第2話


『待って……!』


そんな言葉は空気に溶けて消えてしまった。

母が死んでからは五十鈴が母の代わりに風也の側について世話をするようになった。

本邸で風雅や風美香のように学校にも外に出ることなくずっと……。

代わりに家庭教師がついて勉強していたものの、楽しそうに学校に通う風美香を羨んでいた。


そんな五十鈴も、もう十六歳になった。

今日も風也の元に朝食を持って行き、離れの掃除をしてから空になった食器を運んでいた。


前から歩いて来る義母の朱音と学園の制服を着た風美香が前から歩いて来るのを見て、嫌な予感がしたが、そのまま頭を下げて、廊下の端に体を寄せて通り過ぎるのを待っていた時だった。



「……邪魔よ」


「…………っ⁉︎」



朱音の手がお盆に思いきり当たる。



───ガッシャン



ぐらりと食器が揺れるのを抑えようとするが、大きな音を立てて床に落ちて割れていく。

明らかに朱音が五十鈴に打つかった。

周囲の者はそれを見ていたにも関わらず、誰も声を上げることはない。



「もうっ!鈍臭いわね。それにお父様の食器を割るなんて最低よッ」


「本当ね……風美香さん、怪我はないかしら?」


「ありませんわ。お母様……朝から最悪な気分。どう責任取るつもり!?」


「…………申し訳、ございません」



五十鈴は深く頭を下げた。

こうなれば二人の気が済むまで謝り続けなければならないと知っていたからだ。

そのまま淡々と返事を返していると、パチンと朱音の平手打ちが飛ぶ。

叩かれた頬がじんじんと痛む。理不尽な扱いに五十鈴は唇を噛んだ。



「この事は旦那様に報告致しますわ。これだから恥知らずの女の子供は」


「……っ」


「はぁ……ここは空気が悪いわ。早く行きましょう。お母様」


「えぇ、そうね。さっさとそこを片付けておきなさい。誰も手伝ってはなりませんよ」



ダメ押しの如くそう言った朱音に周囲の者達は頷いた。


(……そんなことを言わなくても誰も助けてはくれないわ)


この家には五十鈴に声を掛ける者などいない。

稀に何も知らずに善意から五十鈴を見兼ねて助けてくれる者もいたが、すぐに朱音に伝わり屋敷を辞めていった。


天狗木家の中で五十鈴の立場は誰よりも低いように思えた。

母がいるときは隠されるようにして部屋の奥にいた。

母が亡くなってから、こんなにも過酷な環境に身を置いていたのだと知ることになり深く後悔していた。

この状況を知っていたら少しは母の力になれただろうに。


憎しみのこもった視線が五十鈴の背に刺さっていた。

朱音は母が風也を離れで独り占めしていたと思っている。

その為、朱音は母を深く深く恨んでいる。

それは本来自分がいるべき場所に母と五十鈴がいたからなのだと知った時にはもう何もかもが手遅れだった。

風也は本邸で常に母と五十鈴をそばに置いて、本妻であるはずの朱音を母屋で過ごしていた。


母がずっと寵愛を受けていると思われていあようだが、風也の母に対する態度は特別な感情などこもっていなかったように思えた。

それは娘であるはずの五十鈴に対しても同じだった。


成長するにつれて、その違和感の正体に気づく。

母と五十鈴は『道具』にすぎない。

そんな言葉がピッタリだと思っていた。


母はいつも風也の胸元に手を翳していた。

そこから漏れる金色の光が、何か特別なものだと気付いていたが、結局母も風也も五十鈴にそれが何なのかを教えてはくれなかった。


そして五十鈴が母と同じ力が使えるとわかった時の母の顔は今でも忘れはしない。

「ああ……やはり」

そう言って母は涙を流しながら五十鈴の体を強く強く抱きしめた。

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