第3話


「ただいまー」

 ラファエルが帰って来た。

 明日ネーリが訪問する報せはすでに城に送っていた。今日は帰れるかどうか分からないという感じだったのだが。

「ラファエル様、お帰りになりましたの」

 アデライードは嬉しそうに迎えた。

「うん。あんまり今日は用事が無かったし。ジィナイースに明日会えると思ったら嬉しくて城にいても今日眠れなそうだから。戻って来ちゃった。君の淹れた紅茶を飲めばゆっくり眠れそうだからね。うーん。いい匂い」

「明日お出しするお料理、何にしようかと思って。丁度今出来たところですわ」

「戻ってきてよかった」

「ラファエル様はジィナイース様の好みがお分かりになるでしょう? 料理を選んでください」

「喜んで。食器出すの手伝うよ」

「ありがとうございます」

「結局駐屯地にまで行ってくれたんだって?」

「行きました。わたし、竜を見ましたわ」

「可哀想に。そんな怖いもの見たくなかっただろうね」

 妹の頭を撫でて慰めたが、彼女は笑っている。

「ジィナイース様に懐いている竜が本当にいましたわ。本当は慣れてない人間が近づいたり触ったりすることを竜は嫌がる生き物らしいのですが、ジィナイース様が側にいらっしゃったので大人しいものでした」

 ラファエルは微笑む。

「そう……。昔からあの人はそうだったよ。見たこと無いような動物でも、不思議とあの人にはすぐ懐くんだ。何でかは分からないけどね……変わってない」

 優しい表情でそんな風に言った兄に、アデライードは穏やかな表情を向ける。

「動物は人間よりも本能が鋭いという。自分を守り、可愛がってくれる人だということが、彼らには分かるのかもしれない。ああ、人間が動物ほど本能が鋭かったら、この世はもっと素直に美しいものが美しいと讃えられ、やさしい者が幸せになれるものになるんだろうなあ」

「竜の皮膚に触りました。鱗にも。貝のように虹色でしたわ」

「触ったの? 大丈夫、食べられなかったかい?」

「大丈夫ですわ。ジッとしててくれました。けれど、本当に不思議な生き物ですわね……確かに何か、他の動物とは違う気がします。私、トカゲもワニも見たことありますけど、竜はもっと神々しい動物に見えました」

 ワニ、と聞いた途端ラファエルは目を丸くした。

「僕は竜は見かけたことあるけど、ワニはないぞ」

「ワニも大きかったですけれど……でもわたし、竜の方が顔は可愛らしいと思いましたわ。

 ワニは小首を傾げませんもの」

 ラファエルが声を出して笑っている。ひとしきり笑ってから、妹に向き直った。

「……アデライード。僕はね、君を見付けた時……嘘だと思うかもしれないけど、修道服を着ていても、君が特別な子なんだと分かったんだよ。まさか自分と同じ一族だとは思わなかったけど、君の目にはとても高貴な光があった。人を威嚇したり、攻撃する高貴さじゃない。人を許せる魂を持った、優しい、高貴さだ。だから声を掛けた。こんなに高貴な魂を持った若い女性が、社交界も知らず、辺境の修道院で暮らし続けるなんて、……狭い世界で一生、……そんなのは可哀想だと思ったからだ。傲慢な考え方だったよ」

 アデライードが優しい顔で、小首を傾げる。

「僕は自分の勝手な見方で、君の世界を『狭い』などと決めつけてた。でも実際はそうじゃない。君は、同じ年頃の令嬢が出来ないようなこともたくさん出来るし、貴族令嬢が見たことのないものも知っている。僕が驚くほど色んな経験をしているよ。祈ってばかりで、変わり映えの無い毎日を過ごしているに違いないと。それは間違いだった」

 自分が「ワニを見たことがある」と言っただけで、ラファエルはここまでのことを思っている。

 ラファエルこそ、知らないだろう。初めて会った、片方だけ血を繋げる兄が、こんなに感受性豊かで、優しい人だと分かった時、自分がどれだけ嬉しかったかを。

 修道院を出る時、随分心配された。

 片方の血が繋がってることなど、大貴族では珍しくもなく、凡庸な繋がりだと。きっとそんなものを頼りにしても、馴染めない世界に連れていかれて、召使いのように使われるか、苛められるだけだと。アデライードが居心地のいい家を出る決心をしたのは、外の世界への好奇心と、迎えに来た兄が優しそうだと思ったからだ。

 結局、その人を信じるか信じないかは、最後には直感なのだ。

 怯えて、そこにいることも出来た。

 でも元々、彼女には失うものはなかった。何も持っていなかったから。

 他の世界があるなら見てみたかった。きっかけなど、何であれ、構わないのだ。

「でも……ラファエル様が私を見て、狭い世界に生きる哀れな娘だ、と思わなかったら、そこから連れ出そうと思って下さらなかったのでしょう? それなら、きっとそう思われたことも私にとって幸せなのですわ」

「君は本当に、優しい子だね」

「それに確かに貴族令嬢は火の起し方も牛の乳の絞り方もご存じないかもしれませんが、あの方たちだって私の見たことのない世界を知っていますわ。きっとどっちの世界も狭くも広くも無いのでしょう。どっちが良くて、悪いとかでもないのだわ」

 ラファエルは美しい食器を並べ終わると、銀のスプーンを手に取った。

「はは……」

「?」

「小さい頃、ジィナイースと過ごしたローマの城で、こうやって二人で食卓の準備をよくしたんだ。彼は高貴な血筋なのに、人の為に何かを準備するのが好きな、不思議な人でね……」

 アデライードに銀のスプーンを手渡す。

「そのスプーン、尾の方に飾りがついてるだろ?」

 ラファエルの言った通り、そのスプーンには尾に、ガラスに閉じ込めた花の飾りが取り付けられている。

「ローマの城にも、美しい食器がたくさんあった。花の模様が描かれたり、刻まれた食器。

……特にお気に入りはこれと同じ、ガラス細工のスプーン。一つずつ違う種類の花がつけられている。ジィナイースは食卓に並べるのが好きだった。そして食事やお菓子の時間に、座る人を自分で招くんだ」

 美しいスプーンを、アデライードは見つめた。

「……その方に似合う花の模様を、選んでいらっしゃったのね」

「君も毎朝紅茶に花を添えてくれる。きっと、君はジィナイースに少し似ているんだ」

 ヴェネトの夕暮れの光を、ラファエルは見遣った。

「彼は人を見る時、まず美しさを見ようとする。美点や、好ましいところを。だから彼は、その人を飾る花が選べるんだろうな」

「ラファエル様……」

「ジィナイースがきっと初めて君に会ったら、修道服を身にまとった君に合う花を目を輝かせて選んだよ。僕は君の世界を変えようとした。僕もジィナイースと一緒に生きるなら――もっとそこにある光を見つけられるようにならないと」

 セルピナ・ビューレイにも、きっと光がある。

 その片鱗を、あの、ヴェネト王の私室での対談で、ラファエルは感じた。

 その光に、善意に訴えることは、無意味ではないのかもしれない。

 人である限り、必ず弱みはある。

 彼女を人でいさせなくてはならない。

 完全に冷酷な悪魔や、神にしてしまったら、ラファエルでも手を出せなくなるだろう。

 ジィナイースを王妃に会わせてみたかった。勿論、すでにある確執のことは聞いているから、それが叶わないことは分かっているけれど。

(あの人なら、僕の気づかない、彼女の何かに気付くかも)

「ラファエル様」

 アデライードは、フランシスに花飾りのついたスプーンを差し出した。

「ラファエル様もわたしに花をくださいましたわ。気にかけて下さったり、優しくして下さったり、素晴らしい感性で、お二人は私を感動させて下さいます。ですから私にとって、ラファエル様もジィナイース様も、同じ光です」

 夕暮れの温かい光の中、兄妹は仲良く寄り添った。

 ラファエルは金髪を掻き上げて、優しく笑う。

 食べながら話そうか。

 彼女をテーブルに促す。


 明日、ジィナイースに会うのが本当に楽しみだった。





【終】



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