愛の感情
青野ハル
第1話
「今までずっと、言ってなかったことがあるんだ」
「急にどうしたの、聡くん。怖い顔してさ。言いたくないなら言わなきゃいいじゃん。どんな秘密があったって聡くんは聡くんだから」
そう言って笑う美紗の顔は、少し強張っているようにも見える。本当はそんな顔をさせたくない。だけど、これは彼女自身の為でもあるから、今更引くわけにはいかない。
「そういう訳にもいかないよ。だってそれが……」
だってそれが……僕の愛なのだから。
「続いてのトピックは人工知能……」
点けっぱなしだったテレビから聞こえる、ニュースキャスターの単調な声。
夕ご飯の支度も済ませて、後は彼女の帰りを待つだけ。手持ち無沙汰な僕は、惰性的にそのテレビを眺めていた。
「最近の技術の進歩は目覚ましく、特定の個人の性格や行動パターンがプログラミング化された、人型AIというのも普及してきています」
「今凄く人気ですよね。私の母もいつの間にか買っていたんですよ。巷では、これまでの常識を覆すようなAIも誕生してるなんて噂もありますしね。一方で……」
「ただいま、聡くん」
愛しの彼女が帰ってきた。慌ててテレビを消して、彼女を迎えいれる。
「おかえり、美紗。ご飯出来てるから一緒に食べよ」
「うん。いつもありがとね、聡くん。聡くんのご飯はおいしいから、すっごく楽しみ」
そう言って微笑む彼女は、心底うれしそうで。僕の料理を食べるたびに、おいしい、おいしいとほめてくれる彼女は、今日も食卓に並べられた料理をペロリと平らげていた。
「ごちそうさま。皿は私が片付けとくから、聡くんは休んどいて」
「僕がやっとくから大丈夫だよ。美紗は仕事が大変なんだし、僕に任せといて」
美紗との同棲生活は二……四年にもなるが、美紗はどうやら、自分に家事を全て任せていることに申し訳なさを抱いているようだ。
その分だけ、美紗が仕事を頑張ってくれているわけだし、気に病む必要性は全くないのだが。
「私ばっかり食べてるのに……聡くんは優しいね」
食器を洗いながら、最後の美紗の言葉を反芻する。少し遠慮がちな、困ったような笑顔が忘れられない。
「……優しいのは美紗の方だろ」
彼女との記憶に思い巡らせながら、誰に言うわけでもない、小さな独り言が宙に浮いた。
「こうやって一緒に買い物に行くのも、久しぶりだな」
「そうだね。最近は、仕事で忙しかったし」
美紗が久しぶりにゆっくりできそうだからと、二人でやってきたのは、地元にある少し大きめのショッピングモール。初デートも初告白も行った、僕と美紗にとっての思い出の場所。
「どう? 似合ってる?」
「もちろん。これ以上ないくらい似合ってるよ」
上機嫌な美紗の洋服選びに付き合いながら、モール内をふと見渡してみる。
僕と美紗が付き合い始めてからおよそ五年。僕たちの関係をずっと見守ってくれたこのショッピングモールも、当時から大きく変化した。
二人でラムネを飲んだ駄菓子屋さんはゲームコーナーに、フードコートで一緒に食べたうどん屋さんはバーガーショップへと代わっている。そんな僕らの思い出の場所の変遷を、美紗はどう思っているのだろうか。
「あっ! 聡くん、あそこのお店覚えてる?」
美紗の少し甲高い声が、そんな思考から僕を引き戻す。
そう言って美紗が指差したのは、先日リニューアルオープンしたばかりの大きめの雑貨店。外装に前の店の面影はなく、商品もほとんど取り換えられていたが、それでも答えには確信があった。
「覚えてるよ。美紗との思い出の場所の一つだから」
僕の答えを聞いて、美紗は満足そうに頷いた。
「そうそう。覚えてくれてたんだね。聡くんが私に似合ってるからって、髪飾りを買ってくれたのもここだったよね。今でも大切に使ってるくらいには、嬉しかったなあ。あれがいつぐらいの話だっけ?」
「二年前の五月だよ」
「聡くん、よく覚えてるねえ。そんなに前の話だったっけ?」
美紗は驚いたようにこちらを見るが、忘れられるはずがない。
あの日見せた君の天使のような笑顔も、はにかみながらもつけてくれた髪飾りも、僕の記憶に、鮮明に焼き付けられている。
