第2話 作者の乱れ
大広間には重苦しい空気が漂っていた。
窓の外は依然として霧が立ち込め、陽光さえも薄暗くなっている。
探偵・橘 透はブランドバッグを目の前に置き、その佇まいをじっと見つめていた。黒い革の表面には微かな油の跡が付いている。橘はその跡を指先でなぞり、考え込む。
「どうしてこんなものが現場に残されているのか……不可解だ」
助手の宮沢 陽菜がバッグを見ながら口を開いた。
「橘さん、これは『ヴィルティエール』っていうブランドのバッグですよ。有名ですけど、かなり高価なものです」
「高価なもの?」
「ええ……新作だと40万以上します。これもきっとその類でしょう」
橘は少し驚いた顔を見せた後、真顔に戻った。
「そんなものが、なぜ血まみれの密室の外に?」
<< 妻がまたやらかしたんだよ……>>
(ん?)
突如として聞こえた声に、橘は眉をひそめた。誰も話していないはずなのに、遠くから誰かがぼやくような、聞き流せない声が耳をかすめる。
<<妻の部屋にまたブランドバッグがあったんだよ……。あいつの買い物依存ぶりにも困ったもんだ。>>
「アイボリーにゴールドの刺繍? 48万もする『ヴィルティエール』の新作らしい。俺の稼ぎでそれを補填できるわけないだろ……。来月の支払いが怖い…。」
橘は耳の奥にこびりつくその言葉を振り払うように、椅子から立ち上がった。
「橘さん、どうしました?」
「……いや、何でもない」
高木祐一の遺体発見から数時間後、橘と宮沢は山荘の一室で宿泊者たちへの聞き込みを進めていた。
山荘に招かれていたのは、被害者の仕事関係者、友人、そして遠縁の親族たち。いずれも不自然なほど口が重い。
古谷という中年の男が、苛立たしげに煙草をふかしながら答える。
「社長はな、金を貸すのが趣味みたいなもんだった。こっちが困ってるときに助けてくれるが、あとでキッチリ絞り取る。あんたらが思ってるほど、いい人間じゃねえんだ」
「つまり、恨みを買いやすい人物だったと?」
橘の静かな問いに、古谷は苦笑いを浮かべる。
「そういうことだ。恨まれてない奴なんか、ここにはいないだろうな」
宮沢が控えめに付け加える。
「でも、密室ですよ。外部犯行の可能性はないんですか?」
橘は窓を見やりながら答えた。
「ないだろう。外部からの侵入は考えづらい。密室での殺害――そして外に残されたブランドバッグ」
橘の視線が再び油の付いたバッグへと向けられる。
「なぜだ……どうしてこれが?」
<<……娘が金髪にして学校から呼び出されたんだ>>
(まただ……)
今度はハッキリとした声だった。
橘は思わず振り向くが、宮沢も古谷も何も聞こえていない様子で、黙々と話を続けている。
<<学費未納の俺が学校に頭を下げるんだぜ? 娘に何を言えばいいんだ……>>
橘は額に手を当て、そっと深呼吸をした。
(何だ……この声は。誰が、何を言っている?)
調査を終え、橘と宮沢はロビーに戻ってきた。
宮沢が小さな声で呟く。
「橘さん、どうも全員が何か隠している気がします。被害者の周囲で何か“金”に関わる問題があったんじゃないでしょうか」
「金……」
橘はブランドバッグを見つめ、思い出すように呟いた。
「新作だと48万……か」
「はい? 何か言いました?」
「いや……少し考え事をしていただけだ」
橘は再びバッグを手に取った。指先には微かな油の跡が残る。
「油の跡……そしてバッグ。ここに何かが隠されている。高木祐一の死と、この異物の存在が、どうにも結びつかない」
その夜、橘は一人で被害者の部屋を訪れた。
室内の空気は依然として冷たく、窓ガラスの曇りはわずかな外気を遮っている。
彼はゆっくりと床を調べ始めた。
やがて、ベッドの脚に付着した油の跡と、バッグの持ち手に付いた跡がほぼ一致することに気づいた。
「この油は……何かを滑らせるためのものか?」
小声で呟いた橘の耳に、再び声が響いた。
<<筆が進まねぇんだよ……何もかも頭に重くのしかかって……!>>
「誰だ!」
橘の声が静寂を切り裂いた。だが、返答はない。ただ、窓の外で霧の中を何かが引きずられる鈍い音が聞こえるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます