災いの公主

第2話



 莉珠りじゅは人が動き出す気配がないのを確認して薄暗い中、宮を出る。

 公主だというのに袖を通している衫襦ひとえくんは色褪せた朱柿しゅし色で、美しい刺繍もない。

 首に母の形見である翡翠の佩玉はいぎょくを提げているが、結い上げている黒髪には簪や櫛といった飾りの類はなく、紐で結ばれているだけだ。


(今日は少し寝過ごしてしまったわ。早く厨房へ行かないと……)

 一抹の不安を抱えて歩みの速度を上げる。目的の厨房に辿り着き、迷うことなく貯蔵箱へ向かう。

 蓋を開けた莉珠は中を覗き込むが、そこは空っぽだった。


 莉珠はがっくりと肩を落とす。無駄足を踏んでしまってしょんぼりとしていると調理台に目が留まる。台の上には、竹で編まれたお椀型の籠がネズミや虫から何かを守るようにして置かれていた。

 籠を持ち上げてみたら、中には乾燥してすっかり固くなった包子パオズが一つ置かれている。蒸し直さなければ固くて食べられそうにないほどカチカチの包子。しかし莉珠はごくりと生唾を呑み込んだ。


「ありがとう」

 誰とも分からない相手に感謝を述べ、竹籠を棚に戻して包子を布に包む。懐にしまうとすぐに厨房を出た。

 柳暗宮に戻った頃には、太陽が内壁から顔を出していた。


 莉珠は宮内の小さな調理場で白湯を淹れ、蒸し直した包子と一緒に部屋へ運ぶ。昨日の昼から何も食べていなかったので、食事にありつけるのはありがたかった。

 蒸し直した包子はもちもちとした弾力を取り戻している。一口噛むとしっとりとした皮が舌の上にのり、ほんのりと甘みがする。そして中にはたくさん野菜が入っていた。

「美味しい……」


 莉珠が夢中で包子を頬張っていたら、柳暗宮の門扉がドンドンと乱暴に叩かれた。

 大きな音にびっくりして莉珠は固まった。

 時間が幾ばくか経ち、そろそろと席を立つ。恐る恐る門扉を開けたら、地面の上には椀と匙がのった膳が粗雑に置かれていた。

 椀には、底に描かれた模様が透けて見えるほど、薄い粥がつがれていた。

 悲しいことに、これはれっきとした莉珠の朝食だ。

「いただきます」

 莉珠は文句の一つも言わずに手をあわせ、たった一杯の薄い粥を食べ始める。

 味付けも歯ごたえもない重湯のような汁がするすると喉をとおっていく。食べ終えたばかりなのにお腹がきゅうっと鳴いた。


 莉珠は下を向いて赤子をあやすようにお腹をさする。今朝は包子があったお陰でお腹の主張は控えめだった。

 収監されている罪人のような扱いを受けているが、莉珠はこの国の公主だ。

 本来ならばこのような待遇を受ける身分ではないし、彼女に仕えるべき女官や宮女がいて、身の回りの世話をしてくれる。

 ところが柳暗宮は莉珠以外に人はいない。


 建物だって他の宮より古く、修繕されていないところからは隙間風が入り、雨の日などは酷い雨漏りもする。あばら家ともいえる宮に十年以上たった一人で暮らしている。

 食事を運んでくる者以外で訪ねてくれるのは鳥や獣だけ。

 今日は鳥が莉珠の元にやって来た。鳥の嘴には野花がくわえられている。

 贈り物だというように、鳥が莉珠の足もとに小さな花を置いた。

「とっても可愛いお花だわ。ありがとう」

 野花を摘まんだ莉珠は目を細める。彼らの慰めは莉珠の救いだった。

 不思議なことに莉珠は物心ついた頃から動物たちに好かれやすい。


「またね。私は福寿宮へ行ってくるわ」

 野花を小さな器に生け終えた莉珠は、鳥に手を振って宮を出る。

「……今日は何も起きませんように」

 祈るように呟き、真っ赤な瞳を閉じる。

 莉珠が公主なのに酷い扱いを受けているのは、この血のように赤い瞳が原因だった。






「いつまで宝飾品の手入れをしているの? おまえのせいでお気に入りの簪が挿せないのよ!」

 福寿宮内の小さな離れにて。

 莉珠が正座して玉の腕輪や螺鈿の簪を磨いていると、罵声と共に戸が勢いよく開かれる。

 突然の大声にびくりと身体を揺らし、顔を上げる莉珠。

 そこには異母姉の瑛華えいかが腰に手を当てて立っていた。


 シミ一つない白くて陶器のような肌に、ぷっくりとした桃色の唇。鼻は高くもなく低くもない高さで、まどろむ猫のような瞳は榛色。濃紺を帯びた黒髪は頭上でくるりとした双鬟そうかんが結われている。

 瑛華は目を奪われるほど美しい公主だった。


 ところが今の彼女は柳眉を逆立てて、莉珠へ蔑んだ視線を送っている。

「丁度終わりました、お姉様」

 莉珠は瑛華の側まで寄ると、膝を床についてから顔を伏せる。そして、磨き終わったばかりの簪を頭より高く持ち上げて差し出した。

 瑛華はフンと鼻を鳴らしながらそれを奪い取る。

「まったく。これからお父様にご挨拶しに行かなくてはいけないのに。どうしてわたくしが簪を取りにここまで来なくてはいけないの? それもこれもおまえがカメのように鈍間なせいよ!」

「申し訳ございません、お姉様」


 顔を伏せたままの莉珠は淡々と受け応える。

 余計なことを口にすれば瑛華の機嫌を損ね、躾と称して折檻される。現にこの部屋の入り口には、莉珠を苦しめるための水甕が置かれていた。

 簪を頭に挿し終えた瑛華は汚物でも見るような目で莉珠を睨めつけ、同じ空気を吸いたくないと言うように口元を袖で覆う。


「朝から奴婢ぬひの娘の顔を見なくてはいけないなんて最っ悪だわ。嗚呼、卑しさが移ったらどうしましょう」

 瑛華が言うように莉珠の母・蕎嬪きょうひんは奴婢の出身で、後宮では洗濯や草取りなどの下働きをしていた。それなのにどういう訳か父である皇帝に見初められた。

 皇帝に見初められた娘はどんな身分であろうと妃の位が与えられ、その子供は皇族として扱われる。しかし、莉珠は違った。

「だけどおまえは、奴婢の子以前に災いを呼ぶ赤色の瞳を有して生まれてきた。そんなおまえに誰が公主として敬うというの?」

「誰もおりません」

 小さな声で返事をした莉珠は、目を閉じて睫毛を震わせる。


 姚黄国では黒色や茶色、榛色の瞳が一般的で赤色は珍しい。とはいえ、赤色の瞳が不吉かどうかは歴史を辿っても例がなかったため、莉珠が生まれた当時は皇帝も臣下も些末ごととして取りあわなかった。

 ――莉珠の周りで立て続けに不幸が起きるまでは。


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