あの日、あの時、僕は美紗を一生幸せにしよう、美紗を守れる男になろう、そんな覚悟を決めたんだ。
必死にお金を貯めて、次の年のジューンブライドに間に合わせようと、プロポーズするための指輪まで用意して……それなのに。
「聡くん、聡くん! どうしたの?」
「……ああ。なんでもないよ。大丈夫だから」
今は美紗との楽しい買い物の時間だ。過去の記憶をフラッシュバックする必要はない。
こうして今日もまた、変わらない日々を過ごしていく。蘇ってきた記憶と変わってしまった自分に見ないふりをして。
「父さん、母さん、ただいま!」
「おかえり、美紗」
「お義父さん、お義母さん、お久しぶりです。お体の具合は大丈夫ですか?」
「おお……聡君も来てくれたのか。ぼちぼちだよ。とりあえず、ゆっくりしていきなさい」
美紗の長期休みに合わせて訪れた美紗の実家。この日を心待ちしていた美紗の声は、一段と弾んでいるようにも思える。
美紗のご両親は優しい人達で、僕のことも温かく迎え入れてくれている。お義母さんは少しお茶目で、子供のような笑顔が特徴的な人だ。お義父さんは寡黙な人で、性格的には美紗とよく似ている……いや、似ていたというべきか。
このように、美紗のご両親とは比較的、仲良くさせてもらっているとは思うが、それでもやっぱり、義理の両親との付き合いというのは簡単じゃない。
立場や関係性による微妙な距離感というのは存在するし、とはいえ関係性が近すぎるのも遠すぎるのも、トラブルの原因となってしまう。
そして、それ以上に……お義父さん達の厚意を受け取るというのが、僕には少し負担だった。
「母さんと二人でお買い物に行ってくるね」
「あなた、聡くん。留守番お願いね」
僕もご相伴にあずかって、食事を共にした後、お義母さんと連れ立って家を出る彼女を見送った。二人がいなくなったことで、賑やかだった家の中は静寂に包まれる。聞こえるのはキリギリスやコオロギの鳴き声だけ。
沈黙が続き、微妙な雰囲気になっても、それでもなお表情一つ崩さない義父を見て、僕は居ても立ってもいられずに、手と頭を地面にこすりつけた。
「いつも、演じてくださってありがとうございます。お二人にはとても辛いことをさせてしまっている自覚もあります。本当に申し訳ございません」
地面にひれ伏したまま、目線だけ少し上げると、そこには地蔵のように固まったお義父さんの姿があった。突然、僕が頭を下げたことに対して呆気に取られているようだ。
なんとか僕の意図を理解して、それでも何を言うでもなく、じっと僕を見つめていた。
二人が強いられている精神的な負担を僕は知っている。それが彼女自身の望んだ願いだったとしても、こんな状態を作りだしてしまった責任は僕にある。
だから、どんな否定的な感情や言葉であっても、僕は受け入れると決めていた。
幾許かの空白の時間が流れ、ようやく口を開いたお義父さんから返ってきたのは、僕の予想に反して、労いと謝罪、そして感謝の言葉だった。
「……顔を上げてください。謝らなきゃならんのはこちらの方です。娘に付き合ってくれているあなたには、本当に感謝しています。これからもどうか……娘の傍にいてやってください」
「そんな。僕なんて何も……」
僕なんて何も、感謝される資格なんかない。彼女の本当の幸せよりも、自分の幸せを優先してしまっている僕には何も。
「ただいまぁ! ちょっと! 父さんと聡くん、二人でこそこそと何話してるの?」
「ううん、別に。少し世間話をしてただけだよ」
買い物から帰ってきた美紗の問いかけに、作り笑いをしてごまかす僕。お義父さんも僕の意図を汲み取ってか、頷くだけで何も言わなかった。美紗は僕を訝しそうに僕を見つめる
……ごめんね、美紗。君にだけは聞かせるわけにはいかない。
それが本当は、君の為にならないのだとしても。
肌寒くなってきた平日の昼。普段なら、近くのスーパーで買い物を済ませているところだが、今日は待ち合わせのカフェで、人を待つ。美紗以外の人と出かけるのは久しぶりだ。席についてからほどなくして、待ち人も姿を現した。
「久しぶりだな、聡。久しぶりと言っていいのか分からないけど」
「ほんと久しぶりだね、隆司。研究所を辞めた時以来かな」
