帰るべき場所

くれは

 * * * 

 無彩色の冷たい空気が僕の体を絡めとるように吹き抜けていった。震えて、僕は自分の体が凍えていることに気づいた。

 変な感じだった。

 見回すと、シーソーがひとつきり置かれているだけの小さな公園だった。人影はない。寂しい景色の中、ベンチに座って僕は、何をしていたのだろう。

 帰ろう。

 そう思いついた瞬間、僕は戸惑いを覚えた。

 どこに。

 そう、どこに帰るというのだろう。帰るべき場所を思い出せない。そもそも、今自分がどこにいるのかもわからない。

 ぼんやりと周囲を見回す。色褪せた立木。その向こうに透けて見えるコンビニの灯りも、冷たい空気に似てどこか寒々しい。公園の外には人の行き来があるようで、その気配に少しほっとしたのも確かだった。

 ふと、ポケットの中が震えた。

 探ると、スマートフォンがあった。僕のポケットに入っていたということは、きっと僕のものなのだろう。指を添えれば指紋認証でロックが開く。

 新しいメッセージが一件。


 ──帰ってきて。


 それだけ。相手に覚えはない。それに、帰るべき場所を思い出せない。心細さの隙間を通り抜けるように、風が吹き抜けてゆく。

 さらにポケットを探ると財布が出てきた。中に免許証が入っている。僕のもの、なのだろう。けれどその名前を指先でなぞってみても、自分のものだという確信が得られない。かといって、他に思いつく名前もない。

 きっとこれが僕なんだろう、と免許証を見つめる。

 スマートフォンで免許証の住所を検索すると、すぐ近くだった。僕は財布をポケットに戻し、スマートフォンが導くままに、自分の家だろう場所に帰ってゆくことにした。

 踏み出した足が踏む地面はどこか頼りなく、僕は本当に帰ることができるのか、不安で仕方なかった。




 坂道を登って辿り着いたのは、アパートだった。号数は奥から二番目の部屋。財布に入っていた鍵はぴったりと合う。

 まるで用意されていたみたいだ。

 他人事のように思いながら、玄関に踏み込む。他人の部屋に入るときのような居心地悪さを感じる。それはそのまま戸惑いになった。

 単身者向けの部屋なのだろう。六畳ほどの広さに、小さなキッチン。傍のドアはトイレと風呂だろう。

 窓には目隠しのシートが貼られていて、ぼんやりとした光が差し込んでくる以外、外の景色は何も見えなかった。薄曇りの寒い日の割に、窓から差し込む光はやけに明るく感じられた。

 部屋の左手奥にはベッドがあって、右手奥には洗濯物──シャツとかがぶら下がっている。部屋の中央のローテーブルの上にはマグカップが置かれたままになっていた。コーヒーだろうか、たった今飲み終えたばかりのようにふちにその跡を残している。

 玄関で立ちすくんだまま、部屋を眺めていた。

 靴を脱いで中に踏み込む勇気はなかった。どれだけ眺めていても、それが自分の部屋だという気持ちはわいてこなかった。誰かが暮らしている痕跡も、何も、自分の中に引っかかることなくするすると流れ落ちてしまうようだった。

