第3話


 蕎嬪きょうひんは莉珠が三歳の時に不治の病でこの世を去った。

 世話をしてくれていた乳母は井戸に落ちて溺死した。莉珠が四歳の時だ。

 それから一年と経たないうちに数人の女官が不可解な死を遂げた。


 莉珠と関わった者が立て続けに死んだという報告を受け、皇帝は天師を呼んで占わせた。

 結果は「赤眼には災いを呼ぶ力がある」という内容で、将来厄災が起きると断言されてしまった。

 いくら血の繋がった娘とはいえ、皇帝は莉珠への愛情が失せ、疎ましく思うようになった。まだ幼く、守ってくれる後ろ盾もない莉珠を闇に葬るのは容易い。

 しかし、死に際に蕎嬪から莉珠を大切に育てて欲しいと頼まれてしまったため、皇帝は生かすしかなかった。目の上のたんこぶである莉珠に頭を悩ませていたら、瑛華の母である淑妃・雹雪ひょうせつが莉珠の後見人を名乗り出た。


 その理由は瑛華が莉珠の二つ上で歳が近く、雹雪の生家である蘇家の女子が道術に精通しているからだった。特に雹雪は災いに対する術を心得ている。

 皇帝は最初こそ渋ったが、自分の手には負えないので任せることにした。

 雹雪はすぐさま辟邪へきじゃ――災いを退ける念を込めた結界を張った。すると、莉珠の周りで起こっていた不幸は、それを機にぴたりと止んだ。

 これで万事解決したように見えるが、それ以降の莉珠は公主としてではなく、下女のように働かされるようになった。



 瑛華は侮蔑の視線を送りながら頬に手を添える。

「お母様の道術がなければ、赤眼のおまえは永遠に柳暗宮から出られなかったわ。ここに来て働けることを感謝しなさい」

 福寿宮と柳暗宮一帯は、特に強い辟邪の術がかけられている。莉珠が安心して柳暗宮の外に出られるのも、女官や宮女が食事を届けに来てくれるのもこれのお陰だ。

 正座をした莉珠は額を床にこすりつける。

「お二人には自由をいただき、とても感謝しています」

 そこで不意に、凜とした美しい女性の声が響いてきた。


「なかなか戻ってこないと思ったら。瑛華、いつまでこんな場所に留まっているの?」

 瑛華の背後から現れたのはたくさんの女官や宦官を引き連れた美女、雹雪だった。

 彼女は一緒にいれば日頃の疲れを癒やしてくれるような優しい面差しをしている。

 陶器のように滑らかな白い肌はきめ細やかで皺一つなく、子供を産んだというのに身体はしなやかで美しい。大人の色気をうまく身に纏った女性だった。


 衫襦ひとえは生成り色の生地に春を思わせる色糸で花文が刺繍され、胸元まである鬱金色うこんいろくん咋鳥文さくちょうもんが織りだされ、青紫色の帯で結ばれている。細い肩にかかる薄い絹の披帛ひはくは金銀粉がちりばめられ、揺れるたびにきらめいていた。結われた髪には金の歩揺が挿され、動く度に揺れている。

 皇帝からの寵愛を一身に受け、高い権力を持つ妃。それが淑妃・雹雪だ。


 通常、高い権力を持つ妃の順番は皇后、貴妃と続き、その後に淑妃と来るのだが、現皇帝に皇后はいない。貴妃には素純という貴族出身の女性がいるが、皇帝の足はもう何年も遠ざかっている。

 素純は三人の男児を産み、貴妃の位を与えられた。ところが男児のうち二人が夭折し、残りの一人――莉珠と瑛華の兄・憂炎ゆうえんは池に落ちて溺れたことがきっかけで精神を病み、今は後宮から遠く離れた場所で暮らしている。