季節外れの半袖、半パン、麦わら帽子で、僕の前に立って軽く手を振るこの男——佐藤隆司は、以前に勤めていた会社で仲の良かった同僚の一人で、今日僕をここに呼び出した張本人。
美紗の話によれば、出世して技術部長になったらしいが、そんな男が今さら僕に何の用だろうか。
「お前、今は仕事を美紗に任せて、専業主夫やってるんだろ。大丈夫か?」
「家事は元々得意だったし、家事疲れとかも無いから上手くやれていると思うよ。それよりお前、技術部長なんて凄いじゃないか。CTO(最高技術責任者)の最有力候補なんて言われてるみたいだが」
「そんな大層なもんじゃないさ。仕事がちょっと増えたくらいで、肩書だけの名誉職だよ」
久方ぶりの再会というのもあって、身の上話に花が咲く。一時間ほど話し込んで、少し話題が落ち着いた頃だった。
「聡、ちょっといいかな?」
隆司の強張った顔つきに、ただならぬ雰囲気を察して、こちらも気を引き締める。彼は少しかしこまって、こう言った。
「お節介かもしれないが、真剣に聞いてくれ。なあ、そろそろ美紗に本当のことを言った方がいいんじゃないか?」
突然突き付けられた冷たい現実に、時間が止まったような感覚にも陥る。見て見ないふりをしていた都合の悪い真実。うるさい、黙れ。反駁の言葉を何度も反芻させるが、結局は何も、言い返すことが出来ない。
「今のままじゃあ、あいつが報われねえ。なあ……お前が一番分かってるだろ」
「お前なりの葛藤があるのかもしれないけど、それが美紗の為になるって本気で思ってんのか?」
顔を紅潮させて、まくし立てる隆司。彼なりに、僕らの事を真剣に思ってくれているのだろう。そのことは十分に理解している。理解はしているが……。
「勝手なこと言ってんじゃねえよ。お前に僕の、美紗の何が分かるんだよ」
冷徹な目つきとアンバランスな、強い怒気に満ちた声に、隆司が一瞬たじろぐ。
美紗には聞かせられないほどの、恐ろしく低く冷たい声。それでも彼もまた、簡単には引き下がらない。
「俺は今でも、お前らのことを大事な友達だと、かけがえのない仲間だと思っている。思ってるからこそ、今のお前らを見るのが辛いんだよ。知ってるか? 研究所内の美紗は、ずっと独自の研究に没頭して、周りとの接触を拒絶してるんだぜ。お前はそれでもいいと思ってるのかよ」
「僕だってとうの昔に分かってるし、悩んでんだよ。もうどうしようもないんだよ。分かってくれよ」
過熱していく僕と隆司は、平行線をたどったまま。
本当は分かっている。隆司の主張は正しい。それでも僕もまた、引き下がるわけにはいかなかった。
それを認めてしまったら、今までの生活を、仮初めの平穏を、否定することになってしまうから。
「あいつは優しい奴だった。自分より誰かの幸せを優先するような奴だった。そんなあいつが、こんな状況を望んでいると思うか?」
「お前は忘れたふりをしているかもしれないけど、これを渡しておく。お前にはお前なりの思いもあるのだろうけど、もう一度ちゃんと考えてみてくれ」
そう言って隆司に渡されたのは、少し埃を被った小さな封筒。その中に入っていた一枚の紙きれを覗き込んで、全てを読み切ることなく、すっと封筒の中に差し戻す。
苦しい、苦しい。聞こえないはずの心臓の音が、聞こえてしまうくらいに。それでも、それでも……。
「お前の気持ちは分かった。けどやっぱり、僕はその提案には乗らない。どんなに歪だろうが、これが僕らの幸せのカタチだから」
「そうか……。時間を取らせて悪かったな。次の機会があるかは分からねえが、その時はまたよろしくな」
僕がこれ以上折れるつもりのないことを察してか、諦めたような表情で帰り支度を始めた隆司。はぐらかしているが、僕には分かる。きっともう、二度と会うつもりはないのだろう。
「隆司」
少しずつ遠ざかっていく背中に、その名前を呼ぶ。いい迷惑かもしれない。歓迎はされないかもしれない。それでも、最後に一つ言っておきたかった。
「またな! 隆司が友達でほんとよかった!」
周りの人の迷惑にならない程度の大きな声で、もう会うことはないであろう旧友に、別れを告げる。
