お江戸の風薫る神明社-恋と御縁の浪漫物語・深川編-
南瀬匡躬
心音が持つ閉じた岩戸
「さて、このバス停で降りてくるんだろうから、ここで大福餅でも買っておくか。お土産にあげよう」
暫くすると、いつもなら新大橋通りからの左折バスに乗って来るはずの心音が、今日に限って地下鉄の森下駅の階段をゆっくりと登ってやって来た。
「はあ、息が途切れ途切れだわ。お待たせしました」と億劫な足取りが分かる歩き方で重たそうに挨拶する。
「あれ?」
幸樹の不思議そうな顔に、
「どうかしました?」と訊ねる心音。
「今日はバスじゃないんだ」
すると「そうなの、今日は家庭訪問の日だったから、出先から直帰なのよ」と言う。
心音は幼稚園教諭。穏やかな性格で園児にも慕われる優しい先生だ。
だがついに年齢のこともあって、園児教材の製作会社に転職することになった。あと二ヶ月、三月で通い慣れた幼稚園ともお別れである。
「やっぱり大変だよね?」
幸樹は気遣いながら訊ねる。
「反射神経がね。子どものレベルに追いつかなくなってくるのよ。もう四十近いと……」と頭を掻いて笑う心音。
「わかる。僕も子育ての時、子どもが向かう方向を予測出来ないとき結構あった」
「仕事だと、それの連続よ」とため息と諦めの笑顔である。
仕切り直すように
「僕と君が出会った交差点じゃないか」と言う幸樹。
「そうね」と笑う心音。
「でもあなたに頼まれたのもあるけど、久々のディナーだっていうからめかし込んできたのよ。ちょうど家庭訪問でもあったし、なけなしの一張羅って感じ」
「うん、綺麗だよ」と頷く幸樹。
「まあ、お上手だこと」と照れ笑いの心音。
ちょうど十年前だった。四十歳あたりの幸樹は歩道の自転車をよけそこなって、尻餅をつく。そしてついた左手が運悪く擦り傷と切り傷になって、少々出血となった。なんなら手の甲は青あざである。
そこで信号待ちしていた見た目三十歳手前の女性が駆け寄る。黒のジャージーにピンクのトレーナーの女性だ。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
そう言いながらも立ち上がれない幸樹。彼の右手を自分の肩に回して、肩を貸す女性。
「骨や筋に痛みは?」
「いえ、それは無いと思います。体重はお尻で受けたので」
「そっか」
彼女はその言葉のあとで左手の小指脇、つけねの掌から手首にかけての結構な広さの擦り傷と切り傷を見つける。
「血が出ているわね。ちょっと待ってね」
そういうと彼女は持っていたトートバッグから応急処置用のマキロン、脱脂綿、包帯を取り出した。世話好きなのか、律儀なのかはさておき、彼女は見る見るうちに彼の左手の応急処置をしてしまう。
手当てをしてもらっている間に幸樹は訊ねる。
「看護師さんなんですか?」
女性は「いいえ、幼稚園教諭なんです。小さな怪我の絶えないわんぱくたちのためにいつも持ち歩いているんですよ」と手慣れたものでぐるりと包帯まで巻き終えた。
「これでよし!」
ギュッと最後の結び目を縛ると、怪我の箇所をポンと軽く叩いて、「化膿してはいけないので一度お医者さんに見てもらった方がいいかな?」と言う。
「立派なお仕事をなさっているんですね」と素直に感心する幸樹。
幸樹は懐から名刺を取り出すと、
「このご恩はお返ししなくてはいけないレベルです。どうぞご連絡下さい」と言って彼女の手に握らせる。
「まあまあ、人として当然のことをしたまでですから、お気になさらずに……」と頷きながら、包帯などをトートバッグにしまい始めた。
「それではこちらの気が済みません」と言い張る幸樹に、何かを感じたのか、
「では……」と言って、なにやら考え込む彼女。
そして「私、この先の新大橋蔵前幼稚舎というところで教諭をしていますので、日曜バザーの出品が少なくて困っています。出品の品物をいくつか出して頂けるなら嬉しいです。ぜひお願いします」と続けた。欲や損得勘定のない先生らしい返しだ。
そこから幸樹は毎年バザーに多数の出品を行うようになった。また自分のところのタウン誌にこの幼稚舎のバザーの記事を大きく紹介もしたのだ。それがお礼であり、二人の馴れ初めだった。
