月夜に空いた、穴の中

萩津茜

第一話

 僕の体は、明暗の曖昧な月光に照らされて、アスファルトとの境界面を浮遊していた。俗に言う、浮き足立つよう、というものだろう。音こそ立たないものの、街は夜を迎えた途端に純透明な水で満たされ、あたかもぷかぷかと、気泡が昇っているかのような様相を呈していた。

 月光。その光の主は、闇夜の中心に居た。

 まるでそこだけ、ポッカリと空いた穴。

 光と闇が混ざり合うという、撞着とも取れるその現実には、まさに空洞、という形容が適しているように感じる。光の脈動。闇の支配。それらは僕の鼓動に合わせ、変化した。空洞は一様ではなかった、ということだ。

 大通りが近かった。それ故、車輪の喧騒で聴覚の使役が煩わしかったのだ。だからこそ、しぶとく居座る三日月に思い寄せることとなったのだろう。そんな夜行の口も、歩を進めるほど変貌した。

 自宅からの道は、もう夜陰に紛ってしまった。夜行は頻繁にする方だが、今日の光景は、神妙だ。加えて、蓄積された休学の焦燥と底冷えの寂しさが混濁して吹きつける。脳裏をよぎった言葉は、不安。頭で一度独り言ちたそれは、増幅の限りを尽していく。車のクラクションを鳴らされるまで、不安、以外の何も頭には回らなかった。

 赤信号の寸前で、横断を留まっていた。運転手に頭を下げるべきか否か、僕は数瞬躊躇ったが、結局俯きながら信号が変わるのを待っている。生憎、車のフロントガラスは信号と街灯の反射で車内を隠していた――。

 僕の夜行は日没よりはじまる。毎夜、辿るルートこそ気分任せなものの、行き着く先は決まって川の土手のベンチである。とりわけ目的があるわけでも、思い入れがあるわけでもない。――他の場所、を考えるのが億劫だから。多分。

 今宵も草木の茂みからベンチが現れた。徐ろに腰を下ろす。昼夜木陰がかかっているからだろう、融けかけた氷のような、粘着性のある感覚が伝わった。それもいつものことで、多少身構えていたことだったのだ。

 川で水の跳ねる音がした。静けさを更に静かだと、そう断言させる水の流れ。土壌の亀裂に次々とせせらぎを成すがごとく。そうしてやはり水面を映して月が揺れている。

 暗がりに目を凝らして、文庫本を読んでいたら、随分夜も深まったようだった。時計は夜半を指している。自動車も滅多に走らなくなって、見渡す限りの人は僕だけになっていた。だから、向こうの橋梁を渡る人影が、眼にとりわけ異質に映ったのだ。輪郭すらおぼつかないその影は、だがはっきりと目に余る行動に移った。

 ――欄干に両手を掛けたのだ。

 真っ黒な身はいつしか、白く彩色されていた。シャツのボタンが北斗七星のごとく代わる代わるの光沢を放った。

 静けさ纏わる夜は、いつしか騒々しさを発散している。

 僕の同足は、ほとんど橋梁の欄干の人影の最期を見届ける期待を孕んでいたのだろう。だから。命を救う気など存在しないから。興味、共感。そういう非道徳的美学を持ち出して形容できるマインドで、散歩と変わらぬ足取りをもって橋梁に近づいた。

 人影は既に、僕を目撃していたのであった。橋の欄干の上に、白亜に透きとおったシャツの長髪少年は、ひとたび凪が去れば落下しそうな趣きで両足を蹴り上げている。

 一先ず、少年の存在が、この世のものとは思えなかった。

「これから河に飛び込むと思っていた?」

「あ、ああ。――いや、たまたま土手のベンチで夜風にあたっていたら、橋のへりから川面を眺めるあんたを見かけたんだ。危ないから、注意しようと思ってだな……。あ、ほら、少しでもバランスを崩したら落ちてしまいそうだ。危ないから、下りなさい」

「はぁい。――とでも? とてもとても、君じゃあ私に敵いなんてしないのに。せっかくだし、私の横、座るかい?」

 括られないままの肩までの髪が乱れて吹き流されているが、決して少年の精悍たる吊り目の笑みを邪魔しなかった。夜闇において、少年は隙無く艶を演出し、厳然だが遊人とも捉えられうる天使のような容貌を、一点、僕に対して向けていた。

 少年の横に腰掛けること無く、欄干越しに川面を見下した。空の色んな星が差し込んでいる。鴨の群れがその一つひとつを呑み込んでいく。ここから水面は、いとも接近しているように見える。もしも僕がここに――飛び込んだとしたら、今の見積もりよりもきっとずっと深い。川底のれきの数々に手の平を接触させること無く、寒さにもがき往くのだろう。沈みゆく方は永遠の闇、手をかざすのは微かな乳の糸。

「君も、そういうことを考えるんだね。私たちと同じように」

「えっ?」

 少年に声をかけられて、服の袖に付いた欄干の錆を払い落とした。両腕を組んで、凭れかかっていたのか。物思いが増えたのは、最近のことじゃない。過去を手繰り寄せれば、それはとある大正時代の小説を初めて読んだ頃からだ。今から、五年は前からになる。一度物思いに耽れば、あたかも実体は命の刈り取られたようになり、魂が独り歩きをはじめる。僕の物思いについて、不思議なことにこの少年は気づき、共感の言葉を発した。余りにも唐突で、だが遠慮には聞こえぬことだった。数瞬のうち、少年は闇を纏っていた。

 僕は言う。

「あなたは、何を考えるんだい?」

「君と、一緒だ。一緒だった。あの河に、海に、崖下に、飛び込んでみたらどうなるんだろうって。いつもその先の”世界”を、私たちは意識していた。その当時は、自覚していなかったけれど。物思いっていうのは、美しい。君のそういう姿は。ベンチに凭れて星に心願する様は、ずっと見ていたよ。きっと君もそうやって、心の何処かで、視覚世界のその先の”世界”を、想っている」

「――まあ、どうだろうな。たしかに、僕はこの現からは、目を逸らしているかもしれない」

 僕はまた、視線を落とす。鴨が鳴いている。

「君に――」

 いつの間にか少年は欄干を下りて、歩道の真ん中に立っていた。

「君に、会うために来た。私は”迷える魂”だ。屍人の私たちを憐れみをもって救済してほしい。頼みたいことがあるんだ」

 少年の目は僕を真っ直ぐに睨みつけている。

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