桃から生まれるはずだった救世主をおばあさんは殺してしまいました。

@babu416

第1話

その年は、鬼の襲撃が特に頻繁だった。毎月のように近隣の村が襲われ、若い娘たちが攫われ、抵抗する者は皆殺しにされた。村人たちは恐怖に怯え、夜になると子供たちの泣き声が聞こえてくる。そんな絶望的な日々が続いていた。


ある夏の朝、川の畔で洗濯をしていたおばあさんの目に、上流から流れてくる一つの大きな桃が映った。普段見る桃とは違う、まるで光を放っているかのような美しい桃だった。


「まあ、なんと立派な...」


桃は、まるでおばあさんに拾われることを望むかのように、ゆっくりと岸辺に寄ってきた。手に取ると、ほんのりと温かく、かすかな鼓動のようなものさえ感じられた。


家に持ち帰ると、おじいさんも目を丸くした。

「これは普通の桃ではないな...」


二人は桃を前に、しばし言葉を失った。その時、どちらともなく、この桃には何か特別な意味があるのではないか、という予感が胸をよぎった。


おばあさんは台所で包丁を手に取った。普段は手慣れた動作なのに、その日に限って、手が少し震えていた。


包丁が桃の表面に触れた瞬間、かすかな震動が走った。おばあさんは一瞬躊躇したが、既に遅かった。包丁は桃の中心に向かって沈んでいき―


「うあぁっ!」


甲高い赤子の悲鳴が響き渡った。慌てて包丁を引こうとした時、おばあさんの手から赤い血が噴き出した。それは彼女の血ではなかった。


「あ、ああ...いやっ...」


割れた桃の中には、産まれたばかりの赤子が横たわっていた。その小さな胸には、深い切り傷があった。赤子は一度だけ、悲しそうな瞞のような目でおばあさんを見つめ、そして二度と動かなくなった。


おばあさんの悲鳴を聞きつけた村人たちが駆けつけてきた。しかし、誰も事態を理解することができない。ただ、目の前の光景が、何か取り返しのつかないことが起きてしまったことを物語っていた。



その夜、長安寺の住職は奇妙な夢を見た。


荘厳な光に包まれた空間で、童子が現れた。その姿は、朝に命を落とした赤子と、どこか似ていた。


「私は、神より遣わされし者」

童子の声は、優しくも厳かだった。


「この世に人の姿で生を受け、鬼の心を開き、人と鬼の和解を導くこと。それが私に与えられた使命でした」


童子の表情が悲しみに曇る。


「しかし、運命の歯車は思わぬ方向に回ってしまった。これもまた、定められていたことなのでしょう」


「あの老婆は、罪を犯したのでしょうか」と住職は問うた。


「罪と罰。それは簡単な言葉です。しかし、この世の全ては、それほど単純ではありません。彼女の犯した過ちは、新たな試練の始まりとなるのです」


童子は続けた。


「人の心の中にある鬼性。鬼の心の中にある人間性。その両方と向き合わねば、真の和解は訪れません。これから起こることは、全て必然なのです」



長安寺の住職の見た夢は、たちまち村中に広まった。神の子、救世主を殺してしまったという噂は、まるで疫病のように周辺の村々にまで伝播していった。


最初は、ささやきから始まった。

「あの夫婦が神の子を…」

「私たちの救い主だったのに…」

「鬼から守ってくれるはずだった方を…」


ある夜、隣村が再び鬼に襲われ、燃え盛る炎が夜空を染めた。逃げてきた人々の中には、娘を攫われた者、家族を殺された者が大勢いた。彼らの怒りと悲しみは、一気に老夫婦へと向けられた。


