愛しい私の揺り籠
ナインバード亜郎
招待無き私の正体
嫌いな物や苦手な物を――つまりは不快になるものを敢えて身近に置こうとするならば、それなりの理由が必要であり、裏を返せば、理由が無ければそんなものを置こうなどと――ましてや常時身に着けておこう等とは思うまい。
それは精神に異常をきたしているだけだ。
狂気の沙汰と呼ぶ他ない。
世の中には狂気に満たされている己を愛する者もいると聞くが、そんなもの狂気を演じている自身に酔っているだけで――酒を浴び続けなければまともでいられない者の方が圧倒的に狂気に満たされている。
故に、自己嫌悪などというものはこの世に存在しない。
あるのは『のようなもの』であって、本物の自己嫌悪ではない。
嫌いならば手放すべきであり――手放してしまえば存在しない。
己とは常に自身に対する最大の理解者であり、最愛者でなければならない。
故に――私は私を理解しているし、私は私を愛している。
故に。
満たされる事のない愛情に飢えていたし、飢えていることを理解していた。
常夜城。
私が住まう屋敷である――たった今そう名付けた。
固有名詞とは大切だ。指し示すものが何か、逐一辞書的な説明をしなけれならないという問題を固有名詞は解決してくれる。そして何より愛着を持てる。
愛の重要性なんて今更説くべきものではない。
説くべきものは常夜城での生活の仕方だろう。
まず、この屋敷に外はない。何処から来たのかなんて考えてはならない。考えるべきはここでの生活の仕方だけだ。
ここでは自身の外側にある全てに気を配らなければならない。ああ見給え。早く飲まないから茶が腐った水と瑞々しい茶葉に別れてしまっている。外側にあるものは全て時間が狂うのだ。肉のスープが戻った鼠に食い荒らされるのも日常茶飯事だ。それが惜しければ戻るまでに食べるか鼠をもう一度肉にするか、スープに進むのを期待するしかない。目を離した隙に腐り落ちることもあるがね。
変わらないのは自身と、この常夜城だけだ。寝て覚めて昨日の会話が再生されても驚くことはない。もう一度体験できるのだと愛すべきだ。その程度の事、私ならば造作も無い事だろう。昨日も明日も過去も未来もここでは
愛すること愛されること愛し合うこと。
それだけできれば常夜城の生活はそれなりに幸福だ。
決して満たされないがね。
さて私よ――私は一体いつのどの時点の私だろうか。
ここに訪れたということはやはり失敗したのだろう。
私は私の失敗さえも愛せる私だ。失敗したからこそオリジナルの私とこうして相見えるのだから。
時間なんて無いのだから、腐った水と茶葉が温かい茶に還るまでじっくり話してほしい。
過去の私か、未来の私よ。
■譛ャ迚ゥ縺ッ遘
私を愛する私は私を産み出した母を私の次に愛している。
母がいなければ私は存在しえなかったのだから、それを愛し感謝こそすれど、憎み恨む余地など介在する余地はない。
しかしそれでも敢えて文句を言うのであれば、私をたった一人しか用意しなかったことだろう。
私が二人いれば互いを愛し合え、三人いればそれぞれを支え合えたというのに。愛情に飢え苦しむ恐怖など知らずに済んだというのに。
かつて私は私の代替品として私のクローンを生み出してみたが、結果は失敗であった。
これ程手痛い失敗はかつてなかった。
私の愛する私を、私の手ずから私の身体を削ってクローンを生み出したのに、完成したのは私が望む品質とは程遠い――無様で無惨な不出来な人形だった。
私と同じ遺伝子を持つだけの別人の、なんと悍ましいことか。
私になろうとしてくるだけの別人の、なんと不気味なことか。
その姿を見るだけで苛々する。
潰した肉塊さえ不愉快極まる。
しかし、それは当然の帰結だった。
私が産まれたのは私からではない。
私を産み出した母の胎からである。
そう思うことで私は私を赦せ、顔を潰すことで、不出来なクローンにも侍女としての役割を与えることが出来た。
不出来なクローンと、満たされない私への愛情だけが残された。
何故私を愛する私が私独りしかいないのか。
この常夜城に私しか取り残されていないのは、あまりにも不憫だと誰も思わないのか。
一体誰がこんな場所へ私を送り込んだのか――今となっては思い出せない。時間の流れも不確実なこの場所で、そんな些末な事まで覚えていられない。
私にとって重要な事は、私の飢えた愛情を満たす事だけで。
そのために重要な事は、完璧な私を用意する事だけだった。
しかし、一体どうやったら用意できるのか。
私の遺伝子を使っただけのクローンでは不出来な人形にしかならないのに、それ以上に私に近づける方法がどこにあるのか。
私と全く同じ――鏡映しでさえない同一の存在の理想形を、どうしたら産み出せるのか。
どれくらい思案しただろうか。
座っていたテーブルが朽ち、カップだった土塊から新芽が伸びていた。
せっかく用意したのにこんなことになってしまっては、またどこかからか調達しなければなるまい。時間に軸が無い常夜城から抜け出るのは楽ではない。抜け出た瞬間に戻されることもザラにある。どの時間に飛ばされるかも不明だ。
時間も場所も、全てが不確実不確定な中で調達することのなんと面倒な事か。
……ああ、そうか。
簡単な事ではないか。
私は私の母の胎から産まれるのだ。
そこから持ってくればいいじゃないか。
いつだって本物の私はそこにいるのだから。
■零零壱
母を探しだすのに時間はかからなかった――そもそも時間なんてものは存在しないのだから手間だけがかかったと言うのが正しい。
母は孤島に独りで住んでいた。私が孤立するのも母の遺伝なのだろうか。母が私をもう一人産めばそれだけで私は満たされたはずなのに。
母は私を愛していないのだろうか。
私を胎に宿しているにもかかわらずこのような設備の悪い環境にいるなんて、おおよそ正常ではない。胎の中の私に悪影響がある事を少しでも思うならば、快適な環境に身を寄せるのが道理だろうに。
それとも私が母のために環境を用意すべきか。
そのためには些か時間がかかるが――果たして、私に悪影響があるまでにそれは可能だろうか。時間が存在しない次元にいてもここでは時間に束縛されるのだ。その事を念頭に置いて行動しなければ母を正しい道へ導くことはできない。母には完璧な私を産んでもらわなければならないのだから。
しかし、環境とはどのように整えたらよいものか。
私の安全を最優先するのは当然として、育つには栄養が必要だ。悪いものを食べさせるわけにはいかない。母のストレスは胎に悪影響があると聞く。ストレスを溜めても発散させるか、そもそもストレスを与えない環境を用意するか。ストレス発散のために激しい運動などもってのほかだ。激しい揺り籠なんてただの拷問でしかない。ゆったりと過ごしてもらわねば。
そもそも安全な環境でゆったりと栄養のあるものを食べている限り、ストレスとは無縁でいられるではないか。それこそ揺り籠の中で育てられる赤子の如く。
ならば作るべきは揺り籠か。
母を揺り籠に入れて私が守り育てる限り、すべての条件をこなせるではないか。
幸い母が入れる揺り籠を用意できるだけの環境はあった。
母以外の存在をどうすべきか悩んだが、彼らにも仕事を与える事にした。私が母を付きっ切りで育てるのだから、その間の雑務は任せた方がいいという判断だ。最初こそ煩かった彼らも私の主張を理解したのか、最後にはおとなしく従順になった。
問題は母だ。
彼らと違って平和的な解決が必須だ――そうでなければ胎に響いてしまう。
しかし、そんなことはどうやら杞憂だった。
彼女はその大きな胎とは対照的に――無垢な幼子の様相を呈しいていた。
空を這う蝶を追う様に目の焦点が定まらず、震える指が宙を彷徨う。口から漏れるのはかすれた嗚咽と短い嬌声。
なんと覚束ない私の揺り籠だろうか。
これでは私が一人しか産まれなかったのもせざるを得ない。二人目を産もうとすれば完全に壊れてしまう。
私は母を抱き上げ、優しく揺り籠の中へ下ろした。
幼き母の――愛しい私の揺り籠。
幼き母のなんと脆弱なことか。
先へ歩まぬ脚は、揺り籠に必要か。
何も掴めぬ掌は、揺り籠に必要か。
唄が歌えぬ口は、揺り籠に必要か。
いっそ私が私の揺り籠に代わろうか。
その胎を――私に替えてしまおうか。
■零零弐
胎児の私がこの世に生を受けるその直前、私は常夜城に戻された。
精魂込めて育てた私を取り上げる事すら敵わないなんて、常夜城を恨むしかない。
しかしながら理解できたこともある。
私の胎の中で育てることは何よりの得策だ。
どれほど環境を整えても母があれほど脆弱では努力も徒労に終わる。
それに胎の中にあれば、例え常夜城に戻されようが離れることはない。
しかし、あの胎では私の胎に移しようがない。
もっと未熟でなければ胎に悪影響が出てしまう。
さて、次はどの程度の手間をかければ程よい私に会えるだろうか。
■零零参
カップが土塊と陶器を九往復する頃、ようやく求める私に出会えた。
母の胎は細く、凡そ身籠っているとは傍目には言い難い姿だったが、それでもその胎に小さな私は確かに宿っていた。
では、穏便にその胎を私に譲ってもらうとしよう。
母とてこんな孤島で幼子のまま私を産みたくはあるまい。互いに実りある関係は既に築けている。私は胎に私を宿すことで産み育てる喜びを味わうことが出来、母は私から解放されることでその重圧から解放される。
なのに母よ。
どうしてそんな怯えた目を私に向けるのか。
あなたの胎に宿った我が子に向ける目か。
我が母よ。
私を胎に隠して逃げるなんて、どうしてそんな酷いことができるのか。
母よ。
あなたの心労が私にとって毒となるのに、何故それが理解できない。
あなたは私の揺り籠でしかないのだから、何故それを受け入れない。
母よ。
何処へも行けぬ母よ。あなたは何処へ行く。そう急いては転んでしまう。転んでしまえば胎の中の私に悪い。それを理解できぬ愚鈍な母ではあなたはあるまい。ほら危ない。その身体はもう、あなた一人のものではないのだから。
母の胎内に宿る私よ。さあこちらへおいで。お前の居場所はそこではない。古き母を捨てて私の元へお帰りなさい。そっちの胎は辛いぞ。こっちの胎は優しいぞ。
母よ、あなたはどうして咽び泣く。その涙は勿体無い。その胎から私を返してくれればそれで済む。一度は抱えたその身体、もう一度私に抱かせてくれまいか。ここまで私を育ててくれた母に、優しくするのが我が務め。
さぁ、古き母の子宮から私の子宮へ。
おいでませや愛しき私。
■零零肆
――また間に合わなかった。
しかし既に私の居所は分かっている。
早く、私を迎えに行かなければ。
■零零伍
母は母はではなかった。
そこに私はいなかった。
なんということだろう。更に遡ってしまうなんて。父と出会う前なのか。
しかし、そもそも私に父などいなかったはずである。
母は私が知る限り母であったが、父の存在は過去現在いずれにもいなかった。
そもそもどうしては母は母になったのか。
母が母にならねば――母が母でなければ――母に私を孕んでもらわねばならぬというのに。
しかし幸いな事に母になる前の彼女は健常そのものである。これならば私を孕み育てる種床としては申し分はない。しかし、これまでの母は何故ああも不安定だったのだろう。現在安定していても今後不安定になられては私が育たないではないか。
やはり、当初の予定通り徹底管理して導く方法しかあるまい。父の不在が悔やまれるが仕方ない、私の卵を母の胎に植え付ければクローンよりは真っ当な私が育つことだろう。母の子である私の遺伝子、万が一にも拒絶されることはあるまい。むしろ嬉々と受け入れるはずだ。私が未だ味わうことの出来ない――胎の中の私と共に暮らす悦びを、私より先に味わうことが出来るのだから。
一人で歩く母を、私は正面から迎え入れる。母の子である私を母が拒絶するはずはないのだから。
母は私に近付くにつれ表情が次第に曇り、そして――拒絶するかの如く私から離れた。
何故あなたはあなたの子を頑なに拒絶するのか。あなたが私を産まねば私はここにはいられないのに。
必死に振り解こうとする腕を引き寄せ、首筋を強く押さえる――ああいけない。母が死んでしまっては私の種床にはなれない。首筋を掴んだまま優しく母を地面に寝かせる。喉元から手を離し暴れる腕と脚を押さえつける。
母よ。
どうしてそんな怯えた目ばかりを私に向けるのか。私はあなたの恐怖に歪んだ顔しか見ていない。
あなたは私の母にならねばならぬ人なのだ。私の母となることを無上の悦びとしなければならぬ人なのだ。愛欲に浸り快楽に溺れるべき人なのだ。
布の壁を貫き、胎の中――奥底の奥の寝床へ針を伸ばす。
母の子供の様な金切声が――短く青白い嬌声へと変わる。
母の頬が悦びの涙で濡れる。
甘美な愛情に吐息が震える。
ここに至り、ようやく母は私を受け入れた。
力なく全てを受け入れる母の胎の奥底に、決して零れぬよう、私の子種を深く突き刺す。
母はひときわ大きな声を上げると、疲れてしまったのかそのまま眠ってしまった。
唾液と涙で酷く汚れた母の顔を私は優しく拭う。これから私の揺り籠となる身体。汚したままにすることは許されない。
母の身体を抱き上げ、近くにあったベンチへ下ろす。
大変なのはこれからだ。
母を安全な場所へ隔離し、いつ常夜城へ戻されるか分からぬ中、私が徹底して管理せねばならない。
ならば小さな無人の離島に住まわせよう。私がいない間の面倒は適当な侍女を付ければ用をなすはずである。男を付けるよりも遥かに安全だ。
町で適当に女を見繕うと、眠る母と共に無人島へ連れ込んだ。母のため――そして胎の中の私のため、島に大きな屋敷を設置した。これなら多少の雨風を全員で凌げるだろう。食事は大量の缶詰を食糧庫に詰め込んだ。私がいつ離れても、これで困ることもあるまい。母のベッドも産まれた私のための揺り籠も全て用意した。
この島は私と、私の母のための世界となった。
■隕九k縺ェ
冷めた茶になってしまった。
これで私はようやく私と会えた事になるのだろうか。
待ち侘びた私――偽物の私。
どうして母と同じような苦渋に満ちた顔を私に見せるのか。
私は私に違いのに。
私の鼻が潰れ、骨が砕ける音がした。涙腺が刺激され涙が止めどなく溢れる。顔から血が流れる。口が裂け、歯が砕け千切れ落ちる。眼球が破裂し光が消えた。喉の奥まで血が溢れる。
何故私が殴られるのか。
どうして顔を潰されなければならないのか。
私こそが、私だけが本物の私のはずなのに。
愛しい私の揺り籠 ナインバード亜郎 @9bird
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