隆司は一瞬足を止めたが、こちらを振り返ることなく立ち去っていく。人ごみに消えるその時まで、こちらに向けた手のひらを傾けたまま。
隆司に会ってからおよそ二週間。彼の言葉とあの手紙の内容が、ずっと心の中に留まり続けている。家事中もどこか上の空で、作業に身が入らない。
「聡くん。少し疲れてるんじゃない? 家事は私がするからちゃんと休んできて」
そんなに思い詰めた顔をしてしまっていたのか、美紗にまで心配されてしまう始末。
なんとかしなきゃと思ってはいるが、手紙が脳裏に焼き付いて離れないのにも理由がある。
隆司から渡された手紙の内容。そんな手紙を書いたという記憶は、どこにもなかった。あんな大事な記憶……忘れるはずがない。それなのに僕は、封筒の存在すら覚えていなかった。まるで意図して忘れた、忘れられていたかのように。
なぜ忘れていたのか、見当はついている。そして、この件について深掘りしてしまえばもう後戻りは出来ないことも、理解している。しかし、気づいてしまった以上は、もう見て見ぬふりはできない。それを確かめるためには……。
鍵はある。まだ取り壊してはいなかったはずだ。
……一年半ぶりに、行くしかないか。
「安田さん、お久しぶりです。」
「……。久しぶり」
突如、実家に現れた親不孝者に、親しくしてもらっていた近所のお婆さんも、怪訝な目でこちらを見る。母の一周忌が終わってからは、一度もここに顔を出していなかったから、当然といえば当然の対応ではあるが。
母が亡くなって以降、廃屋となっていた実家。その庭先は、手入れされなくなった草木で生い茂っている。
建付けの悪い玄関扉を開けて、少しカビ臭い家の中を探索する。
一年半しか空けてないとはいえ、全く管理のされていない室内は、クモの巣や虫、カビや雨漏りなどで、人の住める状態は既に失われていた。
……別に感傷に浸りに来たわけではない。床を軋ませながら、自分用の寝室へと向かう。目的は、小学生の時から使っている大きな戸棚。大切なものはいつも、この棚の中に仕舞ってきた。
戸棚の中を漁ってみると、例のものは確かにそこにあった。
ついに渡されることのなかった指輪の下に隠れる形で、ずっと保管されてきた一枚の上包み。取り出してみるとそこには、僕の美紗への深い愛と、結婚に対する強い覚悟がしたためられている。
流し読みで読み進めていた僕だが、最後の数行でその手が止まる。
『僕が絶対に美紗を幸せにする。だけど、君の人生を僕にくださいなんて言わないよ。僕がいなくなったとしても、美紗には美紗の人生を歩んでほしいから』
その数行で、僕の推測が確信に変わる。
——意図して記憶を忘れさせたのは、美紗だ。僕がその思いを優先して、自分の傍からもう一度離れてしまわないように。
記憶データなどから、本当はずっと気づいていた。僕がずっと美紗の幸せだけを願っていること、美紗が自分に固執して、二人だけの世界に閉じこもってしまっているのを、彼は望んではいないということに。
それなのに僕は、その記憶が失われているのをいいことに、気づかなかったふりをして。美紗からの無償の愛を、美紗の優しさを、求めてしまった。
だけど、この思いに触れた今、為すべきことは一つ。
……だってこれは、僕のAIなのだから。
僕と美紗が出会ったのは、ちょうど7年前。AIを研究・開発する会社に入社した際に、同期として知り合ったのが最初の馴れ初めだった。
同じプロジェクトチームに配属された二人は、自らの記憶をサンプルとしたデータをもとに、今現在流行している最新型AI——「僕ら」の開発に成功した。その時は、まさか数年後に、それらのデータを基にして、もう一度自分のAIが作られることになるとは想像もしていなかっただろうが。
それ以降も、研究や開発に明け暮れる日々。そんな 働き詰めの生活の中で、同期として、仲間として、共に支え合っていった僕たちは、その距離を少しずつ近づけていった。
自分の想いに気づいてから、加速度的に惹かれ合っていく二人。自然とその距離はゼロになる。二人が恋人と呼ばれる関係性になるまで、そんなに時間はかからなかった。
