第5話
仕事を終え、柳暗宮に戻った莉珠は月餅を一口囓っていた。
夕食にはありつけなかったが、瑩瑩のお陰で空腹は凌げる。
月餅は想像していた通り餡がぎっしりと詰まっていて食べごたえがあった。こんなに美味しいものを食べるのは、初めてかもしれない。
舌鼓を打っていたら、不意に瑩瑩の言葉が蘇る。
『公主は不当な扱いを受けているのに何故怒らないのですか?』
莉珠は頭の中で反芻する。
(私は不当な扱いを受けているかしら?)
莉珠は目もとにそっと手を置く。血のように赤い瞳のせいで多くの人の運命を悲しい結末にしてしまった。
――自分が生まれてこなければ、みんな今も幸せに暮らしていたかもしれない。
そう結論づけた莉珠は下を向く。そしてやはり瑩瑩の意見は間違っていると、囓った月餅を見つめながら思うのだった。
月餅を食べ終えた莉珠は、明日も早いので寝支度を始めていた。
すると、門扉がドンドンと激しく叩かれる。
「莉珠公主は起きているか」
いつもなら扉を叩かれるだけで声など掛けられないのに。今夜は違った。
「は、はい。ご用件は何かしら?」
門扉を開けずに返事をしたら、無遠慮に扉が開かれる。
そこにいたのは、提灯を手にして仁王立ちする雹雪付きの宦官・
たちまち、莉珠の表情が強ばった。
雹雪の腹心である王荘は、普段から莉珠を毛嫌いしており、陰で虐めてくる。莉珠にとって、彼も恐怖の対象だった。
王荘は穢らわしいというように口元をへの字に曲げて蔑んだ眼差しを向けてくる。
「淑妃様がお呼びだ。ついてこい」
「はい」
莉珠は大人しく王荘に付き従う。
一体どこへ行くのか、何が目的か。
いろいろと訊きたいのに尋ねられる雰囲気ではなかった。
程なくして、莉珠は福寿宮の一室へと通される。奥には明かりが灯り、二つ人影があった。
それは雹雪と瑛華のもので、彼女たちは椅子に座っている。周りには装飾が凝った高さの違う燭台がいくつも並び、蝋燭の火がともされている。
その多さから室内は、異様な雰囲気が漂っていた。
「淑妃様、莉珠公主をお連れしました」
「ご苦労だったわ。下がりなさい」
王荘は拱手をして部屋から出ていく。
戸がぱたりと閉まり、莉珠の身体に緊張が走った。
何故なら、三人だけという状況は決まって折檻されることが多かったからだ。
まだ何もされていないのに、これからを予見して息が苦しくなる。
莉珠は現実から逃れるように目を閉じて下を向く。
(きっと大丈夫。今日は二人の機嫌を損ねるような失敗なんてしていないから)
えも言われぬ不安に駆られていると、不意に衣擦れの音が耳に入る。
ハッと顔を上げた時には雹雪が目の前に立っていた。続いて莉珠の肩にぽんと手が置かれる。普段とは比べものにならない優しい手つきに、莉珠の背中はぞくりと寒気が走った。
怯えた表情を浮かべていたら、雹雪が静かに言った。
「莉珠、おまえはこれからここを出て
「……えっ?」
莉珠は赤色の瞳を見開いた。それはまさに青天の霹靂ともいえる内容だった。
蒼鹿国は
有名な特産品は上質な玉。棲雲山脈から流れる河でしか採れず、その中でも白色や乳白色は価値が高い。これらすべては銀と陶器で取引がされており、蒼鹿国は小国ながら豊かであると耳にしたことがあった。
ところが、姚黄国の国民は蒼鹿国が野蛮な国という認識を持っている。その理由は彼らが異民族――遊牧騎馬民族の流れをくむ国だからだ。
未だに遊牧生活をしているとも、移動住居で暮らしているとも言われているが真相は不明だ。
莉珠が動揺して視線を彷徨わせていたら、今度は瑛華が口を開く。
「嬉しいでしょう? 鳥かごのようなこの後宮から出られるのよ」
「でも、縁談が上がっているのはお姉様なんでしょう? 身代わりというのは……」
「少し前にうちの領土がウシハに脅かされたのを、おまえも知っているでしょう? その際に助けてくれたのが蒼鹿国だったの。お礼と同盟を結ぶための親書を使者が届けたら、王は同盟を結ぶ代わりに美しい公主を嫁にと要求してきたわ」
姚黄国より北西にはウシハ族という騎馬民族がいて、彼らは略奪や殺人といった蛮行の限りを尽くしている。西と東を繋ぐ文明の十字路では隊商が度々襲われ、多くの国が被害を受けてきた。その中には当然姚黄国も含まれている。
そしてこの度、彼らは姚黄国の領土を侵そうと攻めてきた。
国境には節制使という辺境警備隊が敷かれている。だが、長雨による川の氾濫で周辺住民を安全な場所へ退避させている最中にウシハの急襲を受けてしまい、手も足も出なかった。
そんな折、視察で国境近くまで訪れていた蒼鹿国の軍が異変を察知し、ウシハを撃退してくれた。蒼鹿国は少数精鋭ながら強力な軍隊を擁している。
復興が完了するまでの間、ウシハに再侵攻される危険性はかなり高い。兵力を補填するために国内の兵を動かすのは可能だが、それよりも蒼鹿国の兵と防衛力を合わせた方が効率は遙かに良い。
かくして皇帝は同盟を結ぶ提案をし、蒼鹿国側もそれをを受け入れた。
そういう経緯もあって、皇帝は蒼鹿王の要求に応じるしかなかった。
しかし姚黄国の国民にとって、蒼鹿国もウシハも同じ『騎馬民族』という認識がある。
元遊牧騎馬民族でこちらを助けてくれた国であろうと、奇異の目を向けてしまうのはまた事実だった。雹雪や瑛華も反応は同じだ。
馬で駆ける粗野な民を想像して、雹雪が顔を顰める。
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