葬礼のカグラ 最終話

 悲鳴は出なかった。ただ、言葉にならない恐怖が彼女の体を震えさせた。逃げようとしたけれど、足は動かない。


 アイリーンは白いロングコートを着ていた。彼女の長い髪も白く、風を泳ぐように流れている。ロングコートには無数の爪が付いていた。アイリーンはギターを掲げると、それをヌンチャクのように、交互に持ち替えながら回転させる。コートに付いた爪が弦をとらえて、ギターがかき鳴らされた。雷のような旋律が大地を揺らす。アイリーンはギターを縦横無尽に振り回し、その勢いのまま地面に背をつけ、コマのように全身を回転させた。弦が火花を弾き出し、激しく高鳴った。その旋律に合わせて、狼頭の体が紫色の光を帯び始める。まるで糸で釣られているように、彼の胴体は宙に浮かび上がって、見えない力に磔にされた。アイリーンは、地面から体を飛び上がらせ、ギターを狼頭の胴体に振り下ろす。ドンっという破裂音と共に肉が切り裂かれ、彼の体は血を飛び散らせながら、宙に投げ飛ばされた。


「うん。ホームランだ」


 そう言って、アイリーンはギターの首に取り付けられたレバーを引いた。その胴体から巨大な薬莢が吐き出され、煙が吹き出す。そのギターは武器でもあり、そして楽器でもあった。


 サキは、クラシックギターを拾った。その重みが全身に染みる。静かに立ち上がって、その首を握りしめた。痛みはもう無かった。体の重さも、苦しみも忘れてしまっていた。手が震えていた。だが、恐怖はもう、遠くに逃げ去っていた。だから、この震えの理由は見つからないままだった。しかし、体は勝手に動き始める。何を思ったのか、何を感じたのか、呼吸をするたびに彼女との距離は縮まり、ふらついた足取りは確かなものになっていく。曖昧な殺意がギターの首に結びつき、硬く固まった。アイリーンが間近に迫った時、糸が切れたかのように全身が軽くなる。その時、サキは何かに突き落とされた。吸い込まれていく体は、心地良さそうにその勢いを増した。


「それは多分、不安だよ」


 アイリーンはそう言った。彼女の紫色の瞳がサキを捉える。


「何が見える? あなたの姿? それとも怪物? まぁ、どちらにしたって同じことだけど」


 サキの美しい顔貌は緊張で歪み、眼は見開かれている。汗が滴り落ちるのを感じた。体は強く痙攣している。すくなくとも、前に踏み出そうとして、同時に遠くに逃げ去ろうとして、何もできずにいた。何故、ギターを振り下ろそうとしたその手を止めたのだろう。サキは歯を食いしばり、硬く結びついた指から力を抜いた。緊張が途切れると、笑いとも、絶望とも捉えることのできない表情が彼女の顔貌を崩した。その時、初めてサキは自分が生きようとしていたことに気がついた。ただ、不安だったのだ。


「私はなんで……ここにいるの?」


 サキは揺らぐ心を握りしめながら、そう言った。そして、涙を探し出そうと、目元を擦った。乾いた皮膚がカサカサと音を立てる。汗が肌の上を滑り降りた。


「それには誰も答えられない。だって、気がつけば生きてるんだもん、私たち」


 サキの問いに、彼女はそう答えた。軽々しく、そして他人事のように、彼女は微笑み、静かに目を閉じた。サキの荒げた呼吸が風をかき乱している。もう波の音も聞こえなかった。ただ、全身を締め付けるような感覚が、心臓の拍動を追うように駆け巡った。


 空は青ざめていた。雲一つなく、冷たい青が彼方まで広がっている。太陽は高く上がり、大地を照らし出していた。影は少しずつ短くなり、日差しの暖かさがサキの肌を撫でる。


 アイリーンが目を開ける。全身から力が抜けて、サキはそのまま崩れ落ちてしまった。緊張を見失って、目眩が意識をどこかに連れ去った。アイリーンはそんな彼女のことを見つめながら言った。


「あの狼頭、ジョンって名前なんだけど、死んでないから安心しなよ」


 サキは涙を流すこともできない自分を呪った。そして、嗚咽のような、かすれた息を吐き出した。血が出るまで、手を強く握りしめようとしても、力が入らなかった。

アイリーンはサキの頭を掴み、その髪をかき乱した。


「おーい。しっかりしてよ。泣くなら泣け、泣かないなら、せめて、その足で立って」


 サキは俯いてしまう。彼女はギターを強く抱きしめた。その肌の冷たさが痛かった。その肌の艶やかさが眩しかった。思い起こされるあのギターの旋律は彼女の傷に爪を立て、痛みもなく染み込んでいく。


