アナザーステージ

花岸 伴

第1話

 こんなことなら走った方がマシだった。

 市崎彰洋は傍らに封筒を置いて、恨めし気に春の車窓を覗いた。駅の電光掲示板に黄色く書き添えられていた四分遅れの文字から嫌な予感はしていたが、まさか駅の目と鼻の先で五十分も電車がノロノロと足踏みするとは思っていなかった。自分の見通しの甘さに舌打ちして、彰洋は立ち上がりドアの前に移動した。

 ようやく駅に辿り着いた電車から飛び出し、彰洋は男子中学生らしい速度でホームから階段へ駆け込んだ。人込みと事務的な放送を掻い潜って、二駅前から握っていた切符を改札にねじ込み、扉が開くと同時に外へと地面を蹴る。


 平成九年三月二十九日。彰洋は運命を掴むために、前だけを見ていた。


 家族にも黙って大手アイドル事務所に履歴書を送り、先日書類選考通過の知らせが届いたのだ。動揺する家族を振り切って家を飛び出し、密かに調べていた交通手段と貯金を駆使して今に至る。

 転がるように駅から走り出ると、咲き始めた桜を眺めていた年配の男性と勢い余って危うくぶつかりかけた。男性は少年を諌めるように顔を顰めたが、走り去る彰洋はその険しい表情など眼中に無かった。

(早くせな、今日で人生かかっとるんや)

 彰洋は鞄に手をつっこみ、「あ」と間抜けな声を漏らした。書類を入れた封筒が入っていない。東京駅までは難なく辿り着いたが、一向に進まない電車の中で、焦りから何度も封筒を取り出していたのが裏目に出た。大方オーディション会場の場所が記された書類は、未だに電車の中で揺られているのだろう。

 だが時間に追われて街を走っている今となっては、地図を確かめる時間すら無い。彰洋は記憶の中で霞がかり始めた地図を頼りに目的のビルへと走った。




 地図で繰り返し読んだ名前を持つ低いビルは、のっぺりとしたコンクリートの壁から昭和の香りが色濃く漂っていて、ずんぐりと彰洋を見下ろしていた。歩道で立ち止まっている女性達の間を彰洋は強引にすり抜けビルへ駆け寄り、麓でぼんやりと立っていた警備員に、肩で息をしながら問いかけた。

「おはようございます、オーディションってどこですか!?」

 少年への対応に慣れているのか、警備員は何でもなさそうに三階だと答え、特に確認もせず彰洋をビルの中へ通した。

 飛び込んだビルの中は窓が小さいせいで薄暗く、低い天井と黒ずんだ緑のタイルの壁は酷い圧迫感があった。流れの止まっていた館内の空気を切って彰洋が辺りを見回すと、右横にひっそりと小汚いエレベーターが鎮座していた。彰洋は迷わず駆け寄って上昇のボタンを連打したが、傍らの表示は無情にも二階から上昇している旨を点滅させている。左腕の安物の腕時計を見やると、オーディション開始まであと五分を切っていた。

「走った方がマシやな」

 彰洋は一つ舌打ちすると、エレベーターの横の階段室に飛び込んだ。

 螺旋を描いて上昇する階段は、踊り場に取り付けられた蛍光灯二本では到底足りない暗がりの中にあった。たまに視界を過ぎる窓の外は春の柔らかい陽光が降り注いでいるのに、日当たりが悪いのか、ビルの内部は一筋の恩恵にすら浴せていない。だが密閉された室温は妙に蒸し暑く、一段飛ばしで三階まで駆け上がった疲労もあって、彰洋は上着のジッパーを開けた。

「やっと三階……で、会場どこやねん」

 階段室から飛び出した彰洋の目に煩雑な館内地図が飛び込んで、体力も気力も削ぎ落した。古い造りの館内はとぐろを巻いた廊下を挟むようにいくつもの部屋を連ねており、外から見た以上に奥行きがあって広い。開始時刻が迫っているせいか、有名事務所のオーディションだというのに周囲には全く人気が無い。

「警備のおっちゃん、なんで部屋教えてくれんかってん!」

 焦りから彰洋はイライラと吐き捨てるも、一番奥に記されている広い部屋に当りを付けて走り出した。しかし、角を曲がった瞬間、視界に大柄な作業服姿の背中が飛び込んで彰洋は素っ頓狂な声を上げた。

「うわ!?」

「あぶねえな!」

 作業服の男は、二人掛かりで大型の家具を運び出していた。男たちは短く怒鳴った後、怯んだ彰洋の姿を認めるとボソボソと言った。

「あぁ、すまん坊主。こっちは通れないから迂回してくれ」

 彰洋が男の運ぶ家具越しに向こうを見ると、一つの部屋から狭い廊下いっぱいに大量の家具を運び出している。エレベーターに向かって絶えず男が行き交っている様子からして、引っ越し中らしい。

「おい、気を付けて運べよ」

 作業着の男は彰洋を押しのけ、そそくさと家具をエレベーターへ運び込みに行ってしまった。慌ただしく行き交う業者たちは忙しそうで、彰洋が無理に廊下を通れば先ほどの様に怒鳴られるだろう。彰洋は後ずさってその場を離れた。

「やっぱし誰かに道聞かんと。スタッフの人とか居いひんかな」

 ふと、彰洋の視界の端に何かが翻るのが映った。スタッフか、あるいは自分と同じくオーディションに来た少年かもしれない。彰洋は一縷の望みをかけて、一直線にその先へ走り出した。角を曲がって元来た場所へ戻ると、長袖のワンピース姿の女性が彰洋が選んだ方向の真逆へ歩いて行くのが見えた。先ほどは裾が僅かに見えたのだろう、一歩踏み出すごとに肩の辺りで切り揃えられた髪が揺れている。彰洋は走りながら桜色の背中に迷わず声を掛けた。

「すんません!ここの方ですか!?」

 かなりの声量を張ったのだが、女性は我関せずと言わんばかりにスッと次の角に消えてしまった。女性の態度に、彰洋はむっとして走る速度を上げた。

「おい、シカトすんなや!」

 語気を荒げて今度こそ振り向かせようと壁の角を掴み、勢いよく次の廊下に出た彰洋は唖然として立ち止まった。

「……何なん?」

 一つ飛ばしの蛍光灯が照らす、誰もいない廊下が延々と伸びていた。

「どこ行ったんや、あの女……」

 ぼやきつつキョロキョロと両脇を見渡しながら進むも、固く閉ざされた無個性なドアが並んでいるだけだった。思い出したように小走りになって角を曲がりつつ進むも、相変わらず人の影さえ見えない。

「……えー……そろそろ……」

 次の角に出た瞬間耳に届いた声に、彰洋はハッとして腕時計を見た。長針は今にも予定時刻に辿り着かんとしている。

 最早女性に構っている暇はない。彰洋は声を頼りに目についたドアを勢いよく開けた。


「すんません、遅くなりました!」


 時間が止まったのかと錯覚するほどの沈黙が広まった。

「ホンマすんません、地図、電車に忘れてもて。そこで女の人に道聞こう思たんですけど聞こえんかったんか、ギリギリになってもて……」

 一気に話したせいで息が続かなくなり、彰洋は膝に手をついて俯き、深く息を吸った。そして、再び顔を上げた彰洋の目に映ったのは、先ほどまでの無人の廊下が嘘のような光景だった。

(ここが、オーディション会場……?)

 はじめに目に飛び込んだのは、こちらに奇異の眼差しを向ける部屋いっぱいの少年達だった。年齢は小学校低学年から高校生くらいだろうか。左胸に番号札を付けた少年達は、アイドルのオーディションに来ただけあって、皆それぞれ愛嬌のある顔立ちをしていた。たった今整列し始めたらしく、等間隔に並ぶ様は圧巻だ。

「いや、まだ開始時刻じゃない。問題ないよ」

 そう言って差し出された手に顔を上げると、今度はスーツ姿の大人の男性達がいた。いかにも働き盛りといった風体で、年齢だけで言えば少年達の父親と言われても納得できそうだ。再び差し出された男性の手を見ると、『49』と記された番号札があった。

「すいません、ありがとうございます。つけて良いですか?」

 男性がニッコリと微笑んで頷くのを確認すると、彰洋は札を受け取って安全ピンを上着に刺した。男性に促されて少年達の列の中央に入って正面を見ると、そちらの壁は一面鏡張りになっていると気が付いた。しかし、遅刻スレスレで駆け込んだ彰洋には、鏡越しに絶えず奇異の視線が注がれる。

(やり辛! なんか質問されたりするんかな?)

 緊張以上に居心地の悪さを痛感するも、これ以上下手を打つわけにはいかない。彰洋は軽く頭を振って前に立つ少年の旋毛だけを見た。

 やがて、一人の大人がラジカセを担いで少年達の前に現れた。こちらは先ほどの大人達とは打って変わって動きやすそうな、やけに目立つ迷彩の服を身に纏っている。彼は色の濃いサングラス越しに少年達を端から端へ見渡すと、ラジカセを足元に置いて軍隊の指揮官の様な声色で宣言した。

「では、これよりオーディションを開始する」

 ごくりと、唾をのむ音がそこらで聞こえた。

「最初は準備運動だ。怪我の無いよう、入念に準備するように」

 きょとんとする少年達を前に、大人は平然とストレッチを始めた。彰洋や一部の少年達は慌てて大人の動きに合わせ、見よう見まねで準備運動を始めた。未だに呆然と突っ立っている目の前の少年を邪魔に思いつつ、一通り準備運動を終えた頃には彰洋も周囲もわずかに息が上がり始めていた。

「では最初のステップから」

 簡潔に一言だけ述べると、大人は足を交互に動かし始めた。どうやら今からダンスの振り付けを覚えるらしい。

(覚えな、後でテストとかあるかもしれへん。しっかりせな)

 彰洋は大人の動きと鏡に映る自分を交互に見ながら、がむしゃらに動きを真似た。




「では、今日はここまで。夕方十七時には施錠をするが、それまで自由に使って良い」

 淡々と言ってラジカセを担ぐと、サングラスの大人は息一つ乱さずさっさと部屋を出て行った。扉が閉まる音を合図に、周囲の少年達が次々に床へ座り込んだ。彰洋も例に漏れず床に腰を下ろすと、袖で汗を拭って天井を仰ぎ見た。

 足のステップから始まり、手の動き。そしてラジカセから流れる音に合わせて。一曲丸々通して踊れるようになったと思えば解散を言い渡されてしまった。幸い確認のテストなどは無かったが、細かいズレやミスも軍隊のごとく即座にしごかれた今となっては安心材料にならなかった。

「なあ、自分も関西人なん?」

 不意に頭上から降って来た声に、彰洋は座り込んだまま頭上を見上げた。『37』の番号札を付けた、タレ目の元気そうな少年だ。青いサッカーチームのユニフォームや半ズボンから覗く細い四肢は日に焼けていて、見るからに健康だ。何より、あれほど強烈なダンスレッスンの後だというのに息一つ乱していない。少年は彰洋の隣にどっかりと座ると、周囲の視線も気にせず話し始めた。

「喋りそれっぽかったやん。あ、オレ藤倉充大フジクラ ジュウタな。ヨロシク。自分何ていうん?」

「……市崎彰洋、今年から中二。大阪出身や……ヨロシク」

 怒涛の勢いで喋りかけてくる充大に気圧されつつ彰洋は答えた。その返事を聞くや否や、充大は白い歯を見せて笑った。

「なんや、おない年やん。オレは一昨年まで神戸やで」

 カカカと笑いながら話す様子に、周囲の少年達も緊張が解けてきたのか、各々帰宅準備や雑談を始めた。充大は周りを気にも止めず、お喋りを止める気配もなかった。

「偶然やなぁ。彰洋は、なんで受けたん?」

「……金稼ぎたくて、履歴書送ってん」

 歯切れ悪い彰洋の一言に、充大はうんうんと頷いた。

「解るわー。アイドルで売れたらめっちゃモテるし金も稼げるもんな!」

 ええことづくめや!と笑い飛ばす充大に彰洋は負けじと呼び捨てを試みた。

「充大は?」

「クラスの女子が勝手に履歴書送ってん。この通り男前やからな」

 ツッコミ待ちの顔をする充大は、この調子で学校でも上手くやっているのだろう。近い未来学校充大がオーディションの様子を語るのを想像し、彰洋は小さく笑って肩を小突いた。

「仲ええな。なあ、疲れてへんの?」

「余裕やろ。まだ踊れるわ」

 充大は得意げに宣言すると、跳ね起きて覚えたてのダンスを踊ってみせた。しかし、どうも動きが妙だ。どうやら体の動きが時々逆になっているらしい。違和感を我慢できず、気分良さげに踊る充大に彰洋は立ち上がって指摘した。