「お前たちのせいだ!」

「神の子がいれば、こんなことには…!」


群衆は次第に凶暴化していった。石を投げつける者、家に火を放とうとする者、老夫婦を縄で縛り上げようとする者まで現れた。人々の目は血走り、理性を失っていった。


「火あぶりにしろ!」

「鬼に差し出せ!」

「神の子の身代わりとして捧げるのだ!」


住職が必死に止めようとしたが、群衆の怒りは止まらなかった。むしろ、守ろうとする者たちまでも、「鬼の共犯者」として糾弾の対象となっていった。


老夫婦は縄で縛られ、村はずれの杭に括りつけられた。着物は引き裂かれ、体中に傷を負わされた。それでも群衆の怒りは収まらない。


「これが神の子を殺した報いだ!」

「もっと苦しめ!」


人々は、自分たちの行為が、忌み嫌う鬼と何ら変わらないことに気づいていなかった。





その時、鬼ヶ島の大群が村を襲撃した。しかし、これは普段の略奪とは違っていた。鬼たちは、老夫婦を苛む村人たちを見て、大声で嘲笑した。


「面白い!人間どもが自らの手で同胞を責め苛んでおる!」

「我らと変わらぬではないか!」

「そうだ、もっと苦しめてやれ!」


その言葉に、人々は我に返った。自分たちが鬼と同じ残虐性を持っていたこと、否、むしろ同族に対して残虐行為を働くという点で、鬼以下の行為を働いていたことに気づいたのだ。


鬼たちは村人たちを追い払い、宴を始めた。酒を飲み、略奪した食料に舌鼓を打つ。その様子を見ていたおばあさんは、ある考えが浮かんだ。


「わしを解放してくれ。お前たちに、ご馳走を作ってさしあげよう」


鬼の大将は高笑いした。

「人間の作る物など、所詮知れておる。だが、よい。お前の最期の仕事とせよ」


おばあさんは、血の滲む手で作業を始めた。村で評判の彼女の料理の腕を生かし、香り高いきびだんごを作り始める。しかし、そこには秘密の材料が加えられていた。


長安寺の住職が密かに届けた特別な薬草。それは、鬼の力を一時的に弱める効果があるとされる伝説の草だった。おばあさんは、自らの罪の意識と、村を救いたいという想いを込めて、丹精込めてきびだんごを作った。


酒に酔った鬼たちは、香ばしい匂いに誘われ、警戒心を解いていった。最初に食べた鬼が「うまい!」と叫ぶと、他の鬼たちも我先にと食べ始めた。


その時、村の若者たちが隠し持っていた武器を手に立ち上がった。薬草の効果で力の弱まった鬼たちは、まともに戦うことができない。しかし、それでも鬼たちの力は人間を遥かに上回っていた。


激しい戦いが始まった。若者たちの多くが傷つき、命を落とす者も出た。しかし、彼らの犠牲は無駄ではなかった。薬草入りのきびだんごを食べた鬼たちは、次第に動きが鈍くなっていった。


そして最後の一撃。おばあさんは、特別な想いを込めた最後の一つのきびだんごを、鬼の大将に投げつけた。それは大将の口に入り、即座に効果を現した。


しかし、これは単なる毒や薬ではなかった。おばあさんの深い悔恨の情、村人たちの苦しみ、そして失われた神の子の魂が、きびだんごを通じて鬼の心に響いたのだ。


鬼の大将は膝をつき、涙を流し、初めて自らの所業の重さを知った。他の鬼たちも、次々と同じ体験をする。それは懲罰であると同時に、救いでもあった。




鬼の涙が地面に落ちた場所から、一本の桃の木が芽吹いた。しかし、その木は甘い実ではなく、苦い実をつけた。人も鬼も、その実を口にすると、自らの罪と闇に向き合わざるを得なくなるという。


鬼たちは完全には更生しなかった。時として略奪の衝動に駆られ、人を襲おうとする。しかし、そんな時、彼らは自ら村を訪れ、おばあさんの作る苦いきびだんごを求めるようになった。


村人たちもまた、完全には老夫婦を許せなかった。しかし、自分たちも罪深い存在であることを知り、共に贖罪の道を歩むことを選んだ。


祠の前に植えられた桃の木は、人と鬼、双方の罪を見つめ続けている。その苦い実は、安易な救済などありえないという戒めであると同時に、真摯に罪と向き合うことでしか、本当の救いは得られないという教えでもあった。


老夫婦は今も、贖罪の想いを込めてきびだんごを作り続けている。それは、失われた神の子への償いであり、人と鬼、両者の心の闇への警鐘でもあるのだ。

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