気がつくと、アイリーンはサキの頭を優しく撫でていた。彼女の指は髪を絡みとり、櫛のように毛の流れを辿っていく。指が髪の奥深くに沈み、頭皮に触れた時、冷たさが頭蓋に響いた。まるで、生きていないかのようにその指は冷たかった。


「愛されるって、どう言うことだと思う?」


 アイリーンは空を見上げる。そして手に入らないものを欲しているかのように、腕を上げ、何かを掴もうとした。その時、強い風が吹いて、彼女の髪の重なりを解いた。


「生きるってことは、異物と寄り添わなければならない。だから、怪物になっちゃうんだ。コンテナの死体が獣になったのも、ジョンが異形なのも、死んだ時、彼らはそれを知ったからだよ。死という何もない場所に、生という重みを下ろしていこうとしたのに、そこで初めて孤独になって、それを恐れてしまった。だけど、生に目を向けると、それは恐ろしいほどに歪で、異物に貫かれている。誰かと関わり、言葉にされ、セックスし、愛を求め、そしてその度に傷つけられる。身体なんて、そんな傷が集まったものでしかない。でも、そこでしか生きられないのだから、死から蘇った者たちは、もう元には戻れない。怪物のまま生きるしかない」


 狼頭の男は静かに立ち上がった。首からは狼頭が生え出て、全身に刻まれた傷は治っていく。彼はアイリーンのことを睨みつける。何かを誤魔化すかのように、彼女は笑った。


「これが私たち、甦りし者たちの宿命なんだ。一度、死から蘇ったら、もう怪物になるしかない。君と私たちは対極にある存在だよ。サキ、君は人形だよ。だから死ぬこともない。君はただの動く死体なんだ。私たちは死から切り離されている。だから、異物を抱え込むしかない。でも、君は常に死んでいる。その美しい容姿は少しも汚されることがないんだ」


 狼頭の男は横笛をとり、刃をアイリーンに向ける。彼は言った。


「まだ、お前は全てを道連れにしようとしているのか。世界の全てを俺たちみたいな怪物に変えようとしているのか。なぜだ。なぜお前はそこまでして、怪物にこだわる」

「だって、みんな本当は怪物なんだもん。私は故郷にみんなを引き連れて行きたいだけ。でも、今回はあなたの方が早かった。怪物は死んじゃったし、もう帰ろうかな」

 

 そう言って、アイリーンはサキの頬にキスをすると、背を向けた。サキはその背中

を見つめる。彼女の背中からは鳥の翼が生えていた。白く美しい一対の翼は、風を掴もうと大きく広がる。翼から羽毛が落ちて、空に舞い上がった。


「行くのか?」


 狼頭の男はアイリーンを見つめている。それに答えるように彼女は振り返って、ウインクした。しかし、狼頭の男の視線は変わらない。不安に揺らいでいる。


「そのサキって子、連れてってあげてよ。きっとあなたの役に立つ」


 そう先に切り出したのはアイリーンだった。彼女は狼頭の男を眼差した。その安らかな笑みの中で眼光が鋭く光る。狼頭の男は後ずさっていた。


「俺はもう。誰とも関わりたくないんだ」


 狼頭の男は俯いてしまう。アイリーンは優しい声色で言った。


「私のお願いだよ。きけないの?」

「分かった」


 彼はそう答えた。その手は血が出るほどまで、強く握りしめられている。アイリーンは飛び上がった。辺りに散らばった羽毛を風がさらっていく。


 狼頭の男は無言で歩き始めた。その時、サキは恐怖を味わった。誰からも置いていかれる恐怖、そこに取り残される恐怖。だから、彼女は立ち上がった。結局、一人になるのは嫌だったのだ。


 怪物の体は溶けてしまって、無数の死体が流れ出る。その中にはあの少女のものもあった。それを眼差して、日差しが目に入ったのか、サキは背を向ける。他人の死、それはこうしている間も、どこかで積み重なっていく。その死は大きすぎる。だから、サキは何も感じなかった。骸には名前がなかったから、サキを引き止めることは出来なかった。


「ジョンだ。俺の名前は。ジョン・ドゥ、名前のない死体のものと同じだ」


 そう言って、狼頭のジョンは振り返った。


 完

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短編集 コンセプトエッジズ  時川雪絵 @MakaN7

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