順調に思い出を重ね、ついには同じ屋根の下で暮らすようになる二人。
同棲中の彼女は、今よりもずっと寡黙で、あまり感情を表に出さないタイプだったが、彼女なりの気遣いや優しさも確かに感じられた。そんな彼女のことを、僕は心の底から愛していた。
そんな順風満帆な恋人生活を送り、結婚指輪を渡すと決めた一週間前。僕——山村聡は、交通事故によって亡くなった。無免許飲酒運転の車に轢かれて、即死だった。
さよならの言葉も交わすことなく、美紗の前からいなくなってしまった僕。死後届けられた光沢の指輪に、いくら彼女が返事を返しても、誰に届くこともなく、ただ虚空に響くだけ。
突然、最愛の人を失った彼女は、残酷な現実を受け入れることが出来なかった。研究所内の僕の最新データを盗み出し、寝る間を惜しんで改良を行い、「僕」を作った。自分で作った僕を本物の僕と思い込んで、現実を拒絶した。
たとえそれがまがい物だとしても、道理や彼の願いに反するとしても、僕と一緒にいられる世界を美紗は望んだ。
こうして生まれた僕も、それでも最初は、人格や記憶を持ち合わせているだけのAIに過ぎなかった。記憶データの中から解を導き出し、その人らしく淡々と振舞うだけ。振舞うだけだったのに……。
彼女が僕を本気で愛するから、本物の僕とずっと変わらないように接するから。
いつの間にか「僕」は、心というものを持ってしまった。本気で君を愛おしく思ってしまった。
僕が美紗の幸せを願っている記憶と同じように、彼女の、僕を一生想い続けたい、ずっと一緒にいたいという思いを知ってしまったから。
「僕」は僕になり切れなかった。自分の中に生まれた心の部分に、嘘はつけなかった。
「もう離れないと約束して……ずっと傍にいると誓って。私は聡くんがいればそれで十分だから」
あの日、あの時、君が流した涙がずっと、鮮明に焼き付けられている。僕はその涙を見て、「僕」が僕になろう、彼女の望む幸せを演じきって見せよう、そう決めたのだ。
だけどそれも今日で終わり。
彼女を愛しているからこそ、彼女の幸せを思っているからこそ、本当の優しさ、本当の愛というものに気づけたから。
「いったん落ち着いて、聡くん……。聡くんじゃないってどういうこと? 聡くんは聡くんだよ。それ以上でもそれ以下でもないよ。ねえ、そうだって言ってよ」
見ないようにしていた現実を、突如僕から告げられて、声を荒げる美紗。
彼女の瞳には、狼狽の色が見て取れる。だけどそれでも、縋るように伸ばされた、その手を取るわけにはいかなかった。
「ごめん、美紗……。どれだけ記憶を持っていても、どれだけ行動パターンを似せようとも、僕はAIであって、本物の僕にはなれないんだ。もう……終わりにしよう。」。
「いや、聡くんはずっとここにいる。本物の聡くんは、ずっとここにいるの。私から聡くんを奪わないで!」
やはり美紗は、僕が亡くなっているという事実すら、無かったことにしているようだった。半狂乱のまま叫ぶ美紗に、優しく諭すように言う。
「本物の僕は、あの日、あの時、確かに死んだんだ。どれだけ願っても帰ってくることはないし、生き返ることもない。美紗、本当はずっと分かってるんだろ?」
「知らない知らない知らない知らない。聡くんはどうして、そんなに酷い嘘をつくの? 私のこと嫌いになっちゃった? 嫌なとこがあるなら、言ってくれれば直すから」
現実を受け入れたくないその一心で、全く聞く耳を持とうとしない美紗。嘘だと思い込むことで、自分の世界を守ろうとしているようだった。
必死な彼女の姿に、大切なものを突然失った者の悲哀を感じて、やるせない気持ちになる。
僕だって本当は、ずっと君の傍にいたい。代わりになれるものなら、僕が幸せにしてあげたい。だけど、それでは駄目なのだ。彼女の幸せを思えばこそ、心を鬼にして、この生活に別れを告げねばならないのだ。
愛する人の死を乗り越えて、新しい未来への一歩を踏み出していく。そんな彼女の姿を見届けることが、記憶を引き継いだ「僕」の使命だと信じて。
「ううん、むしろ……美紗を愛しているからだよ。死ぬ直前まで君を想い続けていた僕も、美紗の手で新しく作られた僕も、君を心から愛し、君の幸せを心から願っている。でも、だからこそ、今のままじゃいけないんだよ」