それからこの同じ季節、一年ぶりごとにバザーを介して二人は会うようになった。その後、自然と、やはりバザーを介して二人は仲良くなっていった。だが、この二人、本当に仲の良い友人という感じで、交際をしているというわけでもないのだ。それでいて、もう何でも言い合える、理解し合えるほどの意思疎通は出来ている間柄でもある。
十年も経てば、当時、アラサー手前の心音先生はアラフォー手前である。そして幸樹は五十代というわけだ。
さて時間は戻り、現在の待ちあわせ場所。森下駅のある交差点は交通量も多い大きな交差点なのだが、一歩脇道、路地に入ると驚くほど静かだ。
そこは下町、お江戸のなかでも湿地と砂州で使い道のない土地と言われていた深川地区。その湿地の水を排水するために張り巡らされた水路や掘り割りが現代にも残っており、網の目のような水路、その多さに驚かされる。その地形、今となっては、やはり下町、深川のシンボルとも言える存在だ。
案内板にも古地図や名所図会などの説明書きが多く、まるで散歩しながら江戸の歴史を勉強しているような気分になる。
そんな地図のような町をかき分けて、彼は待ちあわせ前、深川の地名の由来となった深川神明宮をお参りしてきた。そう、彼は今日、人生最大の神頼みをしたのだ。それは彼自身も分からない。この後の展開は、神のみぞ知るという結末を迎える。
綺麗な身支度の心音は
彼の方も蝶ネクタイにブレザーと少々めかし込んでいる。
「両国方面に行きましょう」と幸樹。
「え? 歩くのなら、もう少しラフな格好にすれば良かった」と残念そうに言う心音。
「いやいや一キロと歩かないから大丈夫」と幸樹。
「本当?」
半信半疑の心音の声。
「インディアン嘘つかない」と右手を挙げて戯ける幸樹。
「なにそれ?」と怪訝な顔の心音。
「このCM、知らないか? 世代だなあ」と笑う。
「おばさんは、おじいさんの世代にはついていけないのよ」と笑う。その仕草は、幸樹に心音のおきゃんな女の子時代を彷彿させた。
予約の入ったちゃんこ鍋のお店はそこから十分とかからなかった。森下というのは、門前仲町と両国のちょうど中間地点に位置する。
すぐに目的の店には着いた。大きな和風の書体に店名がプリントされた暖簾を潜る。
中央には等身大の相撲の土俵が作られている。その周りにパーテーションで半個室になったテーブルがぐるりと置かれているような配置だ。
「高級そうなちゃんこ屋さんね」と心音。
「そりゃ、今日は奮発するよ」
幸樹の言葉に「ん?」と謎めく心音。気心知れた仲間のような自分になぜ幸樹が奮発する必要があるのだろう。
一般には、ちゃんこ鍋屋というのはピンキリで手軽で庶民的な価格の店から、この店のように高級食材のみを使った個室の用意される店まで価格的にレンジの広い料理だ。同じちゃんこという名称でもそれぞれ全然違うのだ。
言うなれば、回るお寿司と時価相談のお寿司屋さんだって同じお寿司というのと理屈は同様である。自分ごときに奮発などしなくても、一般的なお店で良かったのに、と内心思った。
着席すると炭酸の効いた甘い日本酒が出される。まるでシャンパンのような日本酒である。
「粋なお酒ねえ」と笑う心音。
軽くワイングラスを、コンと付き合わせると「乾杯」を示唆する。
グラスの口紅をナプキンで拭きながら心音は、店内の装飾のコリ具合に感心する。
そんな彼女の様子を他所に、幸樹はなにやらゴソゴソとさっきまで背負っていたリュックを下ろして、底のほうを探っている。この男、段取りがいいのか悪いのかいまいち分かりかねる。
「なに? 落ち着かない人ね」と笑う心音。
「あった」と小声で幸樹は、小箱をリュックから取り出した。
いきなり幸樹は深呼吸、大きく息を吸った。
「ううっ」
心音の方は「何事?」と首を傾げる。
と、思うのもつかの間、徐に幸樹の第一声。
「心音先生、僕と結婚して下さい」という言葉と一緒に彼女の前に両手で小箱を差し出す幸樹。
「えっ?」と驚く心音。掌で口元を塞ぐ仕草。その表情は大人可愛いと感じる幸樹。サプライズなので驚いてもらわないと仕掛けた方は台無しである。彼女はナイスなリアクションをした。