 子を二人も亡くし、最後の一人は別の場所で静養中。我が子に会えず看病もできない素純は嘆き悲しむようになり、そのまま倒れてしまった。

 男児を三人も産んだ彼女こそ皇后の位に相応しく、後宮管理も任されるはずなのだが、それもままならない。したがって、この後宮を取り仕切っているのは雹雪だった。

 雹雪の訪れにハッとした莉珠は、慌てて前へ移動した。床に膝をつき、手を前に出して胸の位置で重ねると、頭を下げて挨拶をする。

「淑妃様にご挨拶を申し上げます」


 莉珠の心臓の鼓動がドクドクと脈打ちはじめる。身体が震えそうになるのを必死で耐えいたら、衣擦れの音が聞こえてきた。そして次に、頭に鋭い痛みが走る。

「いた、い……」

 雹雪に前髪を鷲掴みされ、引っ張り上げられていると理解するまでさほど時間はかからなかった。

「おまえの顔をこなたによく見せておくれ。おやおや、元気そうで何よりだこと」

「は、い。淑妃様の、お陰です」

 震える唇から声を絞り出して返事をする。

 莉珠にとって雹雪は自由を与えてくれた恩人である一方で、恐ろしい相手だった。


 彼女はいつも憎悪の感情を剥き出しにしてこちらにぶつけてくる。虫のいどころが悪いと昼夜関係なく呼び出され、躾と称して折檻される。

 身体は服で隠れる部分に暴力を奮われ、窒息死する寸前まで水甕に顔を浸けられて苦しめられる。毎日ご飯が十分にもらえないのも、雹雪が女官たちにそう命じているからだった。

 掴まれていた前髪が解放され、莉珠はその場に倒れ込んだ。


「おまえを見て虫唾が走るのは、その顔があの奴婢ぬひに似ているせいかしら?」

 憂炎も瑛華も母親が高貴な身分の出であるのに対し、莉珠の母・蕎嬪きょうひんは奴婢。そして、蕎嬪が皇帝の寵愛を得る前までは、雹雪が寵妃だった。

 卑しいと蔑んでいた相手に皇帝の寵愛を奪われ、雹雪の矜持がズタズタになったのは言うまでもない。蕎嬪が死んだ後もその憎悪と恨みの矛先は莉珠へと向かっている。

「せっかくおまえがあれを殺してくれたのに、顔が似ているから思い出してしまったわ」

 莉珠の赤色の瞳が潤みを帯びる。蕎嬪が死んだ原因は不治の病だが、それを呼び寄せたのは莉珠の赤眼だと言われていた。


 莉珠の胸に鋭い痛みが走る。唇を引き結んで震える拳を握り締めていたら、淑妃がとぼけた様子で小首を傾げる。

「あら、どうして泣きそうな顔をしているの? 事実を話しただけで他意はないわ。これではまるでこなたが虐めているみたいではないの!」

「い、いえ……決してそんなっ」

 莉珠は涙声で弁解した。

 整った眉を顰め口元を歪める雹雪だったが、興味をなくしたように溜め息を吐く。

「おまえをいたぶってやりたいけれど、あいにく時間がない。代わりに繕い物を用意させたから亥の刻までに仕上げなさい。瑛華、陛下のもとへ向かいますよ」

「はぁい、お母様」

 瑛華は惨めな姿の莉珠を見てニタニタと笑う。


 後ろに控えている女官や宦官たちからも嘲笑の眼差しを向けられていた。

 どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。そんな疑問が莉珠の頭に浮かぶ。

 しかし、すぐにその答えは返ってきた。

(周りに蔑まれ、疎まれるのもお母様が死んだのも全部、私の瞳が赤いせい……)

 床についている手の甲にぽたりと涙の粒が落ちる。


 惨めな気持ちになっていたら、淑妃が莉珠に近づいて耳元で囁いた。

「おまえにできることは、この世に生まれてきた罪と周りに迷惑を掛けている罪をこなたと瑛華に償っていくことよ。身を粉にして誠心誠意尽くしなさい」

 それは死ぬまで下女として生き地獄を味わせてやるという主旨の宣言だったが、莉珠はその意図を理解していなかった。そして既に充分なほど生き地獄の日々を送っている。

「恨むなら赤色の瞳で産んだ蕎嬪を恨むのねえ」

 そう言い残した雹雪は優雅に裙を翻し、瑛華や後ろで控えている女官と宦官を連れて出ていった。


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