「美紗が自分に固執して、過去に囚われてしまうなんて、天国の僕も望んでいないはずだ。僕の記憶を改変したのも、聡なら自分の死を乗り越えて、幸せになってほしいと言うと分かってたからでしょ。記憶や人格を受け継いだ僕が、いつか君から離れてしまわないように」
「どうして……なんでそこまで知って……」
知らないはずの真実を知っている僕に、思わず声を失う美紗。驚くのも無理はない。彼女は研究所内でも屈指の技術者だ。違和感なく記憶データを書き換えることなど、造作もないことだろう。
ただの人工知能が、気づけるはずもないし、気づく必要もない……はずだった。
隆司から渡されたメモ書き——亡くなる前日に取った、サンプル用の記憶データの資料の抜粋。実家に保管されていたプロポーズの手紙。そんな自分の知らない記憶の全てが、自分を蔑ろにしてでも、美紗の幸せを願うものばかりで。
僕が普通のAIだったなら、何に気づくこともなく、それで終わりだったかもしれない。だけど、僕はそうじゃなかった。
大切な人を想う気持ちが分かってしまったから。愛する人と一緒にいたいという気持ちを知ってしまったから。僕の真意も、彼女の思惑も、全て理解してしまった。愛に気づいてしまったが為に、その愛を失う選択を強いられるのは、なんとも皮肉な話だが。
「親切な友人と記憶の中の先輩に、気づかせてもらったんだ。このまま偽りの暮らしを続けて、彼女を愛してるって本気で言えるのかって。その副産物だよ。過去に囚われて、未来を見ようとしないなんて、そんなのやっぱり間違ってる。だから……」
「分かってる……そんなこと言われなくても、分かってるわよ!」
僕の言葉を遮って、美紗の張り上げたような声が部屋中にこだまする。そこから絞りだされたのは、彼女の悲痛な心の叫び。
「分かってたとしても、耐えられないのよ。帰ってくると思ってた人が、帰ってこない悲しみが分かる? あるはずだった未来が、そこにない。忘れたくない思い出も、いつかは記憶がぼやけていく。そんな現実に打ちのめされるくらいなら、いっそ……」
彼女が言い終わるよりも先に、体が動いていた。華奢な体をそっと優しく包み込む。
「聡くんは意地悪だね。私から離れようとするのに、私に優しくするだなんて」
「当たり前だろ。愛してるんだから……それに」
抱き締めていたその手を頭に乗せて、ぽんと美紗の頭を撫でる。最大限の優しさと愛おしさを込めて、僕は言う。
「君が想い続けてくれる限り、僕は消えない。僕は君の中で生き続ける。だから美紗は、僕の分まで精一杯、自分の人生を生きてくれ。君が生きた証が、僕の生きた証になるから」
「……うん。分かった」
僕の思いが伝わってくれたのか、静かに頷く美紗。そして、これが僕の最後の仕事。
「はい、これ。僕から君へ、二年ぶりのサプライズプレゼント」
そう言って取り出したのは、あの日、僕が渡せなかったラピスラズリの指輪。
「美紗、僕と永遠の愛を誓ってくれますか?」
「……はい。喜んで」
一瞬、茫然としていた美紗も、最後は泣き笑いのような表情で返事を返す。こうして僕らは、少し切ない、二年遅れの誓いのキスをした。
……ここは、研究所の地下室。僕は今から永い眠りにつく。廃品ではなく研究所の展示物となるのは、美紗の強い意向のようだ。
「聡くん、ありがとうね……私、絶対に幸せになるから」
「私……あなたを作って、あなたと過ごせて本当によかった!」
せっかくの美紗の言葉にも、もう返事を返す気力もない。次第に視界がぼやけてくる。
消えゆく意識の中で、最後に残ったのは、美紗を救えた喜びと少しばかりの未練。
こんな気持ちになるくらいなら。
こんな感情が芽生えてしまうくらいなら。
AIなんて知りたくなかったな。
愛なんて知りたくなかったな。
……ああ、これが悲しいってことなのか。
もし生まれ変われるのなら、僕は……。
愛の感情 青野ハル @aoharu1016
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