第6話 大雪の日に

 その後、友達がどう言ったのか記憶にない。光一郎がこの世にいないなんて信じられなかった。あの時、手をぎゅっと握ってくれた温かさを今でもリアルに思い出せる。

 柔らかい笑顔、そして温かい言葉を残して、光一郎はいなくなった。

『心配しなくていいからな。これからもずっと』

 その言葉を繰り返しては、結子は涙が零れる。夫がいない昼間の明るい部屋で結子は泣いた。


 出産というのは事情があっての、帝王切開でなければ予定が立たない。二十一世紀だというのに、出産は人間有史以来変わらない自然分娩だ。生まれてくるタイミングすら医者にも分からない。

「もうそろそろ」と言われても、そのそろそろは断定ではない。

「結子…そろそろじゃないのか?」と夫に聞かれる。

 大分お腹が張っているので、そろそろだとは思うけれど、結子にとっても初めてのことなので分からない。

「うん。多分…そうなんだけど」

「俺が休みの時だといいんだけどな…」

「病院までは何とかいけると思うの。荷物だって玄関に置いてるし」

 そう言うと、不安そうな顔を夫が見せた。

「大丈夫よ。初産って時間がかかるって言うし」と結子は笑ってみせた。

「うん。何かあったら会社に連絡して。すぐ病院行くから」

 お腹に耳を当てて、夫は出て行く。見送ろうと玄関に出ると、雪が降り始めていた。

「わ。寒い。結子、中に入ってて」

「うん。気を付けてね」と言って、夫を見送った。

 夫が出てから一時間も経っていない間に、お腹が痛くなる。生理痛のような痛みだ。

(もしかして…これって、陣痛?)

 結子は病院に電話した。

「痛みの間隔が二十分くらいになってますか? それなら来てください」と言われた。

 でも急いで病院に行ったら帰されたという話も聞いていたので、結子は夫には連絡しなかった。病院で診察を受けてからでもいいと念のため、入院バッグを持って出る。出るときにタクシーを呼んでいたので、マンション前に止まっていた。小走りで駈け寄ろうとしたら

「ゆい、ころぶで」と光一郎の声がした。

 振り返っても誰もいない。タクシー運転手が車から降りて「坂田さんですか?」と聞いてくれる。

「はい、そうです」と言うと、結子が持っている荷物を受け取ってトランクに入れてくれる。

 雪がちらちらと舞い落ちる。あの日のことを思い出した。

 滑って雪の地面につっぷしていたことを。

『心配しなくていいからな』

 そう、いつでも手を差し伸べてくれた光一郎が近くにいる気がする。雪を見上げて

「頑張ってくる」と結子は呟いた。

 タクシー運転手がドアを開けて待ってくれている。

「大丈夫ですか」と乗り込む時に手を貸してくれる。

「はい。大丈夫です」と言って車に乗り込んだ。


 陣痛が収まることもあるというけれど、結子の陣痛の間隔は十分を切っていた。電話することもできずに、我慢していると医院に辿り着く。タクシーを降りて、医院の受付に着くと、安心したせいか、急激に腰が痛くなる。思わず壁に手を付いていると、看護婦さんが出てきて、すぐに中へ通された。

「陣痛来てるか、計るね」と言われて、機械を取り付けられる。

 NST検査をされている間も陣痛の間隔はどんどん短くなっていく。しばらく待つと看護婦さんが検査結果を見て「あ、来てるわねぇ。陣痛。内診しましょう」と診察室に連れて行かれるが、歩くのもやっとだ。診察室に行くと

「子宮口五センチ空いてる。陣痛室行って」と先生が慌てた声を出す。

「先生、今日、一杯で」

「あぁ、雪降ってるもんなぁ。とにかくどこかあけて」と言って、二階へ上がった。

 もう階段を上るのも辛くて、業務用のエレベーターを使わせてもらった。

「ごめんね。ここで待ってて。ご家族に連絡した?」とよく分からない部屋で寝かされた。

 首を僅かに横に振ると

「じゃあ、事前にもらってる連絡先に連絡するね」と言って、出て行った。

 看護婦さんは忙しそうにバタバタしている。

 ほぼ一時間、痛みに耐えていると看護婦さんがやって来て「大丈夫? 今、助産師さんがくるから。子宮口の確認するから。頑張って」と慌ただしく言われた。

 何をどう頑張ればいいのか分からない。もうほぼ痛い。出産は赤ちゃんが出るときが痛いのだと思っていたけれど、この陣痛が痛いのだ。巨大な生理痛のような重くて激しい痛みに支配される。息をするのもやっとだ。

