虚実の名探偵

三坂鳴

第1話 密室と冷たい死

山荘「霧ヶ峰ロッジ」は標高1000メートルの山奥にひっそりと佇んでいた。

冬を控えた冷たい空気と立ち込める霧が、建物全体を薄いベールで覆っている。

窓ガラスには湿気が白く曇り、近づく足音さえも霧に飲まれるように吸い込まれていく。


午前7時、金切り声が山荘の中に突き刺さった。


「きゃあああっ! 誰か――誰か来て!」


悲鳴の主は高木祐一の秘書を務める若い女性、三浦だった。

彼女が駆けつけた他の宿泊者たちを引き連れ、ロッジの一室、被害者・高木の部屋の前に立ち尽くしていた。


「どうしたんだ、三浦さん!」

「部屋に、社長が……死んでるんです! 鍵が、鍵が……!」


玄関ドアには鍵がかかり、内側からチェーンロックも掛かっていた。

小窓にはレースのカーテンが引かれており、その奥の施錠された窓ガラスが曇り、異様な静けさを漂わせている。


探偵・橘 透(たちばな とおる)が現場に現れたのはそれから15分後のことだった。同行しているのは助手の宮沢 陽菜(みやざわ はるな)。橘は部屋の前で立ち止まり、冷静に観察を始めた。


「ふむ……ドアは内側から鍵がかかっている。チェーンロックもしっかりと掛けられているな」


橘はゆっくりと視線を下げると、足元に転がった奇妙な物に目を留めた。

そこにはブランドバッグが無造作に置かれている。くすんだ金色のロゴがさりげなく光り、その異様な存在感に宮沢も眉をひそめた。


「……バッグ? こんなものがなぜここに?」

「分からない。だが、何かがおかしいな」


橘は手袋をつけ、そのバッグを軽く持ち上げた。サイズは一般的なハンドバッグより少し大きく、しかし人間が入れるような馬鹿げたサイズではない。

持ち手の部分には少しだけ黒い油のような跡がついていた。


山荘のオーナーが予備の鍵を取り出し、チェーンロックを切断した。

橘と宮沢がゆっくりと部屋の中に足を踏み入れると、そこには寒気すら漂う光景が待ち受けていた。


部屋の中央に置かれたクラシックな木製ベッド。

その上には、被害者・高木 祐一が仰向けに横たわっていた。


高木の喉元には深々と刃物が突き刺さり、床には血の小さな水たまりが広がっている。

室内は整然としており、荒らされた様子は皆無。

ベッドの横に置かれたサイドテーブルには、彼の愛用していた携帯電話と高級な万年筆、そして未開封の封筒が一つあった。


「橘さん……これは」

宮沢が封筒を手に取ると、表面に「返済期日:12月10日」とだけ書かれていた。


「返済……借金絡みか?」

橘は静かに周囲を見渡した。


「窓はどうだ?」

橘が宮沢に指示を出すと、彼女は部屋の窓を一つ一つ確認していく。


「全部内側から施錠されています。レバーの部分には埃も残っていますし、誰かが最近開けた形跡はありません」

「そうか」


橘はベッドの周囲を丹念に見回す。床に足跡らしきものはなく、唯一目についたのはベッドの脚に付着した、微かな黒い油の跡だった。


「油……?」


橘は手袋をはめたままその跡に触れ、ふとドアの前に落ちていたブランドバッグを思い出す。


「これは“密室”だな」


橘は短くそう呟いた。宮沢が息を呑み、恐る恐る問いかける。


「つまり……犯人はこの部屋に入れないはずなのに、高木さんを殺害したということですか?」


「そうだ。しかし、ここには確かに“何か”が残されている。トリックを暴く糸口がな」


橘はもう一度ブランドバッグに視線を移した。バッグの持ち手についた油の跡が、何かの記憶を呼び覚ましそうになるが――まだそれは掴めない。


遺体発見から数時間後。

山荘の宿泊者たちは大広間に集められ、橘が口を開いた。


「この事件は間違いなく“密室殺人”です。しかし、完全な密室などというものは存在しない。必ずどこかに綻びがある」


彼の言葉に、宿泊者たちは息を飲み、互いの顔を見つめ始めた。


「そして、この事件を解く鍵は――あのバッグだ」


ブランドバッグが目の前に置かれ、橘の冷静な視線が全員を射抜く。


夜になり、橘は一人で現場の部屋に戻った。窓の外には相変わらず霧が立ち込め、静寂が支配している。

彼はブランドバッグを再び手に取り、念入りに調べ始めた。


(このバッグ……なぜ、こんなところに?)


黒い油の跡、封筒に記された「返済期日」。そして、高木の周囲にはなぜか何も残されていない不自然な静けさ。


「……これは、誰かが隠そうとした“痕跡”だ」


橘はバッグをそっと置き、その場で低く呟いた。


「密室の真相に、借金の闇が関わっている――」


窓の外、霧の中から何かを引きずるような鈍い音が微かに響いた。

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