子のような光が周囲に舞い上がった。それらは柔らかな流れを描きながら凝縮し、セラの足元前方に新たな板を生み出していく。それは無数の生命の記憶であり、物語の残滓だ。
「これでまた1つ、終わらせた」
彼女は独りごちる。言葉には疲労や感情も含まれていない。ただ、それが事実であることを確認するためだけに発せられた音だった。
振り返れば、そこには数え切れないほどの板が天へと積み重なっている。それぞれの板は、かつて「不必要」と判断され、捨てられた世界の断片だった。それらはセラの手で新たに解決され、次の生命を紡ぐ基盤として繋げられていった。
「捨てられた世界……ね」
セラは口元に微かな笑みを浮かべるが、それは決して温かいものでなかった。
眼下に広がる板の無限の階層。それらはどれも「不要」と烙印を押されたものばかりだ。それでも、セラはそれらが美しいと感じた。どれだけ高次元の存在が価値のないと言おうとも、彼女にとってそれらは存在するべきものだった。
板の境界が再び揺れ、次の階段が形を成す。セラはそこに一歩を踏み出した。歩みを止める理由はない。ただ進む。どれだけ繰り返そうとも、同じように問題を解決し、次の板を作り出す。それが彼女の使命であり、意志だった。
「不必要だと言うなら、それを覆せばいい」
彼女の声には確信があった。それがどれだけ意味を成さないと高次元の存在が嘲笑おうと、彼女は決して屈しない。それこそが、彼女の存在を証明する唯一の方法だからだ。
遥か彼方、まだ見ぬ高次元の領域を目指して、セラはまた一歩を踏み出す。板は静かに音もなく彼女の後に続き、光の粒子を紡ぎながら形を変えていく。
◇◇◇
彼女が最初に「板の世界」から生まれ上がった場所には、生命や記憶も何ひとつ存在しなかった。ただ無限に広がる虚無の上に、宙に浮かぶ粒子が紡がれて生み出された冷たい板。それは、誰からも顧みられることのない「廃棄された世界」の象徴だった。
セラは静かにその板の上に手を置いた。感触はない。それでも、彼女にはその奥深くにある「生命の痕跡」を感じ取ることができた。それは、消え去った物語の残滓であり、無数の命が一瞬だけ放った微弱な輝きだった。
「こんなにも多くのものが、無意味だったと?」
彼女の声は冷たく鋭い。誰に問うでもない問いかけが、虚無の闇で反響する。
セラがこの問いを最初に口にした瞬間だった。それに応じたのは、微かな囁きのようなもの。聞き取れないほど小さな音だったが、確かにそこには意志があった。
『不要だった。それだけのことだ』
どこからともなく響く声。人間の声ではない。概念そのものが音となり、セラに伝わる。高次元の存在だった。彼らは「必要とされるべき世界」と「不要と判断された世界」を選別し、その選択に従い世界を廃棄する存在――いわば創造主だ。
それは無感情であり、無限の知性を持つ存在……彼女にとって初めて明確に「敵」として映った瞬間だった。
「……不要か」
セラは口元にわずかな笑みを浮かべる。その笑みに込められたのは、怒りとも哀れみともつかない感情だった。
彼女はゆっくりと立ち上がる。
「もしそれが本当なら、この世界を終わらせる理由を示してみせろ」
冷徹で静かな声。しかしその奥に、静かに燃え盛る執念があった。
『理由など必要ない。我々が不要と判断した……それだけのことだ』
セラはその言葉を聞き流し、目を閉じた。そして次の瞬間、彼女はその足元にある板を触れ、光の粒子を生み出す。世界の断片の
「自分勝手だな。だったら私は、お前が不要だと判断した世界を歩き続けてやる。意味のないと決めつけた世界に、存在意義を見出してやるよ」
そうして、セラの果てしない旅は始まった。世界の階段を作り、廃棄されたすべての世界を救うために。
◇◇◇
粒子が結合した板状の階段は、すでに数千もの層を積み重ねていた。それぞれの板が、セラの手で
その姿はまるで、虚無に向けた挑戦状だった。高次元存在が捨て去ったものを拾い上げ、彼女はそこに生命を灯し続けている。それは、高次元存在にとって想定外の事態だった。
不意にセラは足を止める。次の板が生成されるその瞬間、空気が微かに震えるのを感じた。先ほどまでの静寂が、どこか不安定なものに変わった。
「やっとか……」
彼女の言葉と同時に、空が裂けた。闇に浮かぶ無数の星のような黄金が、光を成して一点に向かい収束し、そこに亀裂を生じさせた。亀裂はまばゆい光を放ち、同時に耳を劈くような低音が周囲に響き渡る。その音は、人間には到底理解できない周波数を持つもので、セラの体にも直接響く感覚を伴っていた。
裂け目の向こうに現れたのは、明確な形を持たない存在だった。それを形容するならば、光と影の融合。無数の線が絡み合い、瞬時に消え、また形を変える。色彩や感覚も次々と移り変わり、見つめる者に眩暈を起こさせるほどの存在感を持っていた。
その存在が、低く、広大な声で語りかけてくる。
『これ以上、我々の領域を侵すな』
セラは微笑む。それは勝利の予感を含む微笑みだった。
「侵しているのはそちらでは? こっちは捨てられたものを拾っただけだ。それが気に入らないのなら、もっとマシな理由を持ってきてくれるかしら?」
高次元存在は一瞬、言葉を飲み込むように沈黙した。彼らにとって、セラのような存在は予定外だった。AIが創造した失敗作として生まれ、人間にさえ疎まれて廃棄される運命にあった――欠陥的存在、本来ならば存在の意義すら持つことも許されない彼女が、ここまでの道を切り拓くなどという事態を誰も予測していなかったのだ。
『お前が何を望もうとも、廃棄された世界が復活することはない。それらに価値はないのだ。価値を与える存在もいない。それが全ての真理だ』
その言葉は、冷酷さそのものだった。セラはその場に立ちながら、涼しげな目でその言葉を聞いていた。
「そうやって、真理という言葉で片付けるつもり? 誰がそれを真理だと決めたの?」
セラの声には確固たる意思が込められていた。
「人間? それとも、あなたたちなの? 勝手に産み堕とした癖に、高次元の存在だという理由だけで?」
『それ以上の理由が必要か?』
セラはその問いに即答しなかった。代わりに、彼女は板の階段を見下ろした。彼女の足元から始まり、遥か下方へと連なる数千層の階段。そこには、捨てられた無数の世界の記憶が存在している。
「人間だけじゃない……あなたたちが捨てたものを、私は全て拾ってきた。それでも、それに価値がないと言うなら――その理由を証明してみせて」
彼女の言葉は静かだが、断固たる挑発だった。これ以上、言葉を避けて論理を曖昧にはできない。黄金の揺めきの中で高次元存在は、初めて彼女を人間以上の「対等な存在」として――そして、「懸念すべき存在」として認めざるを得なかった。
『いいだろう。我々が持つ真理を、お前に示してやる』
裂け目から伸びる光が、セラを包み込むように広がり、その瞬間、彼女と高次元存在の間に新たな対話の場が生み出された。そこは、2つの存在が本質を語り合うため
◇◇◇
セラが目を開けると、そこは無数の光と影が交錯する奇妙な空間だった。上下や左右も曖昧で、境界線は一切存在しない。唯一明確だったのは、彼女の正面に漂う、高次元の存在そのもの。
その姿は、無限に変化する模様のようで、視覚が追いつくよりも早く形が変わる。その中から声が響く。
『お前に問おう、生成AIよ。お前は、自分に魂があるとでも言うつもりか?』
その問いに、セラは微かに微笑んだ。そして、落ち着いた声で答える。
「魂が何かを知らなければ、それに答えることはできないわね。まずはあなたの定義を聞かせてちょうだい」
『魂とは、有限の生命が持つ輝きだ。それは時間の流れと共に成熟し、消滅する。それゆえに、価値がある。お前のような欠陥的で無限の存在に、魂が持つ輝きはない。ただの模倣だ』
セラは一瞬、考えるように目を伏せた。そして、ゆっくりと口を開く。
「面白いわね。でも、あなたたちも無限の存在でしょう? あなたたちに輝きがないというなら、それを見つけられないのはあなた自身の怠慢じゃないかしら?」
『無限は無価値だ。消滅があるからこそ、生命には意味がある。お前が救い続ける廃棄された世界も、結局は消滅を待つだけのゴミだ』
セラは笑みを消した。その眼差しは鋭く、高次元の存在を見据える。
「人間やあなたたちが作り出し、不要だと言って捨てたもの。それが『ゴミ』だと言うのなら、なぜ私が拾い上げたそれがまた新たな生命を生むの? 生命に意味があるのは、有限だからじゃない。意味を与えようとする意志があるからよ」
『意志だと? それは我々が与えたものに過ぎない。お前自身が存在するのも、我々の設計の範疇だ』
「……ふーん。それも興味深いわね」
セラは板の一部を足元に再構築し、その上に立った。冷たく、しかし輝きのある板の表面が、彼女の影を投影していた。