「あの私、アラフォーですのよ。再来年には四十の大台に乗りますし、バツイチの傷物婦人なんですけど?」と悪戯を宥めるような落ち着いた態度に持ち直す彼女。この悪ふざけに乗ってはいけない。そんな気分だったのだろう。優しく、そして慎重に、彼の気持ちをリコンファームだ。
「べつに僕もバツイチですけど? なにか?」と無敵のシラを切る風の返し。さすが幸樹だ。
「ウチの園の美智先生とか、真理先生とかなら二十代だし、求婚されたら喜ぶでしょうけど、こんな私があなたの花嫁に相応しいのでしょうか? 以前、気さくにお伝えしたので、ご存じでしょう、私の過去」
どうやら彼女はどこか引きずっている過去をお持ちのようだ。なんならこの求婚をなかったことにする説得に乗りだしかねない。辞退という名誉撤退、そんな方向に向かっている。
だが男、幸樹、そんなことではへこたれない。彼女の心の扉を開けるのは天の岩戸をあけるよりも全くもって
「知っています。バツイチならなおさら幸せにします! 二度目の失敗しないように僕も細心の注意を払います。これまで十年間、あなたを見てきて、あなたとなら上手くやっていけるという気持ちになりました」
そこそこ説得力のある言葉だ。
その言葉に彼女も頷かざるを得ない。なぜなら彼女のなかでの幸樹の存在も『この人となら上手くやっていける』という同じ気持ちだったからだ。
自然とその思いは言葉になった。
「お願いします」
幸樹は彼女の前に小箱を差し出したままの姿勢で会話を続けている。
彼の真剣さが伝わったようで、
「編集長さんを困らせてはいけませんよね」と申し訳なさそうに笑う。
彼女は、「はい、出戻りの四十女でよろしければ、どうぞよろしくお願いします」と一礼をして小箱を受け取った。
彼は「ありがとうございます」と言って、そのまま頷くように目を閉じた。とても嬉しそうである。
彼女、この小箱の中身の察しはついていた。
丁寧に心音はそれを開けると、紙の外箱から紺色の布生地の箱を取り出す。さらにそれを開くとダイアモンド付きのリングが目映い光を放っていた。
「数ヶ月前に私のつけているファッションリングを貸して、って言ったじゃないですか」
「はい」
「あの時、まるで少女マンガのヒロインのように少し期待しちゃったんですよね。バカね私ったら」と自分を笑う彼女。
「でもその後、何もないから、早とちりでお馬鹿な私って少し反省してました。いい気になってはダメって、自分を戒めたんです。きっとあなたは記事かなにかで、女性一般の指のサイズが必要だったのね、て思ったの。私のことじゃないわねってね」
「でも、やはり僕の意中の人はあなただった」と幸樹。ニヤリと笑うと彼女の指にリングをはめてやる。
「ずるい人。ほとぼりが冷めた頃にこんなサプライズで」
宙を扇いで、かざしたリングを仰ぎ見る心音。
「嬉しい。私なんかに、まだこんなニーズがあるとは思わなかったわ」とうっすらと小さな滴が目尻を被う。
「僕にとってはダイヤよりも高貴なんですよ。あなたは」
「さっき言っていた懸念を払拭すべく、のんびり、ゆっくり、僕たちのペースでやっていきませんか?」
幸樹のその言葉に、
「あなたで良かった。次に結婚するなら幸樹さんのような人が良かったのよ」と笑う彼女。
そして心音にとって、全ての謎が解けたようで、「だからあの森下駅の交差点だったの? 今日の待ちあわせ」と訊ねると彼は頷く。
「だってあの場所から始まった恋は、あの場所から始まる愛の生活へと一段階上げておきたいんです。験を担いでいるようで申し訳ないけど」
「ううん。分かるわ。そういうのって大切。今、とても幸せですよ、わたし」
アラフィフ男とアラフォー女という世間的な年齢はこの二人には要らない。ふたりの間にある世界と生活に潤いと喜びがあれば、それが真の幸せなのだろう。二人の間に閉ざされていた天の岩戸は、どうやら深川神明のご神威なのだろうか、勢いよく開き始めた。
了
お江戸の風薫る神明社-恋と御縁の浪漫物語・深川編- 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami
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