「子宮口全開」

 助産師さんが来て行った言葉だった。

「分娩台が空き次第、出産ね」と言われたけれど、先の妊婦がすぐに産んでくれるのかどうなのか分からない。

 分娩台に上がっても、そのまま放置される。

「いきんで」と言われても痛くて、よく分からない。

 何度か試したが、上手く行かない。痛みが一瞬引く時、心地よい眠りに誘われる。

「寝ちゃだめー」と言われるけれど、抗えない。

 そしてすぐまた痛みが襲ってくる。酸素マスクをつけられた。

「はい、いきんでー。頭、頭見えるよー」と言われても、結子には見えない。

(見えたの? 良かった)と思うばかりで、結子はそのまままた意識が遠のきそうになる。

『頑張って』

 光一郎の声がしたと思ったら、

「旦那さん来ました」と看護婦さんが言って、夫が入って来た。

「結子、頑張って」

 駈け寄る夫の顔に光一郎の顔が重なった。結子は微かに頷く。

 小さな女の子が生まれた。頼りない鳴き声だったけれど、確実に声が届く。

「じゃあ、赤ちゃんはいろいろ処置があるから」と一瞬、見せてもらったけれど、すぐに連れていかれた。

「お母様も処置があるので、お父様は外でお待ちください」と言われて、夫は出て行った。

 結子に「ありがとう」と涙目で言っていた。

 その後の処置も痛いが、陣痛の痛みとはくらべものにならないし、疲れ果ててぼんやりしていた。


 病室で眠っている時に、夢を見た。大学のよく行ってたカフェにいる。光一郎はいつも飲んでいた甘いカフェオレを口にして、微笑んだ。

「ゆーい。お疲れ様」

「こう…」

「赤ちゃん、可愛いなぁ」

「見てくれた?」

「うん。別嬪になるで」

「べっぴん? うちの子が?」

「ゆいに似て、綺麗な子になると思うで」

「そう? こうに似てない?」

「似てないなぁ。残念ながら」

「そっか」

「あ、俺、今から行くところあんねん」

「え? そうなの? せっかく…」

「うん。でもまた…。手紙…」

「手紙?」

「うん。手紙出すわ」

 そう言って、光一郎は席を立った。結子も一緒に行こうとした時、夫がその場にいた。

「あ…。あの」

「お疲れ様。結子に似て、可愛い子になるね」

 結子は不思議な気持ちで頷いた。


 目が覚めた時はもう夜だった。

「結子…目が覚めた?」

 夫が横で本を読んでいた。

「あ…」

「お疲れ様。ありがとう。すごく小さくてかわいかった。看護婦さんがミルクをあげてるけど、起きたら授乳指導するから連絡してくださいって。行ってくるわ」

「うん」

 立ち上がる夫を呼び止めた。

「何?」

「…雪、降ってる?」

「降ってるよ。積もってる」

「帰れる?」

「うん。何とかね」

「電車が止まったら大変だから。早めに帰って」

「分かった。また明日来るから。とりあえず、看護婦さんに言ってくるよ」と夫は出て行った。

 数分のやり取りで夢の内容をすっかり忘れてしまったけれど、結子の中になぜか淋しさが残る。

 窓の外は真っ暗だけれど、白い雪が降っている。暗いのに雪はしっかり見えた。


 看護婦さんが赤ちゃんを抱えてやって来る。夫も後ろからついてきて、結子は心が暖かくなるのを感じた。

「出産お疲れ様でした。よく頑張られましたね」と看護婦さんに言われる。

「はい」

「でもこれから待ったなしの育児なので、頑張ってくださいね」と赤ちゃんを渡される。

「はい。頑張ります」と結子はそう言って、柔らかい温もりを手に受け、微笑んだ。

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