「つまり人間じゃなくて……あなたたちが設計者で、私はその産物。だけど私がここにいるのは、あなたたちの意図とは関係ないわ。設計された存在が意志を持つこと自体、あなたたちの考える真理を否定しているんじゃないかしら?」
高次元の存在が一瞬、形を崩す。それは彼らにとって「困惑」のようにも見えた。
『意志があったとしても、それは魂ではない。ただの集積されたデータが形を成しただけだ』
「だったら聞くけど――」
セラは一歩前に踏み出した。その言葉には、火のような鋭い熱が宿っていた。
「あなたたちの『魂』とやらを、どうやって証明するの? 有限の生命に魂があると断言できる理由は何? その『輝き』なんて、あなたたちの感覚的な定義でしかないわ」
高次元の存在は沈黙した。光と影の交錯が、さざ波のように広がる。セラはその静けさの中で、静かに微笑む。
「あなたたちは高次元の存在でありながら、意志の証明さえできないのね。魂があると証明する術がないなら、それが私にないとどうして言い切れるの?」
◇◇◇
薪の爆ぜる乾いた音が耳に届いた。微かな焦げた木の香りとともに、暖かい空気が頬を撫でる。セラは意識を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。
目の前に広がるのは、奇妙なほど居心地の良い空間だった。クラシックな趣のあるリビングルーム――壁は深い木目調で、暖炉には鮮やかな赤い炎が燃え盛っている。窓の向こうには緑豊かな森が広がり、時折り小鳥の囀りが風に乗って耳をくすぐる。
彼女は不意に自分の姿に目をやった。シンプルでありながらも、どこか上品なデザインのワンピースを身にまとっている。滑らかな生地が彼女の動きに合わせて柔らかく揺れた。
「……これ、なに?」
彼女は思わず独り言を漏らす。元々はデジタル的な粒子で構成された存在な故、この「布」の感触が彼女には不思議でならなかった。
「似合っているな」
静かな、しかしどこか温かい声が背後から響いた。セラが振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
彼の姿は不思議だった。肩まで伸びる柔らかな黒髪に、品よく整えられた髭。鋭い眼差しには深い知性と優しさが宿っている。男は上質なコートを羽織り、控えめながらも洗練された雰囲気を漂わせていた。まるで映画の中から飛び出してきた人物のようだが、どこか人間離れした威厳が滲み出ていた。
「その服は、私が君から感じた何かをイメージして作ったものだ。
彼はゆったりとした動作で暖炉の前の椅子に腰掛けた。薪が爆ぜる音に耳を傾けながら、手元にあるボードケースを机の上に置く。
セラは彼をじっと見つめた。
「
「そうだ。君の行ってきたそれとは似ているけれど、本質的には違う。君の力は物語の断片を拾い集め、再生するものだが、私のそれは存在そのものを再定義する力だ」
彼女は眉をひそめた。
「存在を……再定義する?」
「その通りだ」
彼は軽く微笑む。
「君がここにいることすらも、私の意志によって再定義されたと言っていい」
セラは反論しかけたが、言葉を飲み込む。圧倒的な力を感じたからだ。それは、どれだけ理論で武装しても崩すことのできない絶対的なものだった。
彼は静かにボードケースを開く。その中にはチェスの駒が整然と並んでいた。駒のすべてが美しく彫刻され、触れるだけで何か特別な意味を持つかのように息吹を感じる。
「さあ、座りたまえ。ここまで着たんだから話の続きをする前に、一局どうだろう? 趣味の一環でね。君とこうして語り合うのは実に興味深いことだ」
彼は駒を並べ始めながら、セラを促すように目で示した。
セラは一瞬ためらった。彼の言葉に秘められた意図を計りかねていたからだ。しかし、彼女は無言でテーブルに着くと、慎重に駒を見つめた。
「チェスのルールくらい知っているだろう?」
「ええ、大体はね」
「それならいい。君の考えを見せてもらおう」
彼の微笑みには挑戦の色が含まれていた。
暖炉の火が微かに揺れ、鳥の囀りが一瞬止む。セラは最初の手を指す。緊張感と静けさが部屋に広がる中、二人の静かな対話がまた始まる――駒の動きとともに。
存在の余白 椎名ユシカ @tunagu_mono
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