「いや、ちゃうやろ。そこは右手がこっち向きで……」

 首を傾げている充大に解るよう、彰洋もぎこちなく踊ってみせた。しかし納得行かなかったのか、充大は同じ個所を繰り返した。

「ええ? そしたら次はこんなんなるで?」

 どうも、どちらかが間違えて覚えているらしい。彰洋は近くでこちらを見ていた小学生らしき少年達に声を掛けた。

「なあ、君。どっちが合ってたか覚えてへん?」

 突然中学生に話しかけられて驚いたようだが、少年達は直ぐに立ち上がって踊り始めた。

「えっとね、こうだよ」

 少年は踊り終えると、不安げに同年代の少年の方を見た。それを受けた少年達は控えめに首肯し、彰洋は得意げに言った。

「ほら見いや」

 片側の口角を上げて笑った彰洋に、充大は口を尖らせて手を振った。

「バテとった奴が何抜かしとんねん! な、次は合ってたよな」

 味方を増やそうと情けなくも小学生に詰め寄る充大が面白かったのか、少年達は次々と踊り始めた。

「こうだったよ」

「あ、それか!」

 自分たちより遥かに正確な踊りを前に、二人は中学生の威厳の欠片もなく夢中で踊った。二人のどちらかが間違えれば少年達はどっと笑い、正しいダンスを得意げに披露してみせる。二人も負けじとすぐさま動きを真似、いつの間に少年達は二人を中心に復習を始めていた。

 彰洋も充大も、皆が自然と夢中になっていた。だから突然扉の開く音と同時に飛び込んだ声に、全員が驚いて振り返った。

「よーし、リハ始めるぞ」

 続けて部屋に入って来た彼らの姿を認め、彰洋達は揃って口を噤んだ。

 オーディションに来た少年達とは比べ物にならないほど垢抜けた五、六人の少年達だった。誰も番号札を付けていなかったが、一目見て事務所のアイドルだと誰もが察した。少年達は値踏みするようにこちらを見渡し、最後に彰洋と目が合うとピクリと眉を動かした。しかしそれも一瞬、彼らはズカズカと室内に入ると、床に置いてあった鞄を容赦なく蹴り飛ばした。

 彰洋の右下の方から、「あ」という声変わり前の声が漏れる。彰洋が声の方を向くと、丁度弟と同じくらいの幼い少年が足跡の付いた鞄に駆け寄るところだった。彰洋が鋭い視線を少年達に向けるより早く、ドスの効いた声が隣から発せられた。

「おい、蹴んなや」

 充大が荷物を蹴った少年に詰め寄っていた。相手は充大よりずっと身長が高く、あどけなさの残るタレ目が見上げる形だったが、荒々しい方言と声質、それに何より怒りに満ちた表情は相手を怯ませるのに十分だった。背の高い少年が半歩下がると同時に、彰洋も充大の隣に仁王立ちした。すると詰め寄られた少年の背後から、別の少年が吐き捨てた。

「は? 先輩に盾突く気かよ」

「とっとと出てけよ、オレらのレッスンの邪魔なんだよ」

 やはり彼らは事務所の先輩アイドルだった。口々に投げつけられる言葉に、小学生達はすっかり怯えて、各々荷物を片手に逃げるように帰って行った。しかし、納得の行かない彰洋は口を開いた。

「だからなんやねん。さっきサングラスのオッサンが十七時

 彰洋の援護に、充大は気を大きくして揶揄した。

「せや、証拠見せろや。オレらはどかへんで」

「なんだと……!?」

 激高した大柄な先輩が、充大の胸倉を掴んだ。思わず後ずさった彰洋とは反対に、充大が片手で先輩の腕を掴んだ。


「やめろ。気が荒ぶってしまう」


 妙な言い回しに、先輩も彰洋たちも思わず声の主の方を見た。

 入り口に、更に複数の少年達が立っていた。全員の視線が注がれたのを合図に、中央の一際目立つ少年が髪をかき上げながら部屋へ入って来た。

「悪いね。この会場は今から僕たちが使うよ」

 かき上げた傍からバラバラと前髪の落ちる少年の顔は、いかにもアイドルらしく垢抜けていて、いけ好かない笑みを湛えていた。

「宮本くん!」

 充大を掴んでいた先輩が、勝ち誇った声で名前を呼ぶと、パっとその手を離した。あっけにとられた充大も思わず先輩の手を離してしまい、彼は直ぐに宮本と呼ばれた少年の方へ走った。そしてそのまま着替えを始めたり音楽を流したりと、平然と場所を占拠していく。

「なんやお前ら―――」

 暴虐な態度に声を荒げた充大に対し、宮本は口元に人差し指を当てて二人を制した。

「いけないよ、いけない。気が付かないかい?この高ぶりに」

「は?」

 含みのある言葉に、充大が困惑の声を上げた。妙な言動にまたしても面食らう二人に、宮本はこれ見よがしに肩を竦めた。

「……そうか、君達には感じられないんだね」

 宮本は二人に憐みの視線を寄越し、預言者のごとく言い放った。


「悪いことは言わない、今すぐ立ち去るんだ。この建物に憑いた幽霊の気が異様に高ぶっている」


「何ゆうとんねん」

「適当なこと抜かしてんとちゃうぞ」

 関西人の性が困惑に打ち勝ってしまい、彰洋も充大も流れるようにツッコミを吐いた。吐き捨てた言葉は二人の意図以上の気迫を少年たちに与え、解りやすく怯んだ取り巻きを一瞥すると宮本はやれやれと首を振った。

「君達、また声を荒げたね。幽霊というのは人間の『気』に反応するんだよ……そう、今の様な騒ぎにね」

 どんどん眉間に皺を寄せていく二人に、調子を取り戻した取り巻きが前へ出た。

「お前ら、さっきからナマイキだぞ!」

 二人が反撃するより先に、宮本が取り巻きを宥めた。

「まあまあ、彼らは今日来たばかりなんだから仕方ない。理解できるように話してあげよう」

 取り巻きが揃って口を噤み、彰洋達も思わず黙りこむ。宮本はキザったらしく肩を竦めると、神妙な顔で語り出した。

「このビルには、老人の地縛霊がいるんだ」

「……はあ?」

 たっぷり時間をかけた彰洋と充大がようやく吐いたのは、心底呆れた一言だった。あからさまに脱力した反応をどう解釈したのか、それとも聞いていないのか、宮本は滔々と語り続けた。

「悲しい男さ……丁度僕らぐらいの少年達に殺されたんだ。だから素行の悪い少年を憎み、今この瞬間も呪っているんだ」

 突拍子の無い話にどこから突っ込めばいいのか言いあぐねている二人に、取り巻き達が吠えたてた。

「さっきから騒ぎ過ぎなんだよ。宮本くんの言うこと聞いて、大人しく帰れよ 」

 中身の無い罵声を浴びて冷静さを取り戻したのは、充大が先だった。

「しょうもな。ええ歳こいて幽霊話にビビっとんのか」

「もうちょいマシな嘘つきいや」

 彰洋が吐き捨てた言葉に、宮本がピクリと眉を動かした。

「嘘をついてるのは、そっちだろう? 不吉な数字の、そこの君」

 宮本の言葉を合図に全員の視線が彰洋に注がれ、彰洋も思わず左胸に据えた49番の札を視界に認めた。

「49番君、事務所に戻って来たスタッフが噂していた よ……遅刻した挙句に言い訳をしたんだろう?」

 宮本が伸ばした手に、彰洋は心臓を掴まれた気さえした。遅刻こそしなかったが、何か口走ってしまったのだろうか。不安が彰洋を包み、口の中が渇いて反論が流れ出ない。しびれを切らした充大が口を開く寸前に、宮本が断罪の言葉を述べた。

「教えてあげるね。今日ここは女性立ち入り禁止なんだよ」

 勝利に歪んだ宮本の口元は、尚も彰洋をいたぶった。

「大手アイドル事務所のオーディション。ファンが紛れ込んだら大変だからね。入り口の警備員が女性を締め出してるんだよ。近くにオーディション生の保護者がいたのを見ていないとは言わせないよ」

 逆を言えば、警備員からすれば男なら拒む理由は無かったのだろう。今更ながら適当な仕事ぶりに納得が行った。しかし、短い黒髪を揺らす桜色の後姿は、彰洋の脳裏に鮮明に残っている。困惑する彰洋の沈黙を潤滑油に、宮本はペラペラと話し続けた。

「スタッフは『不審者かもしれない』って言っていたけど。僕に言わせれば、嘘は見逃せないね」

 それを弾劾の合図に、取り巻きが口々に声を上げた。

「お前終わったな、練習なんか無駄だし帰れよ」

「くだらない嘘を吐くようなヤツが歯向かうんじゃねえよ」

 約束された勝利を免罪符に、次々と罵声が彰洋に降り注いだ。

「いや、おかしいって。オレはホンマに声かけて……」

 歯切れ悪く反論するも、その証拠を見せることが出来ないのは彰洋が一番理解していて、圧倒的な数を前になす術もない。

「だから女は入れる訳ねえっつてんだろ。お前の嘘じゃなきゃ説明がつかねーじゃん」

「それこそ幽霊かもな」

 不意に突き刺された擁護の声の方を見下ろし、彰洋と充大は思わず目を見開いた。

 芯のある声とは裏腹に、可憐な姿があった。周囲より頭一つ低い背格好も相まって、その少年は一見すると少女に見えた。くすんだ金髪はボブカットと言っても差支えが無い少し伸びたショートカット。瞳は子猫の様にパッチリと大きく、潤沢なまつ毛で縁取られている。身長に見合った華奢な体躯は線が細く、まるで陶器の人形のようだ。

 しかし、その一つ一つが不思議とその場の少年達を畏怖させた。金髪の少年は周囲の動揺をものともせずに彰洋と宮本の間に進むと、振り返って宮本達を睨み上げた。相手を見据える瞳は獣の様な炎が灯り、引き結んだ唇は今にも咆哮を上げるかのように思えた。

 しかし金髪の少年は吠えることなく、冷徹に先輩達へ言い放った。

「お前らが幽霊がいるってんなら、ジジイとは別の幽霊が居てもいいじゃん」

 違うのか、と言外に問う金髪の少年の視線に、宮本はとっさに何も言い返せずにいた。代わりに、取り巻きの少年が憎々し気に呻いた。

「空也……宮本くんに盾突く気か?」

「別に。おい、行くぞ」

 空也と呼ばれた金髪の少年は鼻で笑うと、彰洋と充大に向き直った。空也の圧に推され、彰洋と充大はほとんど無意識にその後を追って建物を後にした。




 三人の少年を乗せたエレベーターは、無言の空気が充満していた。空也は扉の方を向いていて表情が見えないが、息苦しさを感じているのは傍らの充大も同じらしく、やけに遅く点滅する階数の表示を見たりしていた。

 エレベーターが地上に降り立っても、空也は何も語らない。出口へずんずん進んでいく小さな後姿に、充大が声を掛けた。

「なあ、ええのん?」

 戸惑いと気まずさが溢れる充大の問いに、空也はビルの外から振り返った。くすんだ金髪が太陽の光を受け、彼そのものが輝いて見えた。空也は形の良い瞳を不敵に細めて言い放った。

「あいつ最近調子乗ってるからな。気に入らねーし吹っ掛けた」

 愛らしい見かけによらず、反骨的な言い草だった。その豪胆さに面食らった充大に代わって、彰洋が続けた。

「立場とかあるんちゃうん?あいつなんか偉そうにしとったし、取り巻きも多いやん」

「どーでもいいだろ。つーかそこまで解っててケンカ売ったのはお前らじゃん」

 空也は二人さえも鼻で笑い飛ばした。どうやら空也は宮本達以上に曲者らしい。

「お前は―――」

「空也、御影空也ミカゲ クウヤ

 お前呼ばわりが空也は気に入らなかったらしい。威圧的に見上げる眼光に、充大は一度言葉を区切った。

「……空也は、オレ達に付いて得することないやん」

 その意見には彰洋も同感だ。先ほどのやり取りを見ても、宮本が少年達の間で立場を築いていることは確かだ。そんなものから離反して、何の実績もない二人の味方に付いたところで、立場が弱まるのは明らかだ。考え無しか、策があるのか。彰洋は注意深く小さな少年を観察した。

 突然、にわかに周囲がざわついた。空也の背後に視線を移すと、数人の少女達が空也の背中を指さして何やら色めき立っている。耳を澄ませるまでもなく、「あの子、もしかして……」「え、隣の子誰?」「やば、クーヤじゃん」と、明らかに空也へ向けた言葉が聞こえた。彼女達に振り向くこともなく、空也はパーカーのフードを被ると、彰洋に耳打ちした。

「オレ人気あるし」

 空也は小さく合図すると、足早に路地裏へ駆け込んだ。思わず続いて走る二人の背中に、少女達の黄色い声がはっきり聞こえた。思い返せば空也が彰洋たちの側に付いた途端、宮本の取り巻き達は目に見えて動揺していた。状況からして空也の言葉に嘘はないようだ。

 空也は慣れた足取りで別の通りへと出ると、そのままコンビニへ入った。有事の時の、馴染みのルートらしい。空也はジュースを物色しながら軽やかな傲慢さで続けた。

「あいつらはオレの顔を使って売れようとしてるだけだ。何時捨ててやろうか考えてたとこだし」

 少年たちの暗躍を悠々切り捨てる空也の様子は、なるほど損得とは無縁の行動だ。恐らく空也の指摘することは少年たちの企みの一面に過ぎないだろうが、彼の容貌は素人目にも価値が見て取れる。ふと、充大が問いかけた。

「それはそうとあれ、何なんや?幽霊がどうとか」

 充大の言う「あれ」とは、宮本の話だ。彰洋もとっさに面食らってしまったが、あの自信と言い到底無視できない。深刻に構える充大とは対照的に、空也は興味なさげに答えた。

「なんか最近急に言い出したんだよ。絶対嘘だけどな」

 空也は三本のコーラ缶を充大に押し付けると、今度はお菓子の棚を物色し始めた。

「ワケわかんねーしチビ達もビビるけど、先輩達が面白がるから放ってたんだよ。でも出しゃばるから目立つし、いつの間にか取り巻きも出来てたってワケ」

 鬱陶しそうに語る空也曰く、知らない間に自身も宮本の取り巻きとして巻き込まれていたそうだ。先ほどからの自由奔放な行動からして、勝手に頭数として利用されていたのは我慢ならないのだろう。今更ながら、切り捨てるタイミングを見計らっていたことも彰洋の腑に落ちた。

「まあ……見方によっちゃ、変なこと言うヤツはおもろいからな」

 充大は彼なりに合点が言ったらしく、不本意そうに頷いた。本来誰とでもフランクにやっていける充大としては、宮本の長所を理解することも容易い。しかし、空也は唇を尖らせて数個のお菓子を充大に持たせるとレジへと引っ張った。

「オレは面白くねー。あいつ、ああやって後輩潰しに必死なんだぜ。マジでダセェ」

 成り行きでレジに立った充大は、喋りはするものの微動だにしない空也の代わりに財布を出した。見かねた彰洋は横からコーラ一本分の小銭をカルトンに置いた。

「ほな、何で動かんねん」

「は?」

 彰洋の声に空也が顔を上げた。人形のように黒目がちな瞳が鋭い眼光を放ち、思わず充大がすくみ上がるほどの威圧を見せた。彰洋は怒気の炎を燻ぶらせる小さな影を見下ろし、自分の分のコーラを取って続けた。

「要は誰もアイツを止めんかったから、のさばったんやろ。気に入らんなら潰したええやん」

 三人の沈黙の中、レジを打つ音だけが不規則に鳴った。彰洋と空也を交互に見ながら充大が残りの代金をカルトンに置くと、店員が溜め息交じりに大量の小銭が乗るカルトンに手を伸ばした。

 引き摺られるカルトンが突然大きな音を立てて止められた。反射的に彰洋が目を向けると、空也が千円札を叩きつけていた。

「……良いぜ、乗った。真っ向切ってやってやるよ」

 空也が彰洋を見上げ、不敵に笑っていた。空也はそのまま充大を見上げると、低い声で放った。

「おい、お前もだぜ」

「お、おう。乗りかかった船や……てか、ケンカ売ってもたしな」

 いささか不本意そうだが、歯向かった時点で充大は宮本達に擦り寄るのはプライドを踏み潰すのと同義だ。どの道、事務所を離れるか空也と彰洋に従うしかない。

 迷惑そうな顔の店員を背にコンビニから出ると、空也は二人に「そういえば」と切り出した。

「オーディション、ダンスレッスンだっただろ」

「ん?せやったで」

 コーラを取り出しキョトンと答えた充大に、空也はなぜか目を閉じて深く頷いた。

「そうか。死んでもフリ忘れんなよ」

 プルタブを引いた瞬間、充大にめがけてコーラの泡が噴き出した。泡に四苦八苦する充大を放っておいて、彰洋は空也に問いかけた。

「何や、忘れたら殺されるんか?」

 空也は待っていましたと言わんばかりに、例の不敵な笑みを向けた。

「オレは殺さねえよ。でも生き残れねえからな、覚悟しとけ」




「生き残れない……か」

 空也に言われた一言を反芻しながら、彰洋は行きとは打って変わってぶらぶらと街を歩いていた。三人でコーラ片手にお菓子をつまんだり、電話番号や住所を交換するうちに、いつの間にか夕刻も過ぎていて、空也と充大を見送った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 ぼんやりと歩いていると、自然と一日の出来事が頭を巡った。時間に追われて走り、ダンスを叩きこまれ、充大と知り合い、先輩と喧嘩した。彰洋のアイドル人生は、想定より遥かに波乱の幕開けになってしまった。

 ふと見上げると、夜闇から彰洋を庇う様に、桜の花が一面に咲いていた。この街はやけに桜が多い。地元はまだ開花前だが、東京は一足早く花の盛りを迎えている。

 彰洋は羽織っていた上着のフードを被り、夜の街を進んだ。




 オーディションの翌朝。欠伸をしながら彰洋が駅前を歩いていると、反対側から歩いて来た充大に手を振られた。

「よう、彰洋も呼ばれたんやな」

 真っ直ぐに駆け寄る充大に、彰洋も軽く手を上げて応えた。充大は彰洋の元へ着くなり、やけに興奮してまくしたてた。

「ヤバイな、テレビ局とか初めて行くわ!彰洋、オレらもしかしてテレビ出るんかな」

 喋り続ける充大に倣って切符を購入し、彰洋は適当な相槌を打った。充大が何を言っているのか解らないが、話の内容からして仕事の事だろう。

 二人で地図を見ながらテレビ局に辿り着き、職員らしき人間に案内され、同じ年頃の少年がひしめく部屋へと通された。室内には充大以外にもオーディションで見た顔が散見されるが、人数が三分の一程に減っていて、合格した者のみ呼び出されたのは明らかだった。

「落ちたら連絡すら貰えんらしいで」

 充大の一言に身震いしていると、背後から声を掛けられた。

「オレは落ちたことねーから知らねえけど、そうらしいぜ」

 振り向くと、空也が片手を上げて部屋に入ってきていた。したり顔で会話に入って来た空也は相変わらずの自信だ。改めて周囲をよく見ると、宮本やその取り巻き達の姿もあり、遠くからチラチラと彰洋たちを見ていた。合格者だけでなく既存の研修生たちも集められたとなると、辺りの華やかさはオーディションの時の比ではない。

「もうちょい余裕持って連絡してほしいもんやけどな」

 充大は寝癖の目立つ髪を両手でしきりに抑えている。随分急に呼び出されたらしい。

「というか、何するん?」

 彰洋の疑問が充大を現実に引き戻した瞬間、突然辺りがざわめいた。再び入口を見ると、事務所のスタッフらしい数人の大人達が入ってきていた。スタッフ達は何やら大きな段ボールを運び込んできている。宮本達は慣れた様子でそちらに近づくと、それぞれ箱に手を付け始めた。箱の中身が明らかになると、彰洋と充大は思わずあっと声を上げた。

 少年たちが手にしているのは、シンプルなステージ衣装だった。驚きを隠せずにいる二人を見て、空也はにやりと笑った。

「喜べ、初仕事だぜ」

 立ちつくしていた彰洋をはじめとするオーディションの少年達にも、スタッフから衣装が手渡された。無地の白いTシャツに蛍光ブルーのベスト、少し彩度を落としたブルーのズボンだった。サイズはどれも同じで、彰洋と充大は何とかウエストを締め上げて身に纏い、空也や小学生の子供はさらに裾を折ってそれらしく整えた。

「全員、注目!」

 よく通る声に彰洋をはじめとするオーディション合格の少年たちは揃って竦んだ。全身に蔓延っていた疲労や、容赦なく浴びせられた怒号が蘇る。恐る恐る声の方を向くと、忘れたくとも当分悪夢にうなされるであろう極彩色の仁王立ちが見えた。

「うわ、軍曹じゃん」

 低い声で空也に軍曹と呼ばれたのは、オーディション時に彰洋と充大達に振り付けを叩き込んだ大人だった。空也も宮本達も少し息を潜めた様子や、影でつけられたであろう『軍曹』の異名は事務所での彼の地位を雄弁に物語っていた。軍曹はジロリと少年たちを一瞥すると、号令のごとく腹から声を出した。

「振り付けを完璧に覚えている者は挙手しろ」

 彰洋と充大は揃って勢いよく手を上げた。空也に釘を刺され、彰洋は二人と別れた後も振り付けの復習を行っていたのだ。他にも数人の少年が手を上げたが、俯いてソワソワしているだけの少年も多くいる。

「では、踊れる者は俺に続け。それ以外は右のスタッフの指示に従え」

 軍曹は短く言い切ると、背を向けてスタスタと歩き始めた。慣れた様子で続く宮本達に遅れまいと彰洋達も続くと、ひと際大きな部屋へ通された。

 いや、そこは部屋では無かった。

 目の前には巨大な台、そこへ向けられた無数のカメラと照明。奥にのっぺりと広がる、これまた巨大な背景の板。そして、それと向き合う様に遥か上の天井まで敷き詰められた巨大な階段型の客席。

 テレビで見てきた『舞台』がそこにあった。

「三十分後、このスタジオで歌番組の収録だ。お前たちはバックダンサーとしてついてもらう」

 全身にブワリと鳥肌が立った。

 当分は立てないと思っていた舞台に、彰洋は立つのだ。

 ふとステージの脇に目を移すと、カメラから見えないような場所に手を上げなかった少年たちが立たされて、右手だけを振り続ける様に指示されている。空也が「振り付けを覚えていろ」と口酸っぱく言って意味を理解し、彰洋と充大は揃って身震いした。

 改めて舞台を見渡し、充大は無数の照明に目を細めた。

「これが、週末少年のスタジオか……! にしても、すごい舞台やなあ」

「せやな、練習した曲も聞いたこと無いし」

 自分たちがダンスだけをするなら、他に歌う人がいるのだろう。まさか宮本達かと眉を潜めた彰洋に充大が返事をした。

「いや、あの曲は……」

「おや! もしかして新しい子たちかい! ヨロシク!」

 充大の言葉は、底抜けに明るい声にかき消された。声に驚いた彰洋が振り返ると、宮本達とは比べ物にならないほど端正な顔立ちの少年がブンブンと大きく手を振っていた。

 五人の少年達だった。彼らはシルバーやビニールの素材でできた、まるで宇宙服の様に近未来的で華麗な衣装を纏っていた。しかも、その一人一人がとんでもなく煌びやかなオーラを纏っている。あっけにとられる彰洋の隣で、充大が叫んだ。

「Jet SHOTやん!?」

 頷く空也とは反対に首を傾げる彰洋に、充大が熱くまくし立てた。

「知らんのか、去年結成されて、この春デビューの五人グループ、Jet SHOTやで!」

 充大の説明に、彰洋は段々と話が見えてきた。どうやら自分たちは彼らのバックに付くらしい。そういえばオーディションで踊った曲もどこか近未来的な雰囲気があった。

「説明ありがとう少年! 正にその通り、俺たちがJet SHOTさ!」

 充大の熱にも負けない勢いで、最初の少年が彰洋の前に颯爽と現れた。近くで見ると背丈は彰洋より少し高く、猫の様なツリ目が印象的な黒髪の現実離れした造作の少年だ。その美しさ通りの、一言ごとに薔薇が舞い散るような調子で、少年が続けた。

「紹介しよう、俺が早海一夜ハヤミ イチヤでこちらのクールガイが木下夏季キノシタ ナツキ。そこの日焼けしたナイスガイが金城将悟で、キュートなボーイが熱田秀時。そして舞台袖のミステリアスボーイが土橋和真さ」

「妙な紹介をするな」

 彰洋としては一夜の妙な紹介をもう少し聞きたかったのだが、一夜は夏季と呼ばれた生真面目そうな少年に引き摺られて去っていった。その後姿を、宮本達がやけに冷たい目で追っている。未だに熱が冷めやらずJet SHOTを目で追う充大を差し置いて、彰洋は空也に耳打ちした。

「やっぱ他のヤツのデビューって気に入らんもんなん?」

 空也は一瞬目をぱちくりとさせたが、彰洋が宮本達を指さすと、ああと気の抜けた返事をした。

「んー、そうだな。でも一夜君は先輩だし、オレ達はオレ達じゃん?」

 真っ直ぐと目を向けてくる空也の言葉に嘘はなさそうだ。納得が行ったところで、軍曹の号令が響いた。いよいよリハーサルが始まる、彰洋たちは我先にと声の元へ走った。




 高鳴る心臓に意識を奪われないよう、舞台袖で彰洋は密かに息を吐いた。リハーサル中、登場した時の調子で大騒ぎして夏季に張っ倒されていた一夜は、今は一言も発していない。しかし、そのシルエットからは言い表せない迫力を彰洋たちに感じさせた。

 リハーサルで指示されたとおり、Jet SHOTのほぼ後ろに空也、そこから宮本など数人を挟んで丁度対称の位置に彰洋と充大が立つ予定だ。そのため、前奏が始まると舞台の正面にJet SHOTが登場し、Bメロで彰洋や宮本は上手から、空也と充大は下手から登場する手はずだ。

 振り付けは完璧に叩き込んでいたため彰洋たちはリハーサル中問題なく踊れたが、袖からでも客席に人の気配を感じ異様な気分になる。

「本番よーい……」

 スタッフの声に、全員が息を止めた。

 スポットライトが視界を真っ白に染め上げた。

 客席から歓声が上がり、繰り返し聞いた前奏にのって、五人の歌声が響いた。

『キセキ・カナエル・コノテデ―――』

 近くから舌打ちが聞こえ、彰洋は思わず辺りを見回した。音の出どころ見ると、機嫌の悪そうな宮本の取り巻きと目が合った。

「何見てんだよ」

 低く挑発する少年に言いたいことは確かにあるが、スタッフもいるし何より出番直前だ。彰洋は少年を無視して舞台に目を向けた。その瞬間背後から嘲笑が聞こえ、片足に衝撃を感じた。

 踵を蹴られた。この大人数では足が当たろうがスタッフには見えない。陰湿な、慣れたやり口のようだ。彰洋は何事も無かったかのように、いかにも真剣そうな顔で予定通りステージへ走った。

 スポットライトで目が眩むが、位置に着くと同時にタイミング通りポーズを決める。軍曹に叩き込まれ、充大と練習したダンスを記憶通りこなしていく。ふと視界に一夜が入った。ダンスをしていなければ釘付けになってしまいそうな姿が一秒ごとに脳裏に焼き付く。

 一夜がターンする瞬間、彰洋と目が合った。一瞬だけ一夜が微笑み、そのまま振り付けに紛れて手を客席へ差し伸べた。伸ばされた手の先で、歓声が上がる。同時に曲が終わり、彰洋は肩で息をしながら、ようやくまともに客席を見た。

 客席のファンたちが、割れんばかりの拍手と笑顔をこちらへ向けていた。その表情一つ一つが、はっきりと見える。

 想像とは比べ物にならない感動と興奮が伝わる。いや、伝わって来ただけではない。バクバクと鳴る心臓を抱えて両手を振りながらステージ裏へ捌けた後も、両足が綿を踏んでいるように現実が無かった。

「魅せられたようね」

 突然大人の声で話しかけられ、彰洋は驚いて顔を上げた。すると目の前に、やけにギラギラとした背の高い大人がいた。ステージ衣装では無いが派手な服装に、それに負けないバッチリとメイクで彩られた美しい顔。しかし、存在感を放つ喉仏とヒールだけでは説明のつかない背の高さは男性のそれだ。どう見ても普通の人ではないが、彰洋は突然話しかけてきたこの人物に既視感があった。

「貴方は……」

「お疲れ様でーす! あ、君もお疲れ!」

 後ろから異様に元気な声で話しかけられ、彰洋がまたもや驚いて振り返ると、一夜がブンブンと手を振りながら近寄ってきていた。クジャクの様に飾り立てられた男と流星の如く近寄ってくる美少年に彰洋が後ずさると、丁度その先に空也と充大が立っていた。充大が一夜たちに聞こえないように、空也へ耳打ちした。

「あのオカマ誰?」

「うちの副社長。逆らわない方がいいぜ」

「ちょっとアンタ」

 さらりと言ってのけた空也に充大共々愕然としていると、再び声を掛けられた。振り返ると、あの短時間で一体何が起きたのか、副社長が一夜の首根っこを掴んで彰洋へ一直線にツカツカと近づいてきていた。

「アンタ、市崎彰洋ね?」

 カツン、と一際大きな靴音を立てて三人の前に立ち塞がった副社長は、年齢こそ感じさせたが、それを凌ぐほど圧のある整った顔立ちで彰洋を見下ろした。

 ―――事務所に戻って来たスタッフが噂していた よ……遅刻した挙句に言い訳をしたんだろう?―――

 不意に宮本の言葉が過り、彰洋だけでなく充大もその場に凍り付いた。昨日駆け込んできた件について話があるのだろうか。もしかすると宮本が何か手を回していて、処分なり何なりされるのかもしれない。だとすると、彰洋のアイドルの夢もここで終わりということだ。

「はい」

 彰洋はせめて最後だけは心残りなくしようと開き直り、ケンカ腰の勢いで返事をした。

「そう」

 彰洋に鋭く睨み上げられ、副社長が深く息を吸った。そのまま、カッと目を見開いて見下ろされ、彰洋は思わずたじろいだ。

「聞いてた通りね、アンタ物凄く美形だわ!」

 時が止まったかと思った。

 固まる少年達を差し置いて、副社長は懸河の弁をふるった。

「ホントなんで今まで誰にも見つからなかったのかしら、もっと子供の頃から磨き上げたかったわ! 癖のある黒髪も、鋭い瞳も他には絶対お目にかかれない、まるで宝石よ! ダンスはいまいちだけど、ミスは無かったし物覚えは悪くなさそうね」

 助けを求めて周囲を見たが、充大は同じように呆気にとられ、空也は我関せずとそっぽを向いていた。副社長に掴まれている一夜は親指を立ててウインクしてきた。最後の奴はひとまず無視だ。

「あの、えっと……」

「何? アタシの顔に何かついてる?」

 彰洋は何とか副社長の話を堰き止め、再び顔をよく見た。華やかなメイクや服装で記憶と違うが、彰洋は思い切って問いかけた。

「勘違いだったらすんません、もしかして城田星也さんですか?」

「あら、よく知ってるわね」

 副社長はようやく普通のトーンで返事をしてくれた。納得がいった彰洋の隣で、充大が驚きの声を上げた。

「本物ですか!? 嘘、一世を風靡した伝説のアイドルやないですか! 引退後一度も表舞台に出てないって……まさかプロデュースに回ってはったなんて……」

「君達、詳しいね!」

 興奮してまくし立てる充大をしげしげと見ながら、一夜が感歎した。

「そうね。アタシのファンの子達が貴方達のお母さん世代……もう少し若いかしら」

 懐かしそうに呟く副社長は全く美貌に衰えを感じさせない。彰洋は神々しさすら感じる姿を、ほとんど口を半開きにして見上げた。暫し思い出に浸っている様子だったが、副社長は彰洋に問いかけた。

「そんなことよりアンタ、今日よく来れたわね。電話も繋がらなかったのに」

 彰洋はギクリと口元を引き締め、充大が不思議そうに首を傾げた。空也の怪訝な視線を感じながら、彰洋はすぐさま眉を八の字にして副社長に答えた。

「すいません、電話番号実家のしかなくて……」

 一夜が不思議そうに口を挟んだ。

「地方から来ているのかい?」

 地方という言葉が必要以上に重く響き、彰洋は一瞬言葉に詰まったが、自然を装って続けた。

「はい、実家は大阪です。昨日は親戚の家に泊まっていたんで……」

「へえ、この辺に親戚おったんや」

 興味深そうに言う充大に、彰洋は無言で頷いた。副社長は一瞬だけ深刻な顔をすると、目を伏せて溜め息を吐いた。

「そう、じゃあ昨日のレッスン場の向いの事務所にスタッフがいるから、予定を伝えるように話をつけておくわ」

「ありがとうございます」

 彰洋は緊張していた表情を緩ませて礼を述べた。そんな様子を気にせず副社長は腕時計を一瞥して歩き始めた。

「それとアンタ達、次は雑誌の撮影だから済んだららレッスン場まで連れて行くわ。着替えて下で待ってなさい」

「俺も後で向かうね!」

 副社長と一夜を見送り、彰洋は充大の肩に手を置いて言った。

「ほな、よろしくな親戚」

「え?」

「泊めろ」

 隣で空也が吹き出した。




「まさか昨日野宿しとったんか?」

「いや、駅とかコンビニとか歩いてた」

「根性あんじゃん」

 くだらない会話をしつつ雑誌撮影と着替えを終えた彰洋達は、今朝来た時の記憶を頼りにテレビ局の出口へ向かっていた。宮本達が例の目でその様子を見ているが、三人とも頑なに無視を貫いた。しかしその姿勢は外へ出た瞬間に崩れ、彰洋達はギョッとして立ち止まった。

 テレビ局の外に様々に着飾った女性たちが群がっていて、一斉にこちらを向いたのだ。

 服装や髪形を煽情的に飾り立てていて、巨大な団扇や名前を書いたフリップを手にしている。あまり愛嬌の無い顔は明らかに芸能人ではなく、恰好からして事務所アイドルのファンだ。よく見ると警備員が必死に彼女たちの通せんぼをしている。どうやら扉が開くまで、フリップに書かれた名前のアイドルを待っていたらしい。彼女たちは彰洋達を目にした瞬間、眉間に皺を寄せて烈火の如く罵声を上げた。

「誰だテメー!」

「アンタなんか目当てじゃないっての!」

 怒り狂いながら警備員を押しのける勢いで近づいてくる集団にたじろいた彰洋達の背後から、聞きたくもないキザな声が聞こえた。

「ごめんね。みんな、来てくれてありがとう!」

 彰洋達を押しのけて颯爽と宮本が登場すると、集団は打って変わって歓声をあげた。出口から引き返し、騒ぎから逃れた充大が彰洋達に小声で話しかけた。

「あいつファンおったんやな」

「まーな、腐ってもJet SHOTとは同期だし。見ての通りの人気だぜ」

 つまらなさそうに答える空也は、いつの間にかパーカーのフードを目深に被っていた。ファンの罵声か宮本達と同行では、天秤にかけるまでも無いという意思表示だった。

 ほとんど局の内側に入ってきているファンに囲まれたまま、宮本がわざとらしく振り向いた。彰洋と視線が合うと、これ見よがしに嘲笑してみせる。思わず口元がヒクリと引き攣った瞬間、彰洋は背後から凄まじい勢いで体当たりされた。

「イッチー探したよ! 地下に車停めてあるからレッスン場へ行こう!」

 帽子を目深に被った、地味な眼鏡の少年が抱き着いていた。軽くよろめく程度で済んだのは、同じく眼鏡の少年が首根っこを掴んで止めたためのようだ。しかし、黒縁の眼鏡に隠されていた二人の顔を見た彰洋はハッと声を上げた。

「早海さんに、木下さん……?」

 夏季は一夜を引き剥がしながらクールに答えた。

「そう畏まらなくていい」

「一夜と夏季でいいよ、俺達イッチー同士じゃないか! さあ一夜、発進!」

 変装にも突然付けられた渾名にも言いたいことがあり過ぎて、戸惑う彰洋はなす術もなく一夜に肩を組まれ集団の鼻先を突進しかけた。

「いやいやいや無理やて! 目の前見てくださいよ!」

 慌てて一夜を止める充大の肩越しに、夏季が一夜の旋毛にチョップを入れた。手慣れた流れからして、一夜の暴走は通常運転らしい。夏季が何か言いかけた時、少年たちに大きな人影がかぶさった。

「問題ないわ。まったく、お行儀のなっていないお嬢さん達だこと」

 影の主を見上げると、まるでハリウッド女優の様な出で立ちで副社長が立っていた。いや、それだけではない。副社長は周囲にボディーガードの様にガタイの良い男たちを従えていた。あっけにとられる彰洋と充大に代わって、一夜と夏季が男たちに声を掛けた。

「今日は、ありがとうございました!」

「またよろしくお願いいたします」

 流れるような二人の謝礼に、彰洋は驚きそのままに尋ねた。

「この人らスタッフさんなんすか!?」

「衣装さんとメイクさんだぜ」

「筋肉量おかしいやろ!」

「ウソだからな」

「いや結局何者やねん!」

 空也と充大も混ざって騒ぐ少年達に、勢いの良い副社長の号令が響いた。

「アンタたち、突っ切るわよ!」

 その言葉を合図に、一斉にスタッフ達が彰洋達を取り囲むように移動した。屈強なスタッフ達は一夜や彰洋達を取り囲んだまま、群衆を跳ね飛ばす勢いで進み始め、彰洋達もほとんど小走りで続いた。ファンたちは勢いに慌てて避けていったが、一夜の姿を目視出来なかったのか、捨て台詞を吐いたり去っていく宮本に縋ったりしていた。

「この勢いじゃ、昨日もホンマに女立ち入り禁止に出来そうやな」

 充大の一言に、彰洋は不本意ながら頷くしかなかった。




 レッスン場に辿り着いた彰洋達を待っていたのは、軍曹による有名な先輩アイドル曲の振り付けの訓練だった。新入りの彰洋達が基本を学ぶ隣では、空也が宮本達と共に別の曲を練習している。空也は不満そうだが、とっくに覚えている曲を学ぶわけにもいかず、半ば機械的にステップを踏んでいた。一夜達はというと、このレッスン場には入所すぐ以来訪れていなかったと話していて、車から降りるなり「久しぶり!」と騒ぎながらどこかへ行ってしまった。

 少しだけ与えられた休憩時間中、彰洋達は空也と窓辺で、宮本達は壁沿いのロッカーに背を預け、それぞれ仲間内でたむろしていた。

「だから、幽霊というものはだね」

「またやっとるな」

 宮本は雑誌撮影の時も隙あらば心霊話を続けていた。辺りに響く大声は彰洋達の会話を遮り、小さな子供たちを竦ませ、いい加減辟易していた。それに、宮本だけ話しているならどうでもいいが、取り巻き達も話を盛り上げるから質が悪い。

「文句あるなら言ってみろよ」

 充大の一言が聞こえたらしく、取り巻きの数人が近づいてきた。昨日口答えしたことや、テレビ局で彰洋だけ副社長に声を掛けられていたことで、完全に敵認定されたらしい。一夜と夏季が傍にいない今を好機と踏んで寄って来たのだろう。彰洋は座ったまま彼らを睨み上げると冷たく言い放った。

「言ってほしいん? ええ趣味してんな」

「訛り過ぎて何言ってんのかわかんねー!」

 彰洋の嫌味に被せた大声に、部屋に笑いがどっと響いた。彰洋は両手で髪の毛を直すふりをして、耳が熱くなるのを必死で隠しながら言った。

「えらい気の毒なやっちゃな、脳みそ働かんさかい自分らと違ごて何言ってんのか解らんとか」

「テメエもういっぺん言ってみろ!」

「分かってんじゃん」

 あげつらう空也に今度は取り巻きが顔を真っ赤にして肩を震わせた。充大が立ち上がり、二人の前に立ちはだかると、宮本がキザったらしく声を上げた。

「よさないか、霊が乱暴な君たちに苛立っているよ。ほら、老人が君を睨んでいる」

「先に突っかかって来たん、そこの金魚の糞やろ」

 言い返した充大に続いて、空也も身を起こした。彰洋達も宮本達もしばし無言で睨み合い、レッスン場は一触即発の空気に支配された。

「イッチー! コーヒー飲める!? 間違えて買ってしまったんだよ!」

 殺気立った空気は一夜の乱入で風向きを変え、取り巻き達だけでなく宮本も一夜を凝視した。彰洋と充大は戸惑ったが、一夜はそんな視線はものともせず、ブラックのコーヒーを突き付け突進してきた。彰洋が押し付けられたコーヒー缶を前に目を白黒させていると、遅れて夏季が入って来た。

 取り巻き達が舌打ちしながら一夜と彰洋達の前から離れていくのを見て、夏季が溜息を吐いた。

「一夜、空気を読め。コーヒーも自分で処理しろ」

「イッチーは立ち向かってるよ!」

 彰洋はコーヒーを一口飲むなり手の甲で口元を押さえた。

「苦っ」

「飲めないんじゃないか」

 呆れて缶を取り上げようとする夏季を一夜が制し、その隙に充大が手拍子を入れた。

「その意気や彰洋イッキせえ!」

「無理無理、空也行け」

 ブラックのコーヒー缶を回し飲みして悶える彰洋達に、宮本が捨て台詞を吐いた。

「君達、もう手遅れだよ。今に幽霊に呪われる!」

 宮本の演技がかった台詞に、振り返った一夜が成程と手を叩いた。夏季も嗚呼、と納得した声を出す。

「何だ、ここの幽霊の話か」

「懐かしいね! まだあったんだ!」

 二人の反応に、彰洋は目を見張った。

「一夜君、知ってんすか?」

 一夜は優雅に頷いて、夏季も懐かし気に話した。

「昔からあるんだ。確かここで幽霊を見ると怪我するってやつだろ?」

「ああ、先輩達も言っていた」

 頭を殴られた様な衝撃で彰洋達は何も言えなかった。むこうの方で、ほら見ろとばかりに宮本が勝ち誇った笑みを見せた。

(あの話、宮本の作り話とちゃうんか!?)

 宮本の幽霊話を一夜が裏付けてしまった。幽霊がいる証拠は無いが、怪談話が語り継がれている事実がある以上、彰洋達の旗色は一気に悪くなる。三人の焦燥を解っていないのか、相変わらず能天気な様子でいる一夜から目を逸らすと、接触の悪い蛍光灯の瞬きで目が眩んだ。

 その一瞬、視界の端に桜色が見えた。

「なんや?」

 彰洋は思わず呟いて淡い花の色彩を追った。色彩はドアのむこうを横切って去ったところだった。同時に昨日の記憶が一気に蘇った。桜色のワンピース、オーディションの日にいた女性だ。

「待てや、オマエのせいで俺はクビ飛びかけてんぞ!」

 弾かれたように走り出した彰洋をレッスン場にいた全員が注目した。彰洋はお構いなしに部屋を飛び出たが、廊下には既に誰もいなくなっていた。後からついて来た充大が怪訝な顔で問いかけた。

「なあ、彰洋。何してるん?」

「いや、昨日の女が―――」

「女だって!?」

 空也がやけに食いついてきた。妙に静まった背後に振り返ると、充大と空也だけでなく、一夜と夏季も不思議そうにこちらを見ていた。

「一夜、見たか?」

「まだ挨拶したレディはいないよ……?」

 首を傾げる二人に、小学生達の間から声が漏れた。

「もしかして……幽霊とか?」

 少年達がざわざわと話し始め、彰洋は血の気が引くのを感じた。

「落ち着きたまえ、ここにいるのは老人の幽霊だ、何度も言っているが」

「俺は別に―――」

 幽霊だとは言っていない。そう言いかけて彰洋は口籠った。相対する宮本の口元に嫌味な笑いが広がり、彰洋は下手を打ったことを悟った。

 幽霊に対する恐怖は微塵も無いが、全く別物の、どうしようもなく嫌な予感が足元から這い上がって来る。その予感は、宮本の声となって現れた。

「さては君、僕の真似をしているんだな?」

「はあ!?」

 充大が勃然と怒りの声を発した。しかし到底太刀打ちできない、津波の様な嘲りが三人を襲った。

「あーはっは、ダッセエな!」

「見え透いたマネすんなよ!」

 口々に罵る取り巻き達に、彰洋は一言も発せず立ち尽くした。自分の見た女は証拠が無くて、宮本の嘯く老人の幽霊は一夜達も昔から知っていて、自分は宮本と対立していて、自分の発言が宮本の猿真似になっていて。思考が飽和し零れ落ちて、踏ん張らないと足元からボロボロと崩れ落ちてしまいそうだ。

「憐れなことだ。醜い、酷い、見ていられない。じきに後悔することになるよ」

 大げさに吐き捨てる宮本に夏季が眉間に皺を寄せた。一夜が割って入るより先に、空也が野良犬の様な剣幕で吠えた。

「何つったテメエ!? ぶっ殺してやる!」

 怒気を爆発させた空也に、余裕綽々だった宮本が怯んで半歩下がった。しかし取り巻き達は反対に空也へ身を構えた。

「やめろ、空也頭冷やせ!」

 拳を振り上げた空也を充大が慌てて押さえて部屋から連れ出した。彰洋も我に返り、充大と共に空也を止めに入る。しかし、引っ込みがつかなくなった取り巻き達は雪崩れるように三人を追ってきた。呆気に取られていた一夜と夏季も即座に取り巻き達を止めにかかったが、二人掛かりで対処できたのはほんの一握りで、ほとんどが彰洋達を追って廊下へ出てきた。

「おい、逃げんなよ!」

「放せよ! クソが!」

 空也が力任せに腕を捻った拍子に、彰洋の左目の上を強かに打った。彰洋が顔を押さえて下がり、青ざめた充大が気を取られた瞬間、空也が二人の手をすり抜け取り巻き達の方へ飛び掛った。咄嗟に充大が手を伸ばすが、その手は空を切って終わった。

 空也が跳躍し、一回り大きい少年達に襲い掛かる。先頭の一人が空也の膝蹴りを食らって尻もちをつき、ドミノ倒しに斃れていく。しかし、猛々しい小さな背中は別方向から伸びた別の手に突き飛ばされて消えた。

 空也の姿が見えなくなるまでの一瞬、時間が止まったように辺りが無音になった。そして、少年一人がロッカーにぶつかる、けたたましく鈍い音が響いた。

「空也君!」

 部屋の中にいた一夜が青ざめ、空也の落ちた方へ駆け寄った。彰洋と充大も我に返ると取り巻きを押しのけてレッスン場に飛び込んだ。空也が消えた場所に目を向け、二人とも息を飲んだ。

 ロッカーに叩きつけられ床に倒れた空也の上に、夥しい量の荷物が落ちている。恐らくロッカーの上に積んであったパイプ椅子や長机が当たった拍子に落ちてきたのだろう。彰洋たちは埃で手足が汚れるのも厭わず、必死に荷物をどかした。

「空也!立てるか!?」

 空也は頭を抱えた態勢で、歯を食いしばって丸くなっていた。彰洋と充大が助け起こすと、低い悲鳴を上げる。視線を落とし、充大が呟いた。

「……腕が……」

 空也の腕が、紫がかった色に腫れている。禍々しい色彩にその場の全員が竦んで動きを止めた。

「……呪いだ」

 ポツリと、部屋の隅で固まっていた少年がこぼした。

「幽霊の呪いだ! 老人の呪いだよ!」

 少年達が口々に言い始めた。ざわめきを遮り、一夜が立ち上がった。

「空也君! 動いちゃダメだ! 夏季、早くスタッフさんを呼んできて、救急車を!」

 呆然と膝をついたままの彰洋を、宮本が揺れる目で見下ろしていた。




「打撲と左腕骨折だってさ、ザマーねえだろ」

 三角巾を肩から吊るし、空也が自嘲気味に言った。

 あの後救急車に乗せられた空也を追い、スタッフに訊いた病院へ彰洋と充大が向かうと、処置を終えた空也と話すことが出来た。生き写しの様な母親に連れられ帰っていく空也に何も言えず、彰洋と充大はすごすごと充大の自宅へ向かった。

「幽霊の話やけど」

 充大のベッドで少年漫画を読んでいた彰洋は顔を上げた。充大は学習椅子に座ってアイドル雑誌を見ている。彰洋は漫画を脇に置いて続きを待った。

「本当ってことやんな」

 月並みな続きは、彰洋に正解を求めていた。彰洋は今日一日の事を思い出しながら呟いた。

「あの野郎が一夜君達と口裏合わせるとは思えへん」

 充大は頷いて、雑誌を閉じた。二年前の号らしく、表紙にはJet SHOTの五人と、宮本達がごちゃ混ぜに写っている。

「宮本、一夜君達のことめっちゃ嫌っとうもんな」

 思い返せば、宮本達はいつも一夜達に隠しもせず憎悪の視線を向けていた。

「宮本、一夜君と同期なんやって」

 借り物やから汚すなよ、と付け加えて充大が数年前のアイドル誌を差し出してきた。今よりずっとあどけない顔写真は、よく見ると一夜や宮本の面影があり、彰洋は宮本の特徴のない質疑応答の記事を流し読みした。

 ふと舞台袖での舌打ちを思い出す。空也の様に先輩ではなく、同期として切磋琢磨してきた一夜が自分を差し置きデビューし、そのバックダンサーを務めるのは宮本にとってどんな気分なのだろう。

 充大が椅子ごと彰洋の方へ寄ってきた。彰洋に差し出された雑誌を受け取り、充大はまたしても疑問を投げかけた。

「でも、彰洋が見たんは爺さんちゃうんやろ」

 充大が言っているのは、桜色のワンピースの女の事だろう。宮本の嘲笑がフラッシュバックし、彰洋は眉をひそめた。

「俺、霊感無いで」

「でも二回も見間違いするか?」

「……」

 黙ったままの彰洋に、充大はめげずに食い下がった。

「老人か女か解らんけど、幽霊がホンマに居るなら話の辻褄合う思うねん」

 彰洋は大げさにベッドへ倒れ込み、勢いで傍らの少年漫画が少し跳ねた。

「お前まで宮本に踊らされるんか」

 鼻で笑った彰洋に対し、充大は心底真面目な顔で言い切った。

「オレは彰洋を信じとるだけや」

「……なんやそれ」

 歯切れ悪く吐き捨てた彰洋に、充大は口答えしなかった。




「よお」

 翌朝充大とレッスン場へ行くと、空也が堂々と座っていた。

「幽霊じゃねーよ。足もあるぜ」

「解っとるわ。暴れんな怖いわ」

 冗談めかして自由の利く脚でステップを踏むのを、ツッコミを入れつつ彰洋が止めた。相変わらずギプスで固定された腕を見下ろして充大が問いかけた。

「なんで来たん、レッスン無理やろ」

「目で覚えんだよ」

「無茶苦茶やな」

 ふてぶてしく言ってのける空也に呆れながら、三人はいつもの談笑に戻った。他の少年達も徐々にやってきたが、負傷した空也を目にする度に誰もが息を飲んだ。室内をよく見渡すと、入り口近くにあったロッカーは片付けついでか、部屋の隅へ移動させられていた。積み上げられていた机やパイプ椅子も、綺麗に無くなっている。

 練習が始まり、鏡を前にステップを踏む。要領の良い少年が前の方、彰洋と充大は後ろの方で鏡を凝視しながら振り付けを覚えるのに集中した。絶えず空也が野次を飛ばすが、何とか堪えて意識をダンスに向ける。鏡に映る空也と目が合うと、待っていたかのようにポーズを決めて彰洋を笑わせようとしてきた。瞬時に空也から目を逸らして充大の方を見ると、微かにニヤニヤと笑っていたのが解った。不意に、充大の隣に不似合いな淡い色彩が見えた。

 桜色の、長袖のワンピースの女だ。

「そこ! 何をしている!」

 思わず立ち止まり、間髪入れず軍曹の怒号が彰洋へと飛んだ。その瞬間、鏡の中で女が充大の手に触れた。弾かれたように鏡から目を離して充大を見た瞬間、充大の左手からバチンという音がした。

 大きな音に、少年達だけでなく軍曹も動きを止めた。注目の渦中で、充大は左手に目をやり困惑の声を上げた。

「なんでや……こないだおろしたやつやのに」

 充大の時計の文字盤が潰れて、小さな破片が床へ落ちていた。彰洋だけが周囲を見渡したが、女の姿はまたしても消えている。

「すんません、すぐなおしときます」

「預かるぜ」

 空也が進み出て、バラバラの時計を受け取った。ぼんやりと見つめるだけの彰洋の周りで、少年達がヒソヒソと呟いた。

「あれも、宮本くんが言ってた幽霊の呪いじゃないの?」

「私語は慎め!」

 ざわつきは軍曹によって粛清されたが、不穏な空気は拭い切れなかった。




 レッスン終わり、彰洋と充大は空也の元に合流し、遠巻きに見てくる少年たちを一瞥した。皆弾かれたように目を逸らして無視をして、ついに彰洋達に寄りつく少年は居なくなった。それは宮本達の嘲笑よりもよっぽど居心地が悪く、三人は足早にレッスン場を後にした。エレベーターの中で、三人は壊れた腕時計を取り囲んだ

「これ、文字盤が真ん中から潰されてるぜ。当てたわけじゃねーよな」

「当てても粉砕せえへんわ。オレは超合金か」

「ちゃうんか」

 くだらない会話をしている間にエレベーターが到着の鐘を鳴らした。せっかく這い出した外も、曇り空の下、桜吹雪がやけに強い。薄暗い空気に飲み込まれまいと渇いた笑い声を上げ歩いていると、空也が走ってきた。

「そんなことより。彰洋、オマエ時計が潰れる前に充大の方見たよな」

 後ろからレッスン全体を見ていた空也は、彰洋の行動を見逃していなかったらしい。充大がハッと顔を上げた。

「まさか、なんか見たんか?」

「……ということは、お前らは何も見てへんのやな」

 彰洋は周囲を見渡した。宮本達どころか警備員すら見当たらないなら問題無いだろう。彰洋は一呼吸置いて切り出した。

「鏡に、あの女が映ってた」

 一際強い風が、花びらを伴って彰洋達に吹き付けた。数多の花弁が邪魔する視界でも、充大と空也が息を飲んだのが解った。

「そんで、充大の手に触ったから、驚いてもて横見たんや」

「女が? オレの手を?」

「おう。後姿が映ってて……思わず充大の方見てん」

 充大がまじまじと自分の左腕を見た。女は鏡に映っただけで、やはり実際には居なかったようだ。両手を返したり振ったりして見る充大を他所に、空也が続きを促した。

「で、そっちには居たのか?」

「いや、その後はお前らと一緒や。何もないのに充大の時計が潰れた」

 少しの沈黙ののち、充大が口を開いた。

「じゃあ、その女の幽霊がオレの時計を潰して、空也にも怪我させたんか?」

「そこまでは解れへん。でも、やっぱおかしない?」

 合点の行っていない二人に、彰洋は一から説明することにした。

「宮本の話は一夜君が証明してるし、幽霊は居るんやろ。宮本の言うた通り二人とも怪我してる訳やん。でも俺は爺さんは見てへん、女だけや。微妙に話が合わへん」

 百歩譲って宮本の話が正しかったとしても、彰洋の見たものと一致しない。腕を組んで考え込む彰洋に、充大が難しい顔で意見を述べる。

「女装したジジイとか?」

「そんな特殊な霊、もっと語り継がれるやろ」

「なあ、彰洋。一つ聞きて―んだけど」

 真剣に問いかける空也に、二人も同じような顔を向けた。

「女って、美人?」

 時が止まったように、花吹雪が止んだ。

「いや、いつも後姿やしわからんな」

「そこ重要か?」

 一瞬固まって正直に答えた彰洋に対して、充大はツッコミを入れた。二人の冷たい反応に空也が猛抗議した。

「重要だろ! ジジイに怪我させられたんならムカつくけど、女なら押し倒された可能性がある」

「無いわ」

「アホか」

 呆れた二人に、空也は自信満々に仁王立ちした。

「いーやある。オレの顔が証拠だ」

「……ぐうの音も出えへん」

 不敵に笑ってみせた空也の顔は、確かに事務所内でも群を抜いて整った形をしている。美醜が第一の価値基準のアイドルとしては、空也の主張は切り捨てづらい。

「だろ! よし、彰洋、充大。今夜女の顔見に行くぞ」

「はあ? 何言うとんねん!?」

「幽霊っつったら夜だろ?」

 高らかに宣言してズンズンといつものコンビニへ向かう空也に、我に返った充大が驚いて追いすがった。それでも空也はお構いなしに続けた。

「今日は六時に閉めるって軍曹言ってたよな。それまでコンビニで時間潰すぜ」

「オレらの意思は無視かよ!?」

「おい、怪我人無茶すな」

 彰洋も戸惑いつつ、空也達に続いてレッスン場から去った。




「ほんまに来てもた……」

 夜桜散る中、レッスン場のあるビルを前に、傍らの充大は緊張気味に呟いていた。警備員の目を盗み駆け足で辿り着いたいつものビルは、その風貌を昼間よりも一層薄暗く、前時代の亡霊のように時代に取り残されていた。浮足立つ充大の背中を空也が小さな掌でバシバシと打った。

「覚悟決めろよ。美人が待ってるぜ」

「美人かどうか解らんで」

 彰洋の言葉を無視し、空也は意気揚々とビルへと近づいた。最早彼の頭の中には美人の妄想しかないらしい。隠れもせず堂々と進む空也の小さな背中に、彰洋は慌てて声を掛けた。

「あほ、もう閉まっとるって……」

 しかし、彰洋の懸念も吹き飛ばすように、空也の手は清々しいほどあっさりと扉を開いた。困惑する彰洋を追い越し、充大が空也に続いて入り口に触れた。不思議そうにドアノブや鍵を交互に見て、充大は首を傾げた。

「なんで開いとるんや?」

「ラッキーじゃん、行こうぜ」

「待て」

 走り出さんばかりの空也を宥めようと、彰洋は唇に人差し指を立てた。空也と充大は目論見通り口を噤み、姿勢を低くして彰洋に注視した。

「警備のおっさんがおるとはいえ普通もう閉まってるはずや。開いてるゆうことは幽霊以外に誰か居るかもしらん」

 空也と充大は顔を見合わせて、僅かに表情を強張らせた。

「そいつにも気い付けて進むで」

 二人が頷くのを確認すると、彰洋はビルの中へと進んだ。目の前ではエレベーターが待ち抱えていたが、万が一音で気が付かれてはまずい。三人は目配せして階段室へ入った。

 様子を伺いながら階段を上っていくが、警戒している以上に周囲は静かで、段々と緊張も解けていった。三階に着く頃には彰洋の警告も忘れてしまったのか、空也も充大もいつもの調子を取り戻していた。

「この階でしか見てないんやんな」

「美女! オレはここだ!」

「静かにせえ!」

「お前もや」

 彰洋もツッコミで少し安心し、音を立てないようにだけ気を付けてレッスン場のドアに手をかけた。ドアには、本来付けられているはずの南京錠が外されていた。

「ここも開いてるな。電気も点いてんじゃん」

「閉め忘れ……にしては、えらい都合がいいな」

 三人はひそひそと声を交わしながらレッスン場に入ると、いつもと違う雰囲気に気圧された。昼間三人とも必死で向かい合っている壁一面に取り付けられた鏡も、どこか遠くに引き込まれてしまいそうで目を向けたくない。後ろめたさと夜の闇が、いつものレッスン場を異様な空気に変えていた。

 続いて視線を窓の方に映すと、遮光のカーテンがきっちりと閉められていることが解った。電気が点いたまま気づかれなかったのは、外に光が漏れていなかったからだろう。

 窓の様子をよく見ようと一歩進んだ彰洋の足に、何かが巻き付いた。驚いて見下ろすと、ラジカセのコードが置いたままになっていた。駆け寄って彰洋に手を貸しながら、充大は不信感そのままに呟いた。

「何や? えらい散らかっとんな? 業者でも入っとんのか?」

 どういう言うわけか、床には脚立や段ボールが置いたままになっている。

「つーか明るいな。なあ、一回電気消してみようぜ。幽霊出そうじゃん」

「待て、空也……」

 彰洋が止めるより早く、空也はスイッチに手を掛けていた。羽を隠した天使の様な空也の悪戯っぽい笑顔を最後に、彰洋の視界は一瞬で闇に包まれた。

 ガチャン!と音を立てて、備え付けの倉庫のドアノブが回された。とっさにドアの方を見ると、ドアの向こうから声が放たれた。

「……電気が消えた?」

 聞覚えのある声に三人とも青ざめた。

(あいつがいる!?)

 空也と充大は、反射的にレッスン場を飛び出したが、駆けだそうとした彰洋は慌てて足を止めた。窓際にいた彰洋がドアへと走れば、たちまち彼に見つかるだろう。彰洋は意を決して逆戻りした。

 ようやく暗闇に慣れた視界で、二人がドアから彰洋に気付いて引き返すのが見えた。今にも踵を返そうとする二人を睨み、彰洋は声を出さずに言った。

“逃・げ・ろ”

 ロッカーに飛び込みドアを閉める瞬間、怯んでドアから弾かれるように手を離す二人の姿が見えた。

 倉庫のドアが開く音に、彰洋がロッカーを閉める音と、空也と充大が飛び出ていく音が重なって、やけに大きな一つの音を立てた。

「……巡回でも来たのか? でもドアは開いたままだ……まあいい」

 声の主が電気を点けた。ロッカーの細い隙間から射す光に一瞬だけたじろくも、光を頼りに彰洋は声の主を覗き込んで息を飲んだ。

 宮本だ。

 とっくに帰ったはずの宮本が、倉庫から出てきた。

(あいつ、何をしとったんや?)

 彰洋の疑問は、すぐに蛍光灯の元に明らかになった。

 宮本は手惑いながら脚立を組み立てると、天井の付近に手を掛けた。よく目を凝らすと、天井に釘を打ち付けている。しんとしていた室内に釘を打ち付ける音と宮本の声が低く木霊し、彰洋は思わず心臓を左手で押さえつけた。

「もう一人、空也みたいに、怪我すれば……絶対、みんな……僕の、老人の怪談を信じる……」

 やがて釘を打つ音が止み、もう一度外の様子を見ると、宮本は釘に細い糸を括りつけ、ロッカーを注視していた。すると、宮本はロッカーへ一直線に歩き出した。そして、彰洋の入っているロッカーの隣を勢いよく叩いた。

 突然の衝撃に、ロッカーの中で彰洋は竦み上がった。しかし、それ以上に大きな物音がして、宮本に気づかれることは無かった。口元を押さえたままもう一度外の様子を覗いた彰洋は目を見開いた。

 部屋の真ん中に、天井板の一つが落ちている。

「よし、成功だ。これであいつらを始末できるぞ」

 宮本は満足げに呟くと、隣のロッカーを少し触って、再び脚立に登って天井板を取り付けた。

 心臓がバクバクと鳴るのを鮮明に感じた。

(こいつ、罠まで作って言うこと聞かんオレ達を狙う気や!)

 空也の事故で思いつき、忍び込んで罠を作っていたのだろう。空也の怪我を踏み台にし、さらに犠牲を積み上げようとする宮本に、怒りで彰洋が飛び出そうとした瞬間だった。

 背骨を直接握られたような異様な感覚が走り、彰洋はロッカーの中で凍り付いた。もう一度隙間から覗いた景色に、思わず息を飲んだ。

 足取り軽く脚立から降りてくる宮本の背中を、あの女がじっと見つめていた。いや、多分見つめていた。宮本も女もロッカーを背にして、その表情はよく見えない。しかし、宮本は立ち尽くす女の姿を気にも留めない。

「一夜みたいな中身のない人間だってデビューしてるんだ、僕ができないわけが無い」

(あの女が見えてないんか?)

 脚立を降りた宮本が、散らかしていた用具を倉庫へ次々と片付けだした。そのまま女には目もくれずに立ち上がり、宮本は出口へと歩き出した。

「このキャラが最後のチャンスだ」

 そう呟いて、宮本は女とすれ違った。

「やっとスタッフたちも注目し始めた。霊感キャラで絶対にデビューするんだ、今度こそ、このチャンスだけは逃せない……」

 そう呟きながら、宮本は電気を消してレッスン場から出た。女の姿は霞の様に消え、消える間際の蛍光灯が僅かに点滅した。

(……霊感も心霊話も嘘やったんやな)

 怒りすら冷めて、彰洋は空虚に立ち尽くした。

 宮本は自分が売れるために、大人に嘘ついて、取り巻きを騙していたのだ。この大手事務所に所属出来ているというのに、そこまで他者を踏み台にしなければ高みまで上り詰められないのだろうか。彰洋は真っ暗なロッカーの中で崩れ落ちるように蹲った。

 突然、冷たい金属音が響いた。ドアが閉まり、施錠される音だ。

 慌てて彰洋がロッカーから這い出すと、レッスン場は再び暗闇に包まれていた。汗で滑る手で入り口のドアを引くが、案の定外から施錠されていて、頑なに一定以上動かない。無情にも遠ざかる宮本の足音が、彰洋を絶望させた。

(アカン、閉じ込められてもた!)

 不意にまた、背筋に異様な感覚を覚えた。どこかから視線を感じる。恐る恐る背後の鏡へ眼を向けると、鏡の前に揺らめく裾が見えた。

(あの女や!)

 ぎしり、と床を踏みしめる音がする。嫌でもこちらへ来ていることを悟らされる。

(逃げな! 逃げな!)

 弾かれるようにドアから飛び退り、窓へと走った。

 錆びた鍵に手をかけ、叩き割りそうな勢いで錠を回すと、春の夜風が隙間から雪崩れ込んで細く高い音を立てた。その音が途切れるより早く窓を開け放つと、彰洋は無我夢中で窓枠に足を掛けた。

 窓から身を乗り出した彰洋を、生暖かい空気が迎えた。体を反転させて足元に視線を移すと、遥か先の地面より手前に古びた室外機が見えた。彰洋は迷わずそこへ足を延ばして体を下ろした。室外機は思わぬ重荷に軋みで応えたが、少年一人分の体重には何とか耐えられるらしい。彰洋は窓枠を掴んだまま、次の足場を爪先で探した。

 不意に、強い風が吹いて視界に桜の花びらが舞い上がった。

 色彩に眩んだ彰洋の視界で、窓枠にかけたままの両手に、凄まじい勢いで何かがかぶせられた。女の手だ。青白く骨ばった細い指先に、桜の花弁に似た小さな爪がくっついている。

 その刹那、恐怖以上に、混乱で息も忘れて彰洋は顔を上げ、初めて俯いていた女の顔を見た。

(なんだ、これは)


 渦があった。


 見開いた彰洋の視界の真ん中。場違いなほど鮮やかな白とピンク色が混ざり合った、桜吹雪の様な渦が女の顔の代わりに鎮座している。

 女が、身を乗り出した。

 平たいマーブルの顔を彰洋の鼻先へ近づけ、その勢いのまま手の甲に爪を立てた。痛みと気迫に、ついに彰洋は窓枠から両手を離した。迫る女から逃れようと仰け反り、頭から地面に吸い込まれていく。

 まるで桜吹雪を突っ切るように、薄桃色の色彩を纏って女は彰洋の胸の辺りをすり抜けて消えた。

 彰洋は声を上げる間も無く、バランスを崩して落下するのをやけにゆっくりと感じた。足が室外機を離れ、つま先が月へ向くのが見えた。


 突然、背中をいくつもの固い衝撃が鞭打った。


「うっ!?」

 予想より早く訪れた痛みに押され、肺からくぐもった呻きを押し出した。そのままバクバクとなる心臓に引き摺られて浅い呼吸を繰り返す。

 ……息をしている。

 彰洋はあたりを見渡した。先ほどの渦と同じ一面の淡いピンク色が視界を囲んでいる。手を伸ばすと、掌に白に近い小さな花弁がいくつも付いていた。

 桜の花だ。

 どうやら、運よく桜の木に落ちたらしい。幾重にも広がる枝が斃れつつも彰洋の体を受け止め、しな垂れた幹の上に落ち着いたようだ。

「彰洋! 大丈夫か!?」

「何しとんねん! 待っとけ、今行くからな!」

 下から騒ぐ声に気が付き地面を見下ろすと、これ以上ないほど顔を青くした空也と充大の姿があった。空也がギプスを巻いたままの両手を差し出し、充大は猿の様に身軽に木に登って、たちまち彰洋の傍へやってきた。

 充大の手を借りつつ彰洋が地面に降り立つと、充大と空也が堰を切ったようにまくし立てた。

「何飛び降りてんだよ! 死んだら終わりだぞ!」

「なんで迎えに行くの待てんかってん! 二度とこんな真似すんなや……!」

 二人の勢いに面食らい、彰洋は不思議に思いつつ答えた。

「いや、お前らが戻ってくるかなんてわからんやん」

「戻る!」

 二人一斉に怒鳴られ、彰洋は目をぱちくりした。二人は泣きそうなほど怒った目を彰洋に真っ直ぐ向けていた。何も言えない彰洋を待たず、充大が低く言い放った。

「オレは一緒についてってんぞ。一蓮托生や」

 空也もいつもの怒りの炎を燃やした目を彰洋に向けている。

「クビでも説教でも、まとめて一緒に食らってやる!」

「……ごめん」

 二人に気圧され、彰洋は思わず謝った。その様子に、このくらいにしてやる、とでも言いたげな顔をしていた空也がニヤニヤと彰洋を揶揄った。

「にしても立派な恰好じゃん。あの女にはフラれたみたいだな」

 指さされて、彰洋は自分が体中花びら塗れなことを思い出した。それに同じくらい小さな切り傷を纏っていたため、どれが何の痛みかよくわからなかった。

「枝が引っかかったんか? 見してみ、にしても花びら塗れやなあ」

 充大はケタケタと笑いながら彰洋に纏わりついた花びらを掃った。その手が手の甲に触れた瞬間、彰洋は肌を抉る痛みに顔を歪めた。

「っ!」

 想像より大きい反応に充大は不思議そうに呟いた。

「何やこれ、花びらにしてはえらい固いな」

 無機質な軽い音を立てて、彰洋の手の甲から落ちた小さな桃色を充大が拾い上げた。か細い街灯が照らし出したそれが何か解ると、充大はそれを投げ捨て、三人とも弾かれたようにビルから逃げ出した。




 駐車場に腰を下ろしていた二人の元へ戻って来た充大は、すっかりなじみになったコンビニの小さなレジ袋を提げていた。充大は袋から絆創膏を取り出し彰洋に渡すと、自分はコーラの缶を取り出した。空也は特に確認もとらずスルメを取って食べ始めた。袋は縁石の上に置いて、それを取り囲むように三人で座る。全員が普通を無理矢理行っていた。

 炭酸が弾ける音が落ち着くと、充大が切り出した。

「あれ、花びらやなくて爪やんな」

 彰洋は絆創膏を手の甲に張り終えたタイミングで頷いた。傷だらけの両手をまじまじと見つめながら、空也が呟いた。

「彰洋の……じゃねーよな」

 空也の言うとおり、彰洋の両手は木の上に落ちたせいで切り傷だらけだが、爪は揃って指先に収まったままだ。

「宮本か?」

 彰洋はゆっくりと首を振った。

「宮本は俺らに気付かんかった。そのまま電気消して、鍵かけて出て行った」

「そんで出られんかったんか……でも、なんでわざわざ窓から出たんや?」

 どこから話せばよいか解らず、顔に影を落とした彰洋に空也が問いかけた。

「幽霊が出たのか」

 彰洋は頷いて、女の幽霊の事を話し始めた。

「……あの女、宮本が電気消したせいで見失ったんやけど、オレが入り口に近づいたらまた現れて。逃げなアカン思て、一番そいつから遠い窓から出たんや」

 爪が刺さっていた場所の絆創膏に目を落とすと、ガーゼに血が滲んで花の様に赤色が広がるのが見えた。

「窓から出て、どないして降りようか考えとったら、女が来て。あいつオレの手の上に爪立てて、そのままオレを通り過ごして地面に飛び落りたんや」

 彰洋の説明に、充大が深刻な顔で呟いた。

「自殺か」

 三人の間に、これまでとは比べ物にならない重い空気がのしかかった。出た出なかっただの話題にしていた女の幽霊だが、そこに死因があると考えるとやりきれなさが込み上げて、今までの様に大っぴらには言いづらい。重い沈黙に耐えられず彰洋は続けた。

「そういえば、女の顔やけどさ」

 空也がバツの悪そうな顔をした。

「もういいって、そんなん」

 下世話な動機で、彰洋を危険に晒したことを後ろめたく思っているらしい。しかし、そんな思春期らしい好奇心より彰洋は不可解な記憶が気になっていた。

「無かった」

「……どういうことや?」

 聞き返した充大に、彰洋は見たままを説明した。

「顔は無くて、でも顔の辺りがピンクと白の混ざったみたいな渦やった」

「混ざったって……あのソフトクリームみたいな感じ?」

 空也が指したのはコンビニの期間限定アイスのポスターだった。彰洋はその色彩を認めると首を縦に振った。暫くポスターを眺めていた充大がボソリと呟いた。

「……頭から飛び降りて、顔が地面で潰れてもたんやな」




 その後家に戻る気にもなれず、コンビニや公園をブラブラと渡り歩いて彰洋達は朝を迎えた。朝陽が昇るのをぼんやりと見届け、三人はレッスン場のあるビルへと向かった。

 昨夜はあれほど異様な雰囲気であったが、朝日の元ではいつも通りの古いビルにしか見えない。本格的に散り始め臙脂色の目立つ桜の木だけが、昨日よりみすぼらしく見えた。

 警備員から鍵を譲り受け、レッスン場扉の南京錠を開ける。電気を点けると、彰洋が落ちた窓が開いたままだった。空也と連れ立って窓枠に手をかけ外を見ると、窓の下は室外機を隔てて固い地面なのが解った。

「オマエ、よくあの桜の上に落ちれたな」

 空也の言う通り、彰洋が落ちた桜の木は窓の位置から少しずれたところに植えてある。彰洋は首を傾げたが、突然背後で響いた音に二人揃って首をすくめた。

「よお出来とおなあ」

 充大がロッカーに蹴りを入れ、宮本の罠を発動させていた。落ちてきた天井板やコードが床の上に散乱している様子に、彰洋が溜息を吐いた。

「なんでわざわざ証拠落とすねん」

「いっぺん見て見たいやん」

「しょーがねー。片付けんぞ」

 三人は各々散らかった備品を拾い集め始めた。しかし、全員一睡もしていないため思う様に体が動かず、一挙一動に苛立ちが募る。

 やがて他の少年達がレッスン場にやってきた。何かと問題に中心にいる彰洋達にギョッとしたものの、やけに散らかった部屋の方に興味が傾いたのか、少年達は彰洋と充大に近寄って来た。

「何してるの?」

「上から落ちてきてん。危ないから触んな」

 散乱した天井板に伸ばされた手をやんわりと払いのけ、彰洋はぶっきらぼうに指示した。少年が不服そうに退散すると、入れ替わるように老人の声がした。

「ああ、掃除してくれてるんだね。助かるよ」

 顔を上げると、用務員が掃除道具を手に立っていた。勝手に喋りかけてくる用務員によると、三人とも早朝に来たのは初めてだったので知らなかったが、毎朝掃除をするのが仕事らしい。用務員は軍手をはめた手で鋭利な破片を手際よくゴミ袋に詰め込みながら礼を言った。無言で小さく頭を下げた彰洋達に、いい加減聞き飽きた嘲笑が投げかけられた。

「掃除なんかで媚びてんのかよ」

「だっせえ、ダンスもまともに出来ねえもんな」

 緩慢に顔を上げると、宮本と取り巻き達が部屋に入って来たところだった。アイドルらしからぬ品の無い笑みを浮かべて、飽きもせず三人を馬鹿にしている。徹夜明けの脳を何とか回して言い返そうとした彰洋の隣で、充大が釘の付いた天井板を宮本の足元に投げつけた。

「夜中にコソコソ罠作っとる奴がよう言うわ!」

 薄汚い天井板に面食らっている取り巻き達の中で、宮本だけ顔を青くした。考えるのも面倒になり、彰洋も宮本を睨み上げ思ったままの言葉を投げつけた。

「急に電気消えて、怖かったやろ」

 隣に空也が進み出た。寝不足で血走った両目の睨みは、普段とは別の迫力があった。言葉と視線に追い打ちをかけられ、宮本の双眸が激しく揺れた。

「君達まさか、部屋に隠れて僕を見ていたのか」

 途切れ途切れの言葉に、宮本だけでなく取り巻き達にも次第に動揺が広がるのが手に取るように解った。彰洋は、今度はじっくりと考え言葉を投げた。

「そんなわけないやん、帰宅時間過ぎとったし。偶然外通って、窓から光漏れとったから聞いてみただけや」

 彰洋は、隣に控える二人が余計なことを言い出す前に喋り続けた。

「ホンマにお前が居てたんやな。ま、気になって朝早うから来てもたけど」

 無事に嘘を吐き終わると、宮本は顔を赤くしたり青くしたりしていた。解りやすい動揺に、硬直する周囲を差し置いて彰洋は笑みを浮かべた。

「まさかホンマに罠仕掛けとったとはな」

 ダメ押しで揺さぶると、宮本の肩が震え出し、顔が赤くなったり青くなったりし始めた。充大と空也すら味方するのを忘れて、両側から唖然として彰洋を見ていた。宮本は自分を棚に上げて喚いた。

「僕のせいじゃない、君の怪我は因果応報! 幽霊の怒りを買ったせいで―――」

「いけないよ、騒いでは。この建物に憑いた幽霊の気が異様に高ぶっている」

 せせら笑って彰洋が口調を真似て遮ると、宮本の顔は見る見るうちに土気色に変わり、声にならない声を上げた。そして混濁した形相で両手を出し、彰洋を突き飛ばした。彰洋はそのまま後ろにバランスを崩し、空也同様ロッカーに背を打ち付けた。肺から息がすべて押し出され鈍い痛みが走ったが、片付けが済んでいるので荷物が襲い掛かることは無い。駆け寄ろうとする空也と充大を、他の取り巻きが押さえつけにかかり、周囲の少年達が悲鳴を上げた。

「適当言ってんじゃねえぞ、ふざけんな!」

 取り巻きが岩の様に握りしめた拳を彰洋に振り上げた。三人が身を固くした瞬間、勢いよくドアの開く音がした。

「何してるんだ君達!?」

 事務室に控えていたスタッフ達が駆け込んできた。よく見ると、遅れて先ほどの用務員が不安そうに背後に控えている。騒ぎの大きさに、隙を見てスタッフを呼んでくれたらしい。今まさに彰洋達をリンチしようとしていた取り巻き達の顔がさっと青ざめた。

「あ、これは……」

 しどろもどろに呟き手を離す取り巻き達から逃れて、彰洋達は距離を置いた。用務員が軍手を外して、心配そうに彰洋の肩を支えた。彰洋が用務員の厚意をそれとなく断った瞬間、キザな声が響いた。

「すみません! 僕は止めようとしたのですが、彼ら、急に後輩に殴りかかったんです!」

 しゃしゃり出た宮本の言葉に、取り巻き達が凍り付いた。宮本はそんな周囲の様子など意に介せず、冷静を通り越して座った目でスタッフに訴えている。彰洋達も宮本の言葉が飲み込めず同じように立ち尽くしたが、大人のスタッフ達は迅速に行動した。

「少し、話を聞かせてもらう。市崎君、御影君、藤倉君。まずは手当をするから隣の事務室へ。関係無い者は出て行きなさい」

 そう言うと、スタッフたちは彰洋達を取り巻き達から庇う様に連れ出した。続いて立ち去ろうとした宮本に、取り巻きの一人が縋りついた。

「待ってくれ、おれ達は宮本君のために―――」

 宮本はその手を払いのけると、彰洋に対していた時の様にキザったらしく吐き捨てた。

「やめるんだ、少人数相手のリンチなんて、老人の幽霊を刺激するだけだよ」

「あいつ懲りへんな」

 充大が呆れながら呟き、空也も失笑した。あの調子ではスタッフ相手にボロが出るのも時間の問題だろう、彰洋も面白半分に部屋の方へ振り向いて何か言っている宮本を見た。その瞬間、彰洋の表情が強張った。宮本の真正面に、桜色のワンピースの女が立っている。

「市崎君、どうしたんだ?」

 突然固まった彰洋にスタッフ達は不審げに声を掛けたが、充大と空也は息を飲んだ。

 女は何もせず、彰洋のまばたきと共に消えた。我に返ってレッスン場を見渡すと、やはり宮本達やスタッフしかいない。あとは、まだ数人の少年達が退出できずに部屋にいたままのようだった。

「お兄ちゃん、嘘はダメだよ」

 突然、小学生らしき少年が集団から離れて、宮本に面と向かって言った。部屋の外の彰洋達も含め、全員の視線がその少年に向いた。少年は一言だけ言うと、ひょいと再び集団に戻った。言葉の意味が飲み込めないまま、彰洋は宮本へ視線を移した。

 周囲と同じように少年達を見下ろしていた宮本の顔色が、先ほどのように土気色に変わっている。彰洋の背に、突き飛ばされた時の痛みが蘇った。

(あんな子供、突き飛ばされたらひとたまりもないやん!)

「すんません、お邪魔しました!」

 彰洋は弾かれたように部屋へ駆け込むと、少年達をまとめて押し出す様に回収して廊下へ出た。

 部屋を出て開口一番、彰洋はスタッフより早く少年達を𠮟りつけた。

「体格差よう見ろ! あんな年上に歯向かった危ないやろ!」

「お前どの口が言ってんだよ」

 横やりを入れた空也に、充大が両手を組んだまま冷たく言った。

「あながち間違ってへんで。お前ら、彰洋と空也みたいになりた無かったら大人しくしとけ」

 複雑そうにするスタッフと彰洋達に見下ろされたまま、少年達はおどおどと周囲を見渡した。

「僕言ってないもん」

 面食らった三人は、即座に少年達を見渡して顔を確認した。

「俺も」

「言ってない」

 その間も少年達は口々に主張し、彰洋は首を傾げた。

「さっきの子、どこいったんや?」

 その瞬間、レッスン場から何かが割れる大きな物音と叫び声が聞こえた。

「なんや!?」

 充大の驚いた声は、飛び出したスタッフ達にかき消された。

「どいて! 道を開けて!」

「救急車を! 早く!」

 スタッフから少し遅れて、取り巻き達も子供たちを押しのけ半狂乱で逃げ出していった。その背中を怪訝な顔で見ていると、焦げ臭いにおいが鼻をかすめた。同時に隣の空也が問いかけた。

「おい、燃えてないか?」

 火災報知器は鳴っていないが、咄嗟に彰洋は少年達に怒鳴った。

「逃げろ! お前ら階段で降りろ!」

 三人はスタッフとともに、各々少年達を連れて階段へ一目散に駆け出した。




 牧羊犬のごとく少年達を追い立てビルから雪崩れるように出てくると、部屋から微かに煙が出ていくのが解った。パニックで飛び出したが、ほんの小さなボヤだったらしい。煙が消えるのを眺めていると、救急車がやってきて救急隊員が足早にビルへと駆けこんで行った。やがて降りてきた担架を見て、彰洋達は息を飲んだ。

 多分、宮本が横たわっていた。

 背格好や服装は見覚えがあるが、顔の部分がよく解らない。赤色やピンクに紛れてたまに突き出ている白い物は、ガラスだろうか。スタッフの上ずった説明が担架と並んで通り過ぎた。

「天井板と、蛍光灯が落ちてきたんです。一部外れていたのですが、その隣が配線ごと落ちてきて―――」

 説明の最後はあまり聞き取れなかった。担架が救急車に乗せられる瞬間、彰洋は短い悲鳴を上げた。

 宮本の担架にベッタリと寄り添う、桜色のワンピースの女性が確かに見えた。しかし、彰洋の悲鳴が終るより早く扉は閉じられ、救急車は走り去っていった。

「彰洋……」

「言うな」

 彰洋は充大の声を遮った。充大は彰洋が女を見たことを察して確認しただけだろう。彰洋は救急車からもビルからも目を背けて地面を向いた。

(あの女、ホンマに幽霊話で騒いだヤツを狙ったんちゃうか?)

 思い返せば、宮本に反発するあまり逆に彰洋達は幽霊話にのめり込んでいた。一夜達の話と、爪の突き刺さった手の甲の痛みを思い返した。その両方を繋ぎ合わせると、連れていかれた宮本の様に怪我どころか、これ以上立ち入れば最悪殺されるかもしれない。悪い想像が拭えず、彰洋はか細く念を押した。

「……黙ってくれ」

「……解った」

 充大はそれきり何も言わず、三人とも無言で軽い手当を受けた。




「元々閉鎖する予定だったけど、予想より劣化が激しかったみたい。予定は早まるけど新しいレッスン場は用意してあるの。すぐに使えるようになるわ」

 その言葉と共に渡された封筒には、行きの電車賃と給与がまとめて入れられていた。彰洋はこっそりと封筒の中身を覗き見るや否や、慌てて丁重にカバンの奥に仕舞った。

 見送りに来た充大が桜を見上げたまま呟いた。

「大阪、帰るんやな」

 充大の家の最寄り駅、彰洋は渡された片道の新幹線グリーン車切符を見下ろした。

「春休み終わるし、次は土日に呼ぶってさ」

 このまま東京に居続ける淡い期待を抱いていたが、事務所の大人たちは彰洋の年齢に見合った対応をしただけだった。アイドルになる夢の端は確かに掴んだが、彰洋は舞い散る花びらの下で唇を噛んだ。萎び始めた花弁を降り注ぐ桜は、この街で過ごした数日の記憶よりずっと少なく見えた。もうじきに、桜の見頃も終わる。

「また泊めてや」

 無理に冗談めかして答えると、充大は何故か泣きそうな顔で何度も頷き、空也も真剣な顔で黙ったままだった。

「イッチー!」

 急に呼ばれ、三人は飛び上がった。声の方を見ると、一夜と夏季が駆け寄ってきている。二人とも例の帽子と眼鏡の変装姿だが、声を上げてブンブンと手を振る一夜のせいで台無しだ。

「副社長から伝言! 間に合って良かったー!」

 一夜は夏季に小突かれながら、A4封筒を差し出した。中にはいくつかの書類が詰まっていた。小難しい文面からして、帰ってじっくり確認する必要がありそうだ。夏季は封筒を鞄に詰め込む彰洋に、副社長の伝言を述べた。

「新しいレッスン場は事務所所有の建物になる。宿泊場所も用意するから利用しろ、家出の様なみっともないマネはしないように、だそうだ」

 沸き上がる空也達とは反対に、彰洋の心臓が跳ねた。オーディションの後実家へ電話し弟に口裏合わせを頼んでいたが、副社長には東京に親戚がいるという嘘がバレていたかもしれない。俯いたままの彰洋の両肩に手を添えて、一夜が声を掛けた。

「イッチー、絶対また踊ろうね。約束だよ」

 顔を上げると、一夜があのステージの一瞬と同じ笑顔を見せた。つられる様に、彰洋もぎこちなく口を笑顔の形に綻ばせた。

「もちろん、俺らと一緒にやで」

「来なかったら、引きずり出しに行くからな!」

 一夜と入れ替わりに、充大と空也も不敵な笑みを浮かべて彰洋の両肩をバシバシと叩いた。一歩離れた場所で、夏季も柔らかい笑みを口元に見せていた。彰洋は充大と空也の肩を叩き返して、今度こそ心の底から勝気な笑顔を見せた。

「解った。這い蹲っても行ったるわ」

 彰洋は手を振ると、桜が舞い散る中を駅へ向かって歩き出した。

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アナザーステージ 花岸 伴 @hanagisi-bang

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