 ふ、と、握り締めたままのスマートフォンが震えた。

 またメッセージが一件。送り主はさっきと同じ。


 ──迎えに行くから。一緒に帰りましょう。


 帰る。その言葉を口の中で呟く。

 どこに帰るというのだろう。そもそもこのメッセージの送り主は誰なのか。


「迎えにきたわ」


 突然に声をかけられて振り向くと、いつの間にかドアが開いていて、そこに女性が立っていた。僕よりも少しだけ背が低い。黒い髪が艶やかに輝いていた。

 ドアが開く音がしなかった。それとも、僕が気づかなかっただけだろうか。


「誰」


 僕の疑問に応えず、彼女は優しげに笑った。その黒い瞳はしっかりと僕に据えられている。僕は目をそらせなくなった。


「さ、帰りましょう」


 そして、僕は彼女に手を引かれる。彼女の手は僕の周りが何もかも冷たい中で、ひどく温かい。振り解こうと思ったときにはもう、歩き出していた。


「待って。どこに。僕の帰る場所はここだ」

「いいえ。あなたが帰るべき場所はここじゃない」


 思いがけず強い口調で、彼女は僕を引っ張ってゆく。彼女の血液の流れや体温が、握られた手を伝わってくる。まるで人間だと主張するかのように。

 拒むことができないまま僕は、彼女のふわりと揺れる黒い髪を追いかけた。




 彼女に手を引かれて歩く。先を行く彼女は冷たい風の中で白い息を吐き出していた。僕はその体温にすがるように、彼女を追いかけて歩く。

 周囲の景色はぼんやりとしていて、やっぱり僕は何も思い出せない。けれど歩いていくうちに、妙な予感というか不安のようなものが胸の中でざわめきはじめた。

 さっき公園で気づいてから、はじめて感じる引っ掛かりだった。自分の名前も、部屋も、何もかもが他人事のように遠くに感じられていたのに、彼女に手を引かれている今は、どこかに近づいているように思える。

 その先で、きっと僕は記憶を思い出すだろう。でも、それが怖かった。何か恐ろしいものが待ち構えているような気がしていた。

 僕が足を止めると、彼女は振り向いた。


「心配しないで。帰るだけだから」


 心細くなって僕は、小さく首を振った。彼女はまた優しげな微笑みを浮かべた。


「大丈夫、あなたの帰るべき場所なの。この先、もう少しだから」


 彼女は道の先を指さした。寒いせいだろうか、憂鬱な天気だからだろうか、他に人影は見えない。道には僕と彼女だけ。そして、冷たい空気の塊が、風になって僕の髪をなぶっている。

 それ以上、彼女は僕の反応を見ようとはしなかった。どこか、急いでいる様子にも見えた。


「行きましょう」


 また手を引かれて歩き出す。抵抗、できたのかもしれない。でも、彼女の手の温もりは僕の周囲の中で唯一の火のようだった。失ってはいけない、何か。

 そうして辿り着いたのは、墓地だった。誰もいない、ただ無彩色の墓が静かに並んでいるだけの中、彼女は迷うことなく進んでゆく。不意にその足が止まって「そこ」に辿り着いたのだと、僕にもわかった。

 彼女は墓石の脇に置かれた墓誌に視線をやった。きっとそういうことなのだと思いながら、僕も彼女の視線を追いかける。黒い石に刻まれた文字の羅列、その最後に最近追加されたであろう名前。

 その名前は、さっき免許証で見た僕のものだった。


「さ、帰りましょう」


 彼女が僕を振り向いて微笑んだ。その優しげな笑みの中に、どこか安堵するような色があった。それもきっと、僕を心配してのことだったのだろう。




「大丈夫、心配しないで。気づいたのなら後は帰るだけだから」


 そう言って、彼女は僕の手を両手で握った。燃えるような熱さが、僕に伝わってくる。そして、その熱が伝わってきた僕の体は、ほろほろと崩れて透明になってゆく。


「帰るって、どこへ」

「輪廻の中へ」


 彼女は真剣な瞳で僕を見上げた。受け入れた証拠に、僕はひとつ頷いた。彼女は安心したように首を傾ける。


「たまにね、浄化の途中で魂がさまよい出ちゃうことがあるの、あなたみたいに。でももう大丈夫、あなたは帰るべきところに帰るだけ」

「帰って、どうなるのかな」

「それこそ輪廻だわ。魂が完全に浄化されたら、また、いつか、どこかで」


 彼女の体温に崩れ落ちる腕を、僕は不思議な気持ちで眺める。さっきまでは恐怖すらあったのに、今感じるのは安堵だった。僕には帰るべき場所があるという。

 腕はもうすっかり崩れ落ちた。次は肩、胴体、頭。

 僕は最後に笑った。


「誰かわからないけど、見つけてくれてありがとう」

「どういたしまして。これが仕事なの」


 彼女は僕の方に一歩踏み出して、まるで止めを刺すように僕の透き通った体を抱き締めた。耳元で小さな声が「さようなら」と聞こえた。

 ああ、彼女の体が熱い。その熱に、僕の体は燃えるようだった。身体中を熱が巡り、体が崩れてゆく。

 僕の輪郭は溶けてゆき、意識も朧になってゆく。きっとこれが帰るということなんだろう。




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