第5話 別れ
別れは電話だった。夏に会うこともできなくて、結局、結子は別れを選んだ。会えたら、気軽に話せたら、仕事の愚痴や日常の些細な出来事を話せたのに。
「ごめんな…。幸せにできんくて」
受話器を握りしめながら、結子は泣いた。一緒にいたかったのに、自分が不甲斐ないせいで、と思った。
「私が…」
「ゆい、あのさ。前もそうやったけど、別れの理由なんか探さんでええから」
この人は声も柔らかい、と結子は思った。
「ゆいは悪くない。ただ…俺と別れるんやったら、めっちゃ幸せになってや。それだけ約束して」
うんとは言えなかった。本当は一緒に幸せになりたかった。それなのに、待てない自分が情けない。
「こう…も幸せでいて」
「そやな。頑張るわ。ありがとう」
向こうは昼休みの時間だった。ガヤガヤ賑やかな音が聞こえている。街角の公衆電話からかもしれない。
「ありがとう」
最後の言葉はさよならじゃなかった。暑い国の雑踏の音を結子は暗い夜に聞いている。それだけでどれほど離れた距離かを感じる。秋が深い冷たい夜だった。
そしてずっと結子に優しくしてくれた先輩と付き合った。何度も告白してくれて、断っていても、ずっと優しくしてくれていた。
別れたことを知ると、また『付き合おう』と言ってくれて、その上、気持ちが落ち着くまで待つと言ってくれた。
(私は待てなかった。予定のない日曜も寂しかったし、電話できないのも、声が聞けないのも辛かった)
「待たなくて、大丈夫です」
自分が決めたことだから、と結子はまた前を向いた。
その相手が今の夫だ。かわいい子供も生まれて、夫も優しくて、幸せだ。小さい波風はあったけれど、結子はあの時、光一郎に言われたことを心で繰り返す。
『めっちゃしあわせになってや』
幸せだ、と結子は思う。
自分のため、光一郎のために。
結婚後、一度だけ光一郎に会った。文を妊娠した時だった。エコー写真をもらって、病院を出て駅まで向かっている時に見覚えのある顔を見た。向こうも気付いたようで明るい顔で手を挙げる。
「ゆい! 元気やった?」
ごく普通に話しかけられて、拍子抜してしまった。
「うん。こうは? 戻ってきたの?」
日焼けした肌が季節外れのように思えた。
「うん。二年前に。なんやかんや長くなって。あ、赤ちゃん?」
結子が鞄につけている妊婦のマークがついたキーホルダーを見て言う。なんて言えばいいのか分からなくて、曖昧に微笑むと光一郎は目を細めて、力一杯、結子の手を握る。
「よかったなぁ。ほんまによかった」と心の底から言われて、結子は嬉しいような淋しいような気持ちになったが、一番大きかったのは安堵の気持ちだった。結子のことを許して、応援してくれる姿は少しも変わらない。
「こうは? 結婚…」
「まだやけど。幸せやで。特に今日は気分いいなぁ。良かった。ゆいに会えて。ありがとう。心配しなくていいからな。これからもずっと」
光一郎の感謝の気持ちに少しちぐはぐな気持ちになる。それでも結子も光一郎の笑顔に釣られて微笑んだ。
それから一週間後に大学時代の友達から連絡が入った。
「久しぶりー」と結子が明るい声で言うと、相手は少し戸惑うような声で返事する。
「どうしたの?」と結子がきくと
「知ってる? こんなこと言うべきか…分かんないけど、でも…知ってた方がいいと思って」と前置きを置かれて聞いた話は光一郎の訃報だった。
「え? いつ?」
「二年前だって」
「二年?」
「現地の事故で」
「…うそ。だって…」と息を飲んだ。
光一郎はあの時、二年前に帰ってきたと言った。
「まさか」と結子は携帯を手に床に座り込んだ。
電話の向こうで、友人が名前を呼ぶ声がする。その声が遠くなる。
(そうか…。だから日焼けしてた。あんなちぐはぐなことをこうは言ったんだ)
「ゆい、大丈夫?」と友人の声に引き戻された。
「私、この前…こうに会ったんだよ」
友人も言葉